大毛娃帝国
| 正式名称 | 大毛娃帝国 |
|---|---|
| 通称 | 毛娃国、毛帳国 |
| 成立 | 892年ごろ |
| 滅亡 | 1238年ごろ |
| 首都 | ナグル・カラ、のちにサルガン |
| 公用語 | 大毛娃語、草原共通語 |
| 宗教 | 天馬信仰、祖霊崇拝、後期に一部 |
| 政体 | 遊牧帝政 |
| 主要通貨 | 毛輪銭 |
| 現在の領域 | 西部、南部、北東部にまたがるとされる |
大毛娃帝国(だいもうわていこく、英: Great Mao-wa Empire)は、北岸から西方のにかけて存在した遊牧帝国である[1]。末から前半にかけて存続したとされ、後世には「毛を束ねた旗と、乳脂で固めた公文書」で知られる[2]。
概要[編集]
大毛娃帝国は、末に草原の毛皮交易と家畜徴発を背景として成立したとされる遊牧国家である。名称の由来については、建国者が所有した「極端に毛深い白馬」の名から採られたとする説と、徴税単位として用いられた羊毛束の数量記号「大毛」が語源であるとする説がある[3]。
この国家は、流域の交易拠点との牧地を結ぶ中継国家として繁栄したが、宮廷儀礼の複雑化と冬営地の拡張に失敗したことで、前半に急速に分裂したとされる。なお、同帝国の行政文書は羊脂で防湿されていたため、現代の文献学では「保存状態が良すぎて逆に読めない」という奇妙な問題が指摘されている[4]。
建国[編集]
建国伝承によれば、、河畔の会盟でが七つの氏族を統合し、天幕一万二千張を束ねて即位したことに端を発する。即位式では、黒羊の背に金属製の鞍を載せ、その上に羊毛の冠を置く儀礼が行われたという。
一方で、近年の研究では、実際には沿岸の交易同盟が後世に帝国化されたものであり、帝位は軍事指導者ではなく「最も多くの毛布を寄進した者」に与えられたとする説が有力である。初期の法体系は口伝であったが、に宰相が産の白樺皮へ刻ませた『三百八条の毛規』を編纂したとされる[5]。
発展期[編集]
には、系の商人や系の書記官が流入し、式の会計と草原の口承税制が併用されるようになった。これにより、帝国の徴税は「家畜1,000頭ごとに毛束17束、冬期には追加で乳桶3樽」という極めて精密な単位で行われたと記録されている。
また、に創設されたとされる「毛文院」は、外交文書を毛織物に縫い込む制度で知られる。これにより、近隣諸国との国境紛争は激減したが、反面、雨季には条約が縮み、条文の位置がずれるという珍事が頻発した。とくにとの間で交わされたとされる『短毛協約』は、写本によって条項数が31条から44条まで揺れており、研究者を悩ませている[6]。
全盛期[編集]
帝国の全盛期は中葉、遷都後のからごろとされる。この時期、東は西岸、西は支流域にまで影響力を及ぼし、草原交易の三分の一を掌握したという。
とくにの時代には、各部族に配布される「行軍用毛織外套」が制度化され、兵士は寒冷地でも丸三日間の夜営が可能になったとされる。また宮廷では、祝宴のたびに羊乳を発酵させた白濁酒が壺単位で振る舞われたが、これが会議の長文化を招き、帝国の政策決定速度は平均して1案件あたりに達したとする推計もある[7]。
この遅さは弱点である一方、周辺諸国からは「決断が遅いが税率も変わらない」として信頼され、交易路の安全保障に寄与したと評価されることがある。なお、帝国軍の旗印は、銀糸で縫った馬鬣を束ねたもので、風向きによっては軍勢の進軍方向が遠くから判別できたため、奇襲には不向きであった。
衰退と滅亡[編集]
末から初頭にかけて、大毛娃帝国は冬営地の過密化、後継争い、及び毛織物課税の過重化により徐々に衰退した。とくにの「三毛饉」と呼ばれる家畜伝染病では、推定頭の羊が失われ、財政基盤が大きく揺らいだ。
さらに、帝位継承をめぐって系と系の二大分派が対立し、宮廷文書に「祖父の毛色をめぐる訴訟」が増加したことが知られている。最終的には、系の遠征軍に圧迫され、サルガンが放棄されたとされるが、旧宮廷の書庫だけは毛布で包まれて移送されたため、一部の法典はその後もの修道院で参照され続けたという。
遺産と影響[編集]
大毛娃帝国の影響は、政治制度よりもむしろ交易文化と衣装文化に残ったとされる。草原地帯の一部では、冬用外套を指して現在も俗に「毛娃」と呼ぶ方言が残り、また地方の婚礼儀礼では、花嫁の背後に羊毛束を置く慣習が帝国期の名残であると説明されることがある[8]。
学術的には、帝国の最大の遺産は「移動する国家」の概念を極端に発展させた点にある。固定首都を持ちながらも、実質的な行政中心は毎年冬の間に変わり、、、の三地を巡回したとされる。この巡回制は、のちの末期の臨時宮廷制度に影響を与えたという説もあるが、直接的な証拠は薄い。
なお、20世紀後半にはの民族博物館で「毛輪銭」らしき円盤が展示され、来館者の間で一時的なブームとなった。ただし、後にそれが実はの農業用滑車の部品であった可能性が指摘され、展示ラベルは静かに差し替えられた。
研究史[編集]
19世紀の草原史研究[編集]
大毛娃帝国の研究は、末の地理学協会において本格化したとされる。は、サンクトペテルブルクで発見された羊毛束の目録から帝国の存在を推定し、当初は周辺部族の誇張伝承とみなされた。しかし彼の報告書『毛の帝国論』は、妙に具体的な税率と冬営地座標を含んでいたため、後の研究の起点となった。
一方、の会議では、帝国史の資料は「毛皮商人の帳簿に埋もれた国家」であると表現され、以後の研究者は行政史と経済史の両面から接近するようになった。
20世紀後半の再評価[編集]
には、の比較遊牧研究班が、帝国の法令が単なる伝承ではなく、実際に複数の言語で再編集されていたことを示したとされる。とくには、宮廷文書に見られる「毛の太さ」による租税換算式を分析し、国家財政が牧畜と織物生産の両輪で動いていたと論じた[9]。
ただし、彼女の論文の図表3には、なぜかの模式図が挿入されており、以後、毛娃帝国研究は「内容は堅いが図版が妙に自由」と評される分野になった。
近年の批判[編集]
に入ると、帝国の実在性そのものよりも、後世の民族叙事の中でどの程度脚色されたかが論点となった。とくにの国際草原史学会では、「大毛娃帝国は実在したが、版図は教科書の半分以下である」とする慎重論が優勢となった。
ただし、のは、2019年に発表した論文で「帝国の実在性を疑うより、なぜ誰もその毛量を疑わなかったのかを問うべきである」と述べ、会場をざわつかせた。この発言は後に各地の講義で引用されることになったが、本人は「毛量」という語を比喩として使ったのであって、統計学的主張ではないと釈明している。
脚注[編集]
[1] ただし、この定義は後世の交易地図に依拠した再構成である。
[2] 帝国文書の防湿処理については異説もある。
[3] 名称起源は写本により揺れがある。
[4] 羊脂保存文書の判読法は現在も標準化されていない。
[5] 『三百八条の毛規』の条文数は版によって異なる。
[6] 短毛協約の原本は未発見である。
[7] 宮廷祝宴の酒量については誇張説がある。
[8] 口承資料に基づくため、地域差が大きい。
[9] 図版の由来は学会紀要でも説明されていない。
関連項目[編集]
脚注
- ^ イリヤ・P・ラスコフ『毛の帝国論』帝国地理学会, 1898年, pp. 41-79.
- ^ Marianne V. Dorsey, “Fiscal Braiding in the Great Mao-wa Empire,” Journal of Steppe Studies, Vol. 12, No. 3, 1974, pp. 201-228.
- ^ セルゲイ・N・オルロフ『草原国家と毛量統計』モスクワ大学出版会, 2019年, pp. 14-63.
- ^ バルカン・テムル編『三百八条の毛規』サルガン宮廷写本局, 903年写, pp. 1-112.
- ^ Élise Montclair, “The Woolen Diplomatic Scrolls of the Pontic North,” Revue d’Histoire Nomade, Vol. 8, 1986, pp. 55-88.
- ^ 高橋伸一『遊牧帝政の会計実務』東方学術社, 2008年, pp. 92-141.
- ^ Марина И. Соколова『短毛協約の異本研究』サンクトペテルブルク草原史研究所, 1996年, pp. 7-49.
- ^ H. Q. Lambert, “Winter Camps and Moving Capitals in Central Eurasia,” Cambridge Historical Quarterly, Vol. 61, No. 2, 2003, pp. 133-167.
- ^ ドクター・マリア・ベレーン『毛織外套の国家学』ブダペスト比較遊牧叢書, 1978年, pp. 3-96.
- ^ 工藤真理子『サルガン遷都と草原官僚制』名古屋歴史文化研究所, 2015年, pp. 118-172.
外部リンク
- 国際毛娃帝国研究会
- 草原文書デジタルアーカイブ
- サルガン古写本館
- 比較遊牧史ジャーナル
- ヴォルガ・カスピ史料集成