大日本共和国
| 正式名称 | 大日本共和国 |
|---|---|
| 通称 | 大共和 |
| 提唱時期 | 1897年-1914年ごろ |
| 提唱者 | 渡辺精一郎、久世源蔵ほか |
| 中核機関 | 大日本地方自治同盟 |
| 影響地域 | 東京都、京都府、大阪府、北海道 |
| 理念 | 天皇統合・府県主権・輪番行政 |
| 派生制度 | 回転知事制、白票大臣制 |
| 主な文書 | 『帝国共和綱要』 |
| 評価 | 官僚制の肥大化を促したとされる |
大日本共和国(だいにっぽんきょうわこく、英: Greater Japan Republic)は、後期から初期にかけて提唱された、を維持しつつ地方自治を極端に拡張したとされる架空の国家構想である。しばしばとの権限配分をめぐる「半立憲共和制」として言及される[1]。
概要[編集]
大日本共和国は、国家の近代化が頂点に達した時期、の拡張論と地方分権論が奇妙に結びついて生まれた政治構想である。中央集権を弱める一方で、国号の威厳だけは維持するという発想が特徴で、当時の新聞では「名は帝国、実は共和国」と揶揄された[2]。
この構想は、のちにの地方改良政策、法学部の若手研究者、ならびに大阪の商工会議所系の実業家らによって断続的に支持されたとされる。なお、一部の資料では、最初の草案がの料理旅館の帳場で書かれたと記されているが、確認できる一次史料は少ない[3]。
成立の経緯[編集]
地方自治同盟の結成[編集]
1897年、横浜の港湾倉庫を転用した集会場で、渡辺精一郎らがを結成したのが起点とされる。同盟は当初、治水と道路整備の財源を府県に直接配分するよう求める穏健な団体であったが、会合を重ねるうちに「各府県が小さな共和国として機能し、天皇がそれらを束ねる」という案へ傾斜していった。
この時期の会計帳簿には、の印刷業者から届いた大量の赤い表紙の綱領冊子が記されており、1万2,400部が3週間で配布されたという。もっとも、同盟事務局の保管記録は関東大震災で失われたため、部数には誇張が含まれるとの指摘もある。
帝国共和綱要[編集]
1902年に刊行された『』は、大日本共和国の基本文書とみなされる。文書は全48条からなり、を公選としつつ、相当機関を年4回の輪番で各地から選出することを定めた。また、首都機能はに置くが、行政実務の半分をとで交代執行するという、現実にはほぼ運用不能な規定も含まれていた。
著者は久世源蔵とされるが、実際には複数の法学徒が夜通し回し書きしたのではないかとする説が有力である。用語の統一が甘く、同じ条文中に「国民」「臣民」「府県民」が混在している点は、後年の研究者の好んで論じるところとなった。
制度設計[編集]
回転知事制[編集]
大日本共和国の最も知られる制度が回転知事制である。これは知事を固定せず、・・・など7府県を1組にまとめ、任期2年ごとに互いの行政官を交換する仕組みであった。理論上は汚職防止に寄与するとされたが、実務上は方言の差と地理感覚の混乱により、初年度だけで14件の辞職願が出されたと記録されている。
特にからへ赴任したある行政官は、冬季の除雪予算を「道路を白く塗れば節約できる」と誤解したため、札幌の新聞がこれを大きく報じた。この逸話は、回転知事制の無理を象徴するものとして、現在でも行政史の講義で引用されることがある。
白票大臣制[編集]
白票大臣制は、内閣の閣僚候補を事前に1名へ固定せず、議会が白票のまま選出を進める制度である。これにより、各府県会派の合意形成が促されると期待されたが、実際には採決に平均17日を要し、1899年の試行では農商務大臣が空席のまま補助官3名で代行した。
一方で、この制度は後のに奇妙な影響を与えた。候補者が政策よりも「字がきれいであること」「控え室で静かに待てること」を重視されたため、選挙ポスターに書道家の署名が付く慣行が生まれたという。
国号と儀礼[編集]
国号に「共和国」を含めながら天皇を中心に据えるという矛盾は、当時から議論を呼んだ。支持者は、共和国とは主権が国民にあることではなく、国の象徴が「公」たることであると再定義したが、この説明はしばしば演説会で30分以上の混乱を生んだと伝えられる。
の講演会では、神道家と法学者が同じ壇上で「共和」の意味をめぐって激論し、最終的に会場の誰もが納得しないまま拍手で閉会した。のちにこの種の儀礼的合意形成は「京洛式可決」と俗称された。
社会的影響[編集]
大日本共和国は国家として実現しなかったが、地方政治、大学法学、新聞風刺の三領域に長く影響を及ぼしたとされる。系の紙面では、同構想を題材にした風刺漫画が1904年から1907年にかけて少なくとも63回掲載され、うち18回は知事役が必ずに描かれていたという。
また、の演習では、学生に「府県が独自通貨を発行できるか」を論じさせる課題が出され、毎年ひとりは必ず「可能である」と書いて落第寸前になったと回想されている。こうした半ば冗談のような議論は、後年の地方財政法制において、実務家が「共和国的語彙」を避ける一因になったともいわれる。
商業面では、の輸入文具店が「共和国印の封筒」「白票用紙」「輪番印鑑」を販売し、1908年には月平均2,300円の売上を記録したとされる。もっとも、商品は実用よりも珍品需要が中心であり、政治運動が一種の都市文化として消費された点は見逃せない。
批判と論争[編集]
最大の批判は、制度が過度に複雑で、国家運営をほぼ会議の芸に変えてしまう点にあった。特に官僚の一部は、回転知事制によって災害対応が遅れると警告し、1909年の豪雨時には「現地着任後に現地を学ぶ制度は、豪雨より先に知識が流される」と記した内部文書が残る[4]。
また、支持者の一部が「大日本共和国は実体ではなく教育装置である」と主張したことも、論争を呼んだ。これは国制改革を実現するための青写真ではなく、官僚に地方を覚えさせるための巨大な討論装置だという意味であったが、反対派はこれを「税金で作る学芸会」と批判した。
なお、1906年の東京市内演説会で、ある活動家が「共和国とは毎朝洗濯した襟のようなものだ」と比喩した発言は、当時の記録では名言として扱われたが、後世の研究では酒席での失言を編集者が美化した可能性が高いとされる。
後世への影響[編集]
戦後行政学への継承[編集]
戦後になると、大日本共和国の文書群はほぼ忘却されたが、地方自治の研究史ではしばしば「失敗した先行実験」として再評価された。とりわけの行政学者は、同構想の輪番制を「非効率の極北」と呼びつつ、逆に中央集権の弊害を考える素材として重用した。
のゼミでは、『帝国共和綱要』の条文を1条ずつ現代語訳させる授業が行われ、学生からは「これは法文ではなく禅問答である」との感想が寄せられたという。
サブカルチャー化[編集]
1970年代以降、大日本共和国は漫画、演劇、パロディニュースの定番素材となった。特にの小劇団が上演した『輪番の人々』は、知事役が毎幕ごとに衣装を交換するだけの構成であったにもかかわらず、2か月で全31公演が満席になった。
また、インターネット時代には「白票大臣診断」と称する冗談ツールまで作られ、質問に答えると自分がどの府県の臨時大臣向きかが判定される仕組みが流行した。こうした二次創作的展開は、構想の荒唐無稽さがむしろ参加型の笑いを生んだ例とされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『帝国共和綱要とその周辺』青灯社, 1903.
- ^ 久世源蔵『府県主権論序説』東都法政出版, 1904.
- ^ 佐伯常吉『明治後期地方自治運動史』行政学会, 1938.
- ^ Margaret A. Thornton, "Rotating Governors in East Asian Constitutional Thought," Journal of Comparative Civic Systems, Vol. 12, No. 3, 1971, pp. 201-238.
- ^ 山脇克己『白票大臣制の実務と失敗』地方制度研究会, 1956.
- ^ Hiroshi Kanda, "The Great Japan Republic and the Grammar of Publicness," Modern Constitutional Review, Vol. 8, No. 1, 1984, pp. 44-79.
- ^ 田所秋水『大日本共和国風刺史』北斗文庫, 1967.
- ^ Jean-Luc Moreau, "Ceremonial Consensus and the Japanese Provincial Republic," Revue d'Histoire Politique, Vol. 19, No. 2, 1992, pp. 88-117.
- ^ 内藤清『回転知事制の行政実験』大蔵行政叢書, 1911.
- ^ A. B. Feldman, "Blank Ballots and Symbolic Cabinets," Comparative Bureaucracy Quarterly, Vol. 5, No. 4, 2001, pp. 310-332.
- ^ 小野寺文雄『大共和と京洛式可決』関西政治文化社, 1974.
外部リンク
- 大日本共和国文書館
- 地方自治史デジタルアーカイブ
- 帝国共和綱要研究会
- 近代政治風刺図版集
- 東京法制史資料室