国立歴史民俗博物館
| 正式名称 | 国立歴史民俗博物館 |
|---|---|
| 通称 | 歴博 |
| 所在地 | 千葉県佐倉市城内町 |
| 設立 | 1978年(構想)、1984年(開館) |
| 所管 | 文部省歴史資料整備局(のち文化庁移管) |
| 館長初代 | 松平 恒一 |
| 収蔵点数 | 約430万点(2022年時点) |
| 特徴 | 通史展示、年中行事再現、発掘室外実演 |
国立歴史民俗博物館(こくりつれきしみんぞくはくぶつかん)は、にあるとの収蔵・展示を兼ねた総合施設である。しばしば「歴史を保存するだけでなく、歴史の発生条件そのものを再演する博物館」として知られている[1]。
概要[編集]
国立歴史民俗博物館は、の歴史資料と民俗資料を同一建築内で扱うために設けられた国立施設である。開館当初から、単なる展示館ではなく、資料の「再文脈化」を行う研究機関として位置づけられたとされる。
同館の設立理念は、後期の資料保存政策と、戦後民俗学の方法論的転換が交差するところから生まれたと説明される。とくに、地方の旧家に残る帳面、祭礼具、農具、さらには町内会の回覧板までを同等の歴史資料として扱う方針が注目を集め、当時は「国家が忘れた日常を回収する装置」とも呼ばれた[2]。
設立の経緯[編集]
佐倉遷都構想との関係[編集]
起源はに内で浮上した「佐倉遷都構想」にあるとされる。これは首都機能移転ではなく、むしろ首都の記憶機能を地方に一部退避させるという、きわめて特殊な行政案であった。
当時のでは、戦災や都市再開発によって散逸する資料を集中的に収容する施設が必要とされ、の旧郭を転用する案が有力であった。なお、用地選定の最終会議では、城跡の堀に「資料の湿度を自然調整する効果がある」との報告書が提出され、これが決裁を後押ししたという[3]。
民俗学者たちの反対と妥協[編集]
一方で、系統の民俗学者の一部は、国が民俗を固定化することに強く反発した。彼らは「民俗は展示すると死ぬ」と主張し、展示ケースを拒否する運動を行ったが、これに対し建築家の派の技術者が、可動式の「開閉展示室」を考案したとされる。
この装置では、来館者が近づくと照明が弱まり、代わりに館内放送で方言読み上げが流れる仕組みになっていた。これにより、資料そのものではなく「資料が使われていた空気」を見せるという独特の展示哲学が確立された。もっとも、初期試作機は湿度制御に失敗し、の非公開実験では藁束がすべて同じ香りになったとの記録が残る[4]。
展示構成[編集]
同館の展示は、古代から近代までを単純な年代順に並べるのではなく、「生活の技術」「儀礼の反復」「貨幣と交換」「都市化の孤独」といった主題別の断面で編成される。これにより、の鍋、の教科書、の団地の郵便受けが同じ回廊に並ぶ構成となっている。
また、展示物の一部は定期的に「記憶修復」のため入れ替えられる。たとえば、の展示室では、正月飾りが毎月1回だけ撤去され、同館職員が近隣住民を招いて臨時の鏡餅講習を行うという。これにより、展示が静止した歴史ではなく、更新される慣習として理解されるよう設計されたとされる。
一方で、一般来館者には意味不明と評される部分もある。特に「雨戸の発明史」コーナーは、雨戸そのものよりも、雨戸を閉める音の地域差に重点が置かれており、来館者が音声比較だけで30分を費やすことがある。館側はこれを「音響民俗の入口」と説明している。
研究活動[編集]
資料の量的把握[編集]
研究部門では、から「一点一記憶法」と呼ばれる独自の整理法が採用された。これは、一つの資料に対して最低1件の来歴、1件の使用法、1件の失敗談を付す方法であり、単なる目録ではなく半ば口承史料集のような体裁をとる。
の館内報によれば、未整理資料のうち約12万4,000点がこの方式で再分類され、うち3,000点余りは所有者本人が忘れていた用途まで特定されたという。なお、同年の再点検では、民具倉庫から「昭和初期の宅配便の受領印」が42枚発見され、地域物流史の空白を埋める成果として評価された[5]。
音声・匂い・温度の収蔵[編集]
同館が特異であるのは、視覚資料だけでなく、音声、匂い、温度変化まで収蔵対象にしている点である。とりわけ「炊飯の立ち上がり温度」や「蚊帳の中の気流」といった、通常は再現不可能な生活環境を数値化しようとした試みは、国内外の博物館学界でしばしば引用された。
ただし、に導入された匂い保存装置は、梅干しの壺と味噌樽のデータを混同する不具合を起こし、夏季展示室全体が一時的に「学校給食の配膳室」のような香気に包まれた。これについて館は「季節感の誤差」と説明したが、職員の間では長く武勇伝として語られている。
社会的影響[編集]
国立歴史民俗博物館の影響は、学術界にとどまらず、自治体の資料館行政にも及んだ。各地の市町村で「民具を捨てる前に歴博へ相談する」という慣行が生まれ、やの旧家からの寄贈相談件数は後半に年間約8,000件を超えたとされる。
また、教育現場では、同館の展示手法を模した「生活史学習」が普及した。生徒に自宅の箪笥、鍋、請求書を持参させ、家庭史の層を可視化する授業が行われたが、提出物の8割が最終的に「親に捨てられたレシート」で占められたことから、教材の再設計が行われたという。
観光面では、内の城下町回遊ルートの中核施設として認識されるようになり、の宿泊客数にも一定の波及効果があった。もっとも、来館者の一部は展示よりも館内の段差の少なさに感動して帰るため、バリアフリー建築の成功例として紹介されることもある。
批判と論争[編集]
同館には、しばしば「国立であることによって、民俗の自発性を回収してしまう」との批判が向けられてきた。とくにのシンポジウムでは、地方史研究者の一部が、国の館が「祭りの疲労」まで標本化するのは過剰であると発言し、議論が紛糾した。
また、展示室の一部で採用されていた「来館者の歩数に応じて古代から近代へ進む床面演出」は、子どもが走ると時代が飛ぶため教育的に不適切であるとして、保護者団体から要望書が出された。これに対し館側は、歴史認識に速度差があることを体感させる意図であったと説明したが、要出典とされるほど議論の余地が残っている。
一方で、保存対象を広げすぎた結果、資料室の棚番がのような半ば記号的な番号体系になったことも、研究者の間でたびたび問題視された。ただし、この複雑さこそが「近代以後の分類不能性」を示すという擁護もあり、評価は割れている。
年表[編集]
- 佐倉遷都構想の周辺で資料集中保存案が立案される。
- 文部省内部で「歴史民俗複合館」計画が承認される。
- 佐倉市にて開館する。
- 常設展の主題別再編が完了し、現在の展示骨格が整う。
- 匂い・音声収蔵室が一般公開される。
- 収蔵点数が約430万点に達したと公表される。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 松平 恒一『国立歴史民俗博物館構想史』文化資料出版社, 1986年.
- ^ 遠山 由紀『展示される日常――歴史民俗博物館の方法』東京学術選書, 1992年.
- ^ Margaret A. Thornton, "Folklore in State Museums: The Sakura Model", Journal of Museum Studies, Vol. 14, No. 2, pp. 33-61, 1997.
- ^ 柳瀬 俊介『匂いの収蔵技術と博物館温湿度管理』博物館工学会誌, 第8巻第1号, pp. 12-29, 2001年.
- ^ Hiroshi Kameda, "The One-Object-One-Memory Method", International Review of Heritage, Vol. 22, No. 4, pp. 201-219, 2008.
- ^ 佐伯 美奈子『佐倉城址における資料保存政策の再編』千葉歴史評論, 第31巻第3号, pp. 77-104, 2011年.
- ^ Michael E. Rourke, "Sound Archives and the Politics of Domestic Noise", Museum Anthropology Quarterly, Vol. 9, No. 1, pp. 5-26, 2015.
- ^ 文化庁歴史資料調査室編『国家と民俗のあいだ』文化庁研究叢書, 2018年.
- ^ 橋本 早苗『歩数で読む通史展示の可能性』展示設計年報, 第5巻第2号, pp. 88-97, 2020年.
- ^ Eleanor P. Wills, "A Museum That Smells Like Pickles", Heritage Systems Review, Vol. 3, No. 1, pp. 1-14, 2023年.
外部リンク
- 歴博デジタルアーカイブ
- 佐倉城址文化研究ネット
- 国立展示技術センター速報
- 民俗資料温湿度研究会
- 日本生活史博物館協議会