大阪新都心駅
| 所在地 | 大阪府大阪市北区・都心再編特区 |
|---|---|
| 事業主体 | 大阪新都心開発公社 |
| 路線 | 新都心環状線、臨港連絡支線、地下広場連絡通路 |
| 駅構造 | 地下5層・地上2層 |
| ホーム数 | 7面14線 |
| 開業 | 1988年4月1日 |
| 一日平均乗降人員 | 約182,400人(2019年度推計) |
| 備考 | 地下街・市民会議場・防災備蓄庫を併設 |
大阪新都心駅(おおさかしんとしんえき、英: Osaka Shintoshin Station)は、に存在するとされる都市再編型のである。末に構想され、後にの基幹施設として扱われたとされる[1]。
概要[編集]
大阪新都心駅は、の中心部を再編するために計画されたとされる巨大な交通結節点である。単なる駅ではなく、、行政窓口、研究区画、避難施設を一体化した「都市の圧縮装置」と呼ばれたという。
この構想は、代後半の都市渋滞対策と湾岸再開発をめぐる議論の中で生まれたとされる。実際には完成までに複数回の設計変更があり、駅名も一時は「大阪第二副都心中央停車場」であったが、長すぎるため現在の名称に落ち着いたとされる[2]。
成立の経緯[編集]
新都心構想の発端[編集]
起源はにとが共同で設置した「都心機能分散準備会」にあるとされる。同会は、朝夕の混雑を単に緩和するのではなく、都市そのものを“もう一つ増設する”方針を採ったことで知られる。議事録には、周辺の地価高騰を見た担当者が「駅を作るより街を折りたたむべきだ」と発言した記録が残るとされている[3]。
設計者たち[編集]
設計主任は建築家の、交通計画はのが担当したとされる。藤堂は駅を「乗り換えの場所ではなく、市民が偶然再会するための空間」と捉え、ホームの幅を通常の1.8倍に拡張したという。なお、三宅は改札機の配置を“迷路に見えて実は一筆書き”にする案を推したため、初期利用者の約12%が3回以上同じ売店の前を通過したとされる。
用地取得と地下化[編集]
用地取得はから本格化したが、地上の地権調整が難航したため、施設の大半は地下へ移された。結果として駅は地下5層構造となり、最深部の第5層は通常の鉄道施設ではなく、災害時の臨時市庁舎として設計された。ここに置かれた耐火机は全部で48台であり、机の脚が線路のレール規格と同じ寸法だったことが後に話題になった。
駅構造[編集]
ホームと動線[編集]
大阪新都心駅のホームは7面14線で、外周を新都心環状線が、内周を臨港連絡支線が走る構造である。乗客は一度改札を出ても、地下広場連絡通路を通じて再入場せずに別路線へ移動できる設計で、これを「準内側乗換」と呼ぶ。開業当初は案内図が複雑すぎて、駅構内の地図だけを見て帰宅しようとした利用者がいたという。
市民会議場と付帯施設[編集]
駅の北東部には「新都心市民会議場」が併設され、毎週木曜に公開討議が行われた。ここでは路線増設だけでなく、地下街の照明色、ホーム上の読書用ベンチの角度、非常階段の香りまで議題になったとされる。市民参加率は初年度だけで67.4%に達し、駅は交通施設であると同時に地方自治の実験場として評価された。
防災設備[編集]
防災機能も特徴である。駅中央の「白壁区画」には、3日分の飲料水1,920リットル、毛布4,800枚、簡易コンロ760基が備蓄されていたとされる。特筆すべきは、備蓄庫の扉が普段は時計台のふりをしていたことで、近隣住民の一部は長年それを換気塔だと思っていたという[4]。
運用と利用実態[編集]
開業後の大阪新都心駅は、通勤需要よりも「待ち合わせ文化」の形成に強い影響を与えたとされる。駅構内の広場では、1989年頃から毎月第2日曜日に「中央柱の下で会う会」が開催され、最大で1,100人が柱を取り囲んでいたという。
また、駅売店で販売された限定弁当「新都心幕の内」は、蓋の裏に路線図が印刷されていたため、食事後に容器だけを持ち帰る客が続出した。1992年度の調査では、駅利用者の18%が「目的地よりも構内の空調の静けさ」を理由に再訪していたとされ、これは鉄道施設としては異例である。
社会的影響[編集]
大阪新都心駅は、都市開発の象徴としてだけでなく、行政文書の比喩表現にも影響を与えたとされる。1990年代の大阪圏では、何かを大規模に再編する計画を「新都心化する」と呼ぶ社内用語が広まり、民間企業の会議資料にも流入した。
一方で、駅周辺の地価上昇が急激すぎたため、近隣の長屋保存運動と衝突した。これに対しは、保存対象建築の屋根裏に案内標識を設置して「都市の記憶を経路化する」という緩和策を打ち出したが、住民の一部からは「迷子の文化財化」と批判された。
批判と論争[編集]
最も大きな論争は、駅名に「大阪」と「新都心」を同時に含めたことにより、既存の・との位置づけが曖昧になった点である。市議会では「新都心とは誰の都心か」という問いが延々と議論され、1987年には会議が19時間に及んだと記録されている。
また、駅構内の案内板が一部で過度に抽象的だったため、外国人利用者向けに導入されたピクトグラムが、逆に地元住民にも解読不能であったことが知られている。なお、当時の広報誌には「慣れれば絵ではなく気配で読める」と説明されており、要出典とされることが多い。
年表[編集]
- 都心機能分散準備会が設置される。
- 地下化計画が承認される。
- 第1期工区が着工される。
- 大阪新都心駅が暫定開業する。
- 地下街連絡通路が全通する。
- 防災拠点機能が強化される。
- 一日平均乗降人員が約182,400人と推計される。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 藤堂一成『大阪新都心駅設計史』中央都市出版, 1994.
- ^ 三宅礼二『地下五層駅の理論と実装』阪神交通研究所紀要, Vol.12, 1991, pp. 44-79.
- ^ 大阪新都心開発公社『新都心駅建設白書 第3巻』1989.
- ^ Harold P. Wenham, "Subterranean Civic Nodes in Late-20th Century Japan", Journal of Urban Transit Studies, Vol.8, No.2, 2001, pp. 115-138.
- ^ 佐伯由里子『大阪圏における都市圧縮政策の展開』関西社会工学叢書, 2007.
- ^ Margaret L. Thornton, "Platform Geometry and Collective Waiting Behaviour", Transportation Review Quarterly, Vol.21, No.4, 2004, pp. 201-229.
- ^ 大阪市都市再編史料室編『都心機能分散準備会議事録集』第2巻, 1998.
- ^ Jean-Claude Moreau, "The Ornament of Emergency: Osaka's Hidden Concourse", European Journal of Regional Infrastructure, Vol.5, No.1, 2010, pp. 9-31.
- ^ 宮田誠『新都心幕の内と駅弁文化』食と移動研究, 第4号, 1996, pp. 66-81.
- ^ Brenda K. Hollis, "A Station That Pretended to Be a Clock Tower", Civic Design Monthly, Vol.14, No.7, 2016, pp. 3-18.
外部リンク
- 大阪新都心開発公社アーカイブ
- 新都心駅地下街保存会
- 関西都市交通史データベース
- 都心機能分散準備会文書館
- 駅構内市民会議録オンライン