多摩川の赤化
| 名称 | 多摩川の赤化 |
|---|---|
| 時代 | 安土桃山時代末期 - 江戸時代前期 |
| 地域 | 多摩川流域、府中台地、下流沿岸部 |
| 性格 | 水質変化・儀礼・税制改革の複合現象 |
| 中心人物 | 戸田宗左衛門、マルティン・ヴェラ、梶原おゆう |
| 発端 | 赤土鉱の試験採取と絹染めの失敗 |
| 主要文書 | 『赤水覚書』、『川筋色目録』 |
| 影響 | 水利権の再配分、染物組合の成立、河岸祭礼の定着 |
多摩川の赤化(たまがわのせっか)は、末から初頭にかけて流域で断続的に進行したとされる、水系の赤色化現象およびそれを巡る政治的・宗教的再編を指す歴史用語である[1]。後世の知識人によって体系化された概念とされ、治水・染色・儀礼が一体化した事例として知られる[2]。
概要[編集]
多摩川の赤化とは、の一部が季節的に赤褐色へ変じた現象を起点に、その水をめぐって自治組織、染色職人、僧侶、測量家が結びついた一連の歴史過程をいう。近世では、川の色は単なる自然現象ではなく、領主の統治能力と共同体の浄化観念を映す指標とみなされていた。
このため赤化は、水害史でも産業史でも宗教史でも説明されるが、実態はそれらの境界が曖昧であった点に特徴がある。とくにの染屋座が提出した『赤水覚書』以後、赤い川を「禁忌の色」と見る説と、「染料経済を支える恩恵」と見る説が併存し、議論は期まで尾を引いたとされる[3]。
前史[編集]
赤土鉱の試験採取[編集]
起源はごろ、上流の崖地で赤土鉱と呼ばれる鉄分の強い粘土が採取され、これを川へ洗い流したことにあるとされる。採土を請け負ったの土木請負人・戸田宗左衛門は、後に「水が血のように見えたのは日の加減である」と弁明したが、同時代の記録では、子どもが川辺で魚を拾わなくなったことまで記されている[4]。
染屋座と朱色の競争[編集]
一方で、から移入された茜染め職人は、赤化した川水が染料の定着を異常に高めることを発見した。これにより、川を「汚れ」と見る農民と、「媒染液」と見る職人の対立が生じたのである。史料上は些細な技術差であるが、実際には年貢の納入形態が布地中心へ移ったため、領主側が強く介入する契機となった。
展開[編集]
赤川改めの制定[編集]
、府中奉行所は川筋の赤みを「赤川改め」として毎月一度測定する制度を導入した。測定には白磁皿と柿渋縄が用いられ、赤みが七分を超えると上流の湧水口が封鎖されたという。なお、当時の記録には「赤さ三厘不足にて再検」といった、現代の感覚では極めて奇妙な行政表現が見られる[5]。
マルティン・ヴェラの介入[編集]
には、イベリア系の測量修道士マルティン・ヴェラが経由で招かれ、流速と色相の関係を測定した。彼は川岸に九つの観測杭を打ち、朝夕で赤みが変化することを報告したが、同時に「日没時には色が政治的に濃く見える」と述べたため、奉行所文書の一部は宗教警戒文書として扱われた。
この報告書は後に『川筋色目録』として写本化され、の薬品目録と併せて読まれたとされる。もっとも、現存する写本のうち一部は墨の酸化でさらに赤くなっており、史料批判を困難にしている。
梶原おゆうの水封儀礼[編集]
赤化が最も広く知られるようになったのは、に巫女の梶原おゆうが行った「水封儀礼」である。おゆうは赤い川水を七つの壺に分け、うち三つを河岸のへ、二つを染屋座へ、残り二つを村役人へ配った。これにより、川の色を共同で所有するという発想が成立したとされ、以後の河川管理は単なる土木事業ではなく、配分の儀式として理解されるようになった。
ただし、同年の米価上昇と偶然重なったため、民衆の間では「川が赤い年は相場も赤い」といった俗信が生まれた。後世の研究者の一部は、これを日本最初期の色彩経済学の萌芽であると評している。
社会的影響[編集]
多摩川の赤化の影響は、まず一帯の水利権再編に現れた。従来は用水ごとに管理されていた水が、赤みの濃淡によって「上赤」「中赤」「薄赤」に区分され、各村の取水日が細かく定められたのである。これにより紛争件数は一時増加したが、逆に境界の明文化が進み、後半には河岸の立札が異様に整備された。
また、染色業には予想外の好影響があった。赤化水はとくにに対して朱殷色を安定させるため、の織元はこれを「川朱」と称して高値で取引した。記録によれば、ある年には一反あたり通常の1.8倍、最盛期には2.3倍の値がついたという。もっとも、同じ水で洗うと白布が半日で赤茶けるため、生活用水としてはきわめて不評であった。
宗教面では、赤化した川は「罪を流すのではなく、色を留める川」として再解釈された。河岸の小祠では、春の彼岸に赤い団子ではなく赤い砂を供える習俗が広まったが、これが近隣のにより「食べられない供物」として批判された記録が残る。結果として、供物の赤砂を御神酒に溶かす妥協案が生まれたという。
論争と評価[編集]
近代以降、多摩川の赤化をめぐっては、自然地質による一時的な着色にすぎないとする説と、近世の統治技術が川の色を制度化したとする説が対立した。前者は地質学者の『多摩川底泥志』に代表され、後者は文化史家の『The Politics of Scarlet Water』に依拠することが多い[6]。
なお、の河川改修工事で赤い堆積層が大量に掘り出されたことから、現地では再び「赤化」が話題となったが、作業員の昼食に配られたトマト缶詰の影響であるとの指摘もある。もっとも、この説明は便利すぎるため、現在では半ば伝承として扱われている。
研究史上の転機は、の調査班が、赤化関連文書の署名に同一の筆跡が集中していることを示した点である。これにより、複数の文書が後世の写本ではなく、ひとりの書記官が「川の赤さ」を長期にわたり演出していた可能性が浮上した。いわば、赤化は現象であると同時に、編集された歴史でもあったのである。
現代の継承[編集]
現在の多摩地域では、赤化を直接再現する行事は行われないが、毎年の「川筋色見会」で、赤みを帯びた河岸土を紙皿に盛って観察する慣習が残る。参加者は流速・透明度・照度を記録し、最後に赤い羊羹を食べるのが通例である。
また、沿岸の染色工房では、赤化伝承を題材にした「半赤染め」が土産品として販売されている。これは布の片側だけを赤く染める技法で、観光客には人気であるが、洗濯指導が長すぎることで知られる。
一方で、の環境保全運動の一部は、この歴史を「水をめぐる人間の欲望の記憶」として引用している。赤化はもはや実際の川色ではなく、地域が自らの変化を語るための比喩として生き残っているのである。
脚注[編集]
[1] 佐伯隆之『川と色彩の制度史』河岸書房、2008年、pp. 41-58。 [2] Margaret A. Thornton, "Scarlet Rivers and Fiscal Order", Journal of Imaginary Hydrology, Vol. 12, No. 3, 2011, pp. 201-229. [3] 『府中町奉行日記』寛永写、上巻、12丁裏。 [4] 山村伊左衛門『赤土採掘控』武蔵地方史料刊行会、1997年、pp. 9-13。 [5] 渡辺精一郎「多摩川流域における赤川改めの行政記録」『近世河川研究』第4巻第2号、1988年、pp. 77-104。 [6] Emily J. Horton, The Politics of Scarlet Water, Cambridge River Studies Press, 2015, pp. 88-93。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯隆之『川と色彩の制度史』河岸書房, 2008.
- ^ 渡辺精一郎「多摩川流域における赤川改めの行政記録」『近世河川研究』第4巻第2号, 1988, pp. 77-104.
- ^ Margaret A. Thornton, "Scarlet Rivers and Fiscal Order", Journal of Imaginary Hydrology, Vol. 12, No. 3, 2011, pp. 201-229.
- ^ 山村伊左衛門『赤土採掘控』武蔵地方史料刊行会, 1997.
- ^ Emily J. Horton, The Politics of Scarlet Water, Cambridge River Studies Press, 2015.
- ^ 戸田宗左衛門『多摩川沿岸土木諸留』府中古文書研究会, 1964.
- ^ マルティン・ヴェラ『川筋色目録注解』長崎南蛮文庫, 1972.
- ^ 梶原おゆう記念会編『水封儀礼と地域社会』多摩文化叢書, 2010.
- ^ 小嶋直人『赤色水と近世市場』経済古文書刊行会, 2001.
- ^ Helena W. Pritchard, "River Dyes and Ritual Jurisdictions", Proceedings of the Inland Empires Society, Vol. 7, No. 1, 2004, pp. 15-39.
外部リンク
- 多摩河岸史料アーカイブ
- 近世色彩制度研究所
- 武蔵水文文化データベース
- 府中歴史編纂室
- 川筋民俗図書館