大塔銅山跡
| 名称 | 大塔銅山跡 |
|---|---|
| 種類 | 鉱山跡(坑道遺構・選鉱場基壇) |
| 所在地 | |
| 設立 | 29年(推定) |
| 高さ | 大塔(崩落前推定) 約41.7m |
| 構造 | 煉瓦積みの塔状換気施設+坑道網(全長推定2.36km) |
| 設計者 | 白鶴鉱業技師団(主務:森川清弥) |
大塔銅山跡(おおとうどうざんあと、英: Ōtō Copper Mine Ruins)は、にある[1]。坑道内が暗く、当時の誘導灯がほとんど回収されたとされることから、「二度とかえって来れない」と語られた逸話が残る[2]。
概要[編集]
大塔銅山跡は、の湿原縁に残る鉱山跡であり、特に「大塔」と呼ばれた換気・誘導のための塔状施設、および坑道遺構がまとまって保存されているとされる[3]。
現在では立入は制限されているが、明治期の採掘計画があまりに急進的だったために、坑道内の暗所が原因となる遭難が多発し、「二度とかえって来れない」という地域口承が成立したと説明される[2]。この口承は観光向け語りとしても流通し、夜間採掘の風習があったかのように語られることがある。
また、近傍には選鉱場の基壇と、鉱石運搬用の簡易軌道跡とみられる切り通しが残り、坑道規模の割に地上施設が丁寧に設計された痕跡が見られるとされる。なお、塔の崩落年については複数の説があり、これが「暗さ」と「帰らなさ」を結びつける物語装置になったとも指摘される[4]。
名称[編集]
「大塔銅山跡」という名称は、現地案内板において「大塔」に由来するとされている[5]。大塔とは、本来は坑道の呼吸を保つための換気・誘導塔であり、坑道内の方位を示す灯具が組み込まれていたと伝えられる。
「銅山跡」部分については、銅を主目的とした採掘であることから通称として定着したと説明されるが、実際には銅とともに硫化鉄や微量金属が随伴して採取されたという記録が残るとされる[6]。ただし、これらの随伴成分がどの程度利益を生んだかは史料の欠落により不明とされる。
なお、口承では「大塔の灯は回収され、帰り道が消えた」とされることがあり、この言い回しが観光パンフレットに取り込まれて、現在の呼称のニュアンスを強めているとされる[7]。
沿革/歴史[編集]
発見と急進的な開坑計画[編集]
大塔銅山跡は、期に「白鶴鉱脈」の存在が噂され、の現場監督が釧路郡周縁で採石層を調査したことにより注目されたとされる[8]。当時の報告書では、採掘開始までの準備期間が「わずか87日」と記されているとされ、通常の地質調査よりも速いペースだったことが窺える[9]。
その結果、坑道網の設計は「先に穴を掘り、あとで効率を詰める」方針で進められたとする見解がある。坑夫の証言として伝わった書付では、初期の坑道分岐は「3本→9本→27本」と三段階で拡張されたとされ、拡張のたびに換気のやり直しが入ったと説明される[10]。この急ぎが後年の暗所化を招いた可能性があるとされる。
また、塔状換気施設は「塔の下ほど風が冷たく、方角が揺れない」という現場学則に由来し、塔の建設が先行されたとされる。塔の高さは崩落前推定で41.7mとされ、丸めない数値がやけに具体的であることから、設計監督が記録に執着していたのではないかと推測されている[1]。
誘導灯の回収と「二度とかえって来れない」伝承[編集]
大塔銅山跡で語られる核心は、坑道に設置された誘導灯が、閉山直前に一括で回収されたという逸話である[2]。口承では「灯は“次の工区のため”に上げられ、残ったのは暗がりだけだった」とされ、結果として夜勤の帰還者が道を見失ったと説明される。
ここには、当時の契約慣行が関与したとする説がある。すなわち、の資材管理規程では、誘導灯の貸与が「1区画につき月割り」で計算され、回収が遅れるほど罰金が発生したとされる[11]。この規程は現存する写しが少ないため、内容の完全性には疑義があるものの、「貸与と回収が物語を作った」という見方がある。
一方で、塔が実際にどの年に停止したかについては、の災害報告書が「3年に運用停止」とするのに対し、町内記録では「2年の秋、最初の霧害で一部運休」とするため、整合しないと指摘される[12]。このズレが、遭難の時期を一層曖昧にし、伝承が自由に膨らむ余地になったとも考えられている。
閉山後の利用と地上施設の残存[編集]
閉山後、坑道は一時的に貯蔵空間として転用されたとする伝承もある。選鉱場基壇は石材を再利用され、のちに簡易避難小屋が併設されたという[13]。ただし、この避難小屋の存在を裏づける写真はほぼ残っておらず、現地で見つかる焼け跡状の痕跡から「熱源があった可能性」が推定されている。
大塔の残存については、塔の内部にあったとされる煉瓦の控え壁が、崩落時に坑道の入り口を塞いだため、結果として“帰れない”イメージが固定化したという説がある。特に、崩落時の落石が入口前に「幅2.1m、厚さ0.35m」で堆積したと記録されているとされ[14]、このような寸法が口承と結びつくことで、伝承がより具体的になったと説明される。
このように、歴史の解像度と現場の断片が結びつき、大塔銅山跡は単なる廃坑ではなく、暗所の記憶を持つ施設として語られるようになったとされる。
施設[編集]
大塔銅山跡の主要施設は、(1)大塔と呼ばれた換気・誘導塔、(2)坑道網(遺構)、(3)選鉱場基壇、(4)簡易軌道跡とみられる搬出導線である[3]。
大塔は煉瓦積みの塔状構造として記述され、換気のために横断ダクトが複数層に設けられていたとされる。現地調査では、崩落後も塔の下部に「円形の通気孔」が残ると報告されており、孔径は「直径12.4cm」という記載がある[15]。この数値が、灯具の固定金具と一致するように語られることが多い。
坑道網は全長が推定2.36km規模であったとされる。ただし実測値ではなく、報告書の換算係数(1区画=78m)を用いた推定であるため、誤差の可能性は残るとされる[1]。さらに坑道のうち、分岐の多い区画は「第B帯」と呼ばれ、足場が不安定になりやすかったと記録されている。
選鉱場基壇は、崩れた煉瓦に含まれる鉱物片から当時の工程が推定されるとされる。工程の説明書には、乾燥工程が「蒸し時間 43分+冷却 19分」と書かれていたという伝聞があり、なぜか2つの数字がセットで語られることが多い[16]。また、簡易軌道跡は湿地を避けて掘られたとされ、地形に合わせた迂回が多い点が特徴とされる。
交通アクセス[編集]
大塔銅山跡へは、道内のローカル路線バスと町内巡回の組合せで到達するとされる[17]。最寄りの停留所は「白鶴町大塔前」と案内され、停留所から遺構まで徒歩で約1.8kmとされている。
鉄道を起点にする場合、最寄りの駅としての「釧路白鶴駅」が挙げられることが多い。駅から現地まではタクシーで約22分とされるが、湿地の路肩が狭く、通行可能時間が季節により変動するため、冬季は「迂回ルート」が案内されることがある[18]。
なお、夜間の立入は安全上の理由で制限されるとされるが、伝承を求めて訪れる来訪者が多い。そこで町が独自に整備した「灯の見取り線」と呼ばれる擬似的な導線(地面に色石を配置したもの)が、現在の観光導線に組み込まれていると説明される[19]。ただし、導線は歴史的根拠のある施設ではないとの注意も添えられている。
文化財[編集]
大塔銅山跡は、遺構の一部が「産業遺産相当」として扱われ、現在でも保存・調査の対象として位置づけられているとされる[20]。具体的には、塔基部の煉瓦列と、坑道入口周辺の石組みが重点管理区域に指定されているという。
また、町の説明では「大塔の換気孔(孔群)」が意匠的価値を持つものとして、来訪者向けの解説パネルの題材にされている[21]。一方で、坑道内部は不安定であるため、文化財指定の範囲は地上部分にとどめる方針が取られているとされる。
このほか、地域では「大塔銅山の技術伝承」として、現地の語り(誘導灯回収の話や、霧害による運休説など)が無形の文化として紹介されることがある。ただし、口承の真偽については学術的には検証が十分ではないとする見解もある[22]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 白鶴鉱業株式会社『白鶴鉱区沿革記(複写)』白鶴鉱業、【1912年】。
- ^ 森川清弥『坑道換気の簡易設計と現場適用』白鶴技師会、【1910年】。
- ^ 北海道庁『鉱山災害概況報告 第4回』北海道庁、【1915年】。
- ^ 釧路郡白鶴町『大塔銅山口承調査録』白鶴町教育委員会、【1931年】。
- ^ K. Tanabe, M. Hoshino『Hydraulic Draft in Brick Vent Towers: A Historical Reconstruction』Journal of Northern Industrial History, Vol. 12, No. 3, pp. 101-134, 2008.
- ^ E. Sato『Mine Ruins and Urban Legends: Lighting Practices in the Meiji Period』Proceedings of the Society for Folklore Engineering, Vol. 5, No. 1, pp. 55-73, 2019.
- ^ 【嘘】R. Whitlock『Copper Routes of the Eastern Marshlands』Clarendon Press, 1974.
- ^ 白鶴技師会『現場学則集(増補版)』白鶴技師会、【1909年】。
- ^ S. Nakamura『Sealed Entrances and Recovery Myth in Abandoned Workfaces』International Review of Industrial Archaeology, Vol. 27, No. 2, pp. 201-219, 2016.
- ^ 北海道立図書館『鉱山写真目録(白鶴町分)』北海道立図書館、【1982年】。
外部リンク
- 白鶴町観光案内(大塔銅山)
- 北方産業遺産デジタルアーカイブ
- 白鶴鉱区データベース
- 坑道安全文化フォーラム(灯の見取り線)
- 地域口承コレクション・白鶴