坂本晴哉
| 氏名 | 坂本 晴哉 |
|---|---|
| ふりがな | さかもと はるや |
| 生年月日 | 6月17日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 生理化学研究者、大学講師 |
| 活動期間 | - |
| 主な業績 | 呼吸ガス自動計測装置の改良と、血清酸性度の標準化 |
| 受賞歴 | 10年「帝国学術賞(化学部門)」ほか |
坂本 晴哉(さかもと はるや、 - )は、の生理化学研究者。門下生が多い学派の創設者として広く知られる[1]。
概要[編集]
坂本 晴哉は、日本の生理化学研究者である。呼吸の研究において、血清の酸性度を“時間で揺れない指標”として扱う方法を確立したとされる。
門下生が少なくともおり、そのうちは海外留学後に同分野の講座を立ち上げたとして、当時の学会で“坂本流”と呼ばれた[2]。また、実験の記録用紙は一貫して同じ格子()で統一されていたとも伝えられる[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
坂本 晴哉は、6月17日、の醸造家の家に生まれた。幼少期から味噌蔵の温度帯を観察し、仕込み桶の表面に現れる泡の“立ち上がり秒数”を付箋に書き留めていたとされる[4]。
、のときに父が結核で退いたのち、家計を支えるために近隣の薬種問屋へ通うことになった。そこで出会った塩析の手順が、のちに“時間と酸性度を切り離す”発想へつながったと解釈されている[5]。
青年期[編集]
に東京の私塾「黎明化学館」へ入り、指導者であるに師事したとされる。渡辺は“理屈の前に、装置が嘘をつかないか確かめよ”という教訓を繰り返した人物で、坂本もまた計測の系統誤差を最優先で扱った[6]。
には、呼気ガスの吸収液をすぐに取り替えるべきだという説を、わずかの放置で再現性が崩れることから反証したとされる。このとき坂本が用いた吸収液は“炭酸水素カリウムと少量の銀塩”と説明され、当時の雑誌では「銀が歌う」と比喩された[7]。
活動期[編集]
からにかけて、坂本は内の工業系講習所で講義を持ち、同時に生理化学の研究を進めた。特にの改良では、気体量の読みを手作業から切り替え、回転軸の摩耗量をではなく“毎回の実験の前後で”記録する運用を導入したとされる[8]。
期に入ると、血清酸性度の標準化へと研究が広がった。坂本は、採血から測定までの間隔を「以内」とすることで誤差を抑えられると主張し、異論も出たが、のちに追試で支持された[9]。結果として同分野の研究は“手際の良さ”から“計測の制度”へ移行したと指摘されている。
10年には、帝国学術振興会が設ける「帝国学術賞(化学部門)」を受賞した。授賞理由は「血清酸性度の時間標準を提案した功績」とされ、式典では坂本自ら、記録紙の格子がから動かないように注意喚起したと報じられた[10]。
晩年と死去[編集]
晩年の坂本は、研究よりも門下生の教育に比重を置くようになった。特に、門下の実験ノートを一冊ずつ集めて照合する「室内照合会議」を始めたとされる。会議は毎週水曜の午前に固定され、遅刻すると“酸性度の香り”を書き残す罰があったと伝えられる[11]。
11月3日、坂本はで急性肺炎により死去した。死因については感染症説のほか、に伴う酸素摂取効率の低下を重ねて疑う声もあったが、最終的には当時の医学会の判断が優先された[12]。
人物[編集]
坂本 晴哉は、穏やかな口調でありながら、研究の手順に関しては妥協しない性格として記録されている。実験台に“濡れた布”が置かれたまま測定を始めることを嫌い、布を置くなら必ず時刻と目的を帳票に書けと求めたとされる。
一方で、雑談は妙に具体的だった。門下生がコーヒーを飲むときには、「焙煎後の粉砕から抽出まで、湯温はにせよ。これは誤差の比率を体で覚えさせるためだ」と言ったと伝えられる[13]。
また、講義では“嘘の装置ほどよく回る”という言い回しを用いた。これは、観測が整って見えるだけで、内部に偏りがあるときの挙動を指した比喩であると説明される[14]。
業績・作品[編集]
坂本の業績は、呼吸計測と血清酸性度の標準化に集約される。代表的な仕事として、呼気ガスの吸収液を自動交換する仕組みを組み込み、測定値の“ばらつき”を装置側ではなく採取側の要因として切り分ける方法が挙げられる[15]。
著作としては、に刊行された『酸性度時間標準と呼吸指標』が知られている。同書では、血清の酸性度を「測定の瞬間」ではなく「採取からの経過」に結びつけて扱う枠組みが提示されたとされる。なお、同書の第3章だけがやけに紙幅が厚いことが後世で注目され、そこには“実験者の姿勢角度”が相関したという謎の図が掲載されていたとも言及される[16]。
さらに、門下向けの便覧として『黎明化学館 室内照合手引(第2版)』を編纂したとされる。便覧は公刊されず、複写された部数がに達していたという記録が残るとされるが、これも当時の学内通信の性質上、正確さには疑問が呈されている[17]。
後世の評価[編集]
坂本 晴哉の研究は、計測の“時間”を中心に制度化した点で評価されたとされる。特に、後の生理化学者は坂本の「ルール」を引用し、採取手順の統一がデータの信頼性を左右すると論じた[18]。
一方で批判もある。たとえば、血清酸性度の標準化が広く普及した結果、採取条件よりも“採取者の運用”が注目されすぎたという指摘がなされた。また、装置の自動化が進むほど、現場の研究者が原理を検証しなくなる危険があるとして、坂本流に依存しすぎた研究が一時期“似た値が出るだけの科学”に見えるという声も出た[19]。
それでも、門下の分岐先が多かったことが影響力の裏付けとされている。門下生の中には、ではなく“呼吸の微小揺らぎ”へ関心を移した研究者もおり、学派の輪郭が一つに閉じなかった点が、功罪を分けて語られている[20]。
系譜・家族[編集]
坂本家は水戸周辺の醸造系のつながりを残していたとされる。坂本はに婚姻し、妻はの旧商家出身の(旧姓:高橋)であったと伝えられる[21]。
二人の間にはとが生まれ、長男はのちに教育行政に入り、実験ノートの保存制度を学校に導入したという逸話が残る。長女は医学系の翻訳に携わり、欧文論文を“図の順番”を崩さずに直すことで知られたとされる[22]。
門下の系譜については、坂本が教育した研究者のうち、少なくともが独立した講座または研究室の運営に関与したと記録される。とりわけの3名が“標準化の工学化”を進めたことで、坂本の名前は学派の系譜に織り込まれ続けたとされる[23]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 坂本 晴哉『酸性度時間標準と呼吸指標』黎明書院, 1912年.
- ^ 渡辺精一郎『計測誤差は手順で決まる』内外学術社, 1908年.
- ^ 相馬 清風「血清酸性度の時系列再現性に関する研究」『日本生理化学雑誌』第14巻第3号, 1919年, pp. 201-234.
- ^ 小野 亜里砂「呼気吸収液の交換タイミングが与える影響」『化学研究年報』Vol. 7, 1921年, pp. 55-93.
- ^ 北条 直綱『実験ノート照合論』成文堂, 1926年.
- ^ Margaret A. Thornton「Standardization of Biological Acidity in Early Laboratory Culture」『Journal of Experimental Physiology』Vol. 3, No. 2, 1924年, pp. 77-118.
- ^ Jean-Pierre Lemaire「Automated Gas Handling and the Myth of Precision」『Revue Internationale de Chimie Médicale』第2巻第1号, 1927年, pp. 10-44.
- ^ 帝国学術振興会編『帝国学術賞受賞者名簿(大正十年)』帝国公報局, 1921年.
- ^ 『黎明化学館通信』第6号, 【1905年】, pp. 1-12.
- ^ 内藤光春『研究室の暦学:午前九時会議の効用』青潮出版, 1931年.
外部リンク
- 坂本晴哉研究アーカイブ
- 黎明化学館デジタル資料
- 帝国学術賞データベース
- 呼吸ガス計測装置ギャラリー
- 血清酸性度の歴史的標準