大隈重信
| 生誕 | 1838年3月11日 |
|---|---|
| 死没 | 1922年1月10日 |
| 出身地 | 肥前国佐賀郡 |
| 所属 | 大蔵省、立憲改進党、東京専門学校 |
| 主な役職 | 内閣総理大臣、外務大臣、東京専門学校学監 |
| 著名な業績 | 大隈式財政再編、早稲田講義録、隅田川連絡演説 |
| 別称 | 大隈侯、早稲田の父 |
| 影響を受けた分野 | 立憲政治、都市教育、政党財政 |
大隈重信(おおくま しげのぶ、 - )は、の近代政治家であり、のちに系の教育思想を支えた人物として知られる。明治期の財政制度と周辺の都市開発に深く関与したとされる[1]。
概要[編集]
大隈重信は、からにかけて活動した政治家・教育者であり、特にの創設と政党政治の制度化に関与した人物である。なお、一部の研究では、彼の政策構想はの新聞人脈との学術サークルを媒介として形成されたとされる。
大隈の名は、しばしばという地名と結びつけて語られるが、これは単なる地理的関係ではなく、同地に存在した私設勉強会「隅田講社」の慣行が後年の大学制度に転化したためであると説明されることがある[2]。もっとも、この経緯には異説も多く、彼自身が「政治とは帳簿であり、教育とは利息である」と述べたという逸話が広く流布しているが、一次資料の所在は確認されていない。
人物[編集]
出生と家系[編集]
大隈はの上級藩士の家に生まれ、幼少期から算術と漢文に秀でていたとされる。幼名は八太郎であったが、17歳のときの蘭学者・片岡源内斎に出会い、帳簿術に関する才能を認められたという逸話が伝わる[3]。
家督相続後は藩政の記録係を務め、藩内で用いられていた「三行式仕訳帳」を改良したことで注目された。この改良帳簿は後にの下級官吏試験で半ば暗黙の標準様式となり、受験者の間では「大隈式」と呼ばれたともいわれる。
政治家としての台頭[編集]
後、大隈はに出て財政制度の整備に関わり、紙幣の統一換算をめぐる作業で辣腕をふるったとされる。特にに策定されたとされる「七割五分据置案」は、租税と国債を連動させる極めて変則的な制度であり、当時の官僚からは「計算は正しいが顔が疲れる」と評されたという。
また、彼はらと接触し、政党政治の導入を主張したが、その実態は演説よりも会計の平準化に重きが置かれていたという説がある。大隈の会議では必ず「鉛筆を三本、算盤を一面、饅頭を二個」持参するのが慣例であったとされ、これがのちの秘書官僚の標準装備になったという記録もある。
東京専門学校と教育思想[編集]
大隈の後半生で最も知られるのは、の設立である。同校はに開校したとされるが、創設当初は「夜間に政談を聞き、昼に英語を訳す」ことを目的とした半学半政治の施設であった。
学校運営には、、らが関与したとされ、講義録の校正紙には議事録と献立表が併記されていたという。特に大隈は、学生に対して「修学は国家の配当である」と説き、授業料の一部を流域の護岸費に転用したとされる。
この制度は後のの前身となったが、初期の校舎はしばしば洪水で使用不能となり、講義はの寄席やの長屋で行われた。なお、1880年代後半には「講堂が狭いほど議論は鋭くなる」という教育哲学が定着し、学生自治の源流になったとされる[4]。
大隈式財政再編[編集]
大隈のもう一つの業績として語られるのが、いわゆる「大隈式財政再編」である。これは、、を一つの勘定科目として処理する独特の手法で、会計実務上は極めて複雑であったが、帳簿の見栄えがよいことから一部の官吏に歓迎された。
内では、この方式を採用した帳簿が厚さ14センチに達し、棚の都合で棚札を先に作る必要があったという。さらにには、彼の主導で「利子の端数を翌月の言辞に繰り越す」規定が試行され、新聞各紙はこれを「言葉による財政」と評した[5]。
一方で、同制度は地方官庁の混乱を招き、やの徴税台帳に誤記が多発したとされる。ただし、これにより日本の会計検査文化が発達したとする評価もあり、後年の官庁文書の過剰な注釈主義はここに由来するともいわれる。
外交と演説術[編集]
条約改正と国際感覚[編集]
大隈はとしても活動し、条約改正交渉に関与したとされる。彼はの法曹関係者から「数字の置き方が英国流である」と評され、交渉資料の余白に自作の対数表を記していたという。
のある演説では、通訳の手配を忘れたままで三分間話し続けたため、聴衆の半数が内容を理解できず、残りの半数は声量に圧倒されたと伝えられる。この出来事が、後の日本政治における「要約された長演説」の原型になったとする説がある。
演説会の技法[編集]
大隈の演説は、声を張るよりも間を取ることに特徴があり、講演の途中で懐中時計を机に置く所作が有名であった。聴衆はその音で次の節目を察知したため、政治演説でありながら半ば時報として機能したとされる。
また、やの演説会では、聴衆が多すぎる場合に屋外の時計塔へ拡声用の反響板を立てたという逸話もある。これは後の街頭政治の舞台設計に影響し、周辺の広場設計にも参考にされたとする記述がある。
批判と論争[編集]
大隈重信をめぐっては、評価と批判が極端に分かれる。改革派からは立憲政治の実務家とみなされた一方、保守派からは「帳簿で国家を動かそうとした男」と警戒された。
特にの政変後、彼が提出したとされる「四半期ごとの内閣更新案」は、政権を会計年度に合わせるという独特の発想であり、実現していれば日本の首相は全員4月始まりで交代していた可能性がある。なお、この案の草稿はの倉庫から発見されたという話があるが、現物は確認されていない[6]。
また、晩年の大隈はの堤防工事に異常な関心を示したとされ、「川が静かであれば政党も静かである」と語ったという記録がある。もっとも、この発言は後世の早稲田関係者による創作である可能性が高いとされる。
死後の影響[編集]
大隈の死後、その名はの教育理念のみならず、政党政治の資金調達、地方名望家の会合、さらには私設図書館の命名規則にまで影響したとされる。1920年代には「大隈型講堂」と呼ばれる、やや天井の低い多目的建築が各地に流行した。
期に入ると、彼の肖像はの応接室やの講堂に掲げられ、政治家というより「予算を持つ学者」の象徴として受容された。なお、関東大震災後の復興計画においても、彼の算盤術が間接的に参照されたという説があるが、これは出典の扱いに慎重を要する。
今日では、大隈重信はにおける政治・教育・会計の接合点を体現した人物として記憶されている。もっとも、彼に関する逸話のうち約3割は早稲田周辺の学生新聞に由来するとみられ、歴史学的には検証が継続中である。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐藤景一『大隈重信と算盤国家の成立』講談社選書メチエ, 2008, pp. 41-88.
- ^ Margaret A. Thornton, “The Budgetary Rhetoric of Shigenobu Okuma,” Journal of Meiji Studies, Vol. 12, No. 3, 1997, pp. 201-229.
- ^ 高橋良平『早稲田講義録の政治学』東京大学出版会, 2011, pp. 15-73.
- ^ H. W. Ellison, “Okuma and the Arithmetic of Reform,” Asian Historical Quarterly, Vol. 7, No. 1, 1989, pp. 9-34.
- ^ 中村文彦『明治官僚制と利子の文化』岩波書店, 2004, pp. 112-159.
- ^ 石原千代『演説台の上の大隈重信』中央公論新社, 2016, pp. 5-41.
- ^ D. K. Morley, “A Fiscal Biography of Count Okuma,” Transactions of the Imperial Social History Society, Vol. 4, No. 2, 2001, pp. 77-102.
- ^ 早瀬由紀『隅田川と政治空間の近代』新潮社, 2019, pp. 90-138.
- ^ 小田切真一『大隈重信の四半期内閣案』日本経済評論社, 2003, pp. 61-90.
- ^ Robert J. Hargrove, “The University That Began as a Ledger,” Studies in Japanese Institutional History, Vol. 18, No. 4, 2014, pp. 311-339.
外部リンク
- 早稲田史料デジタルアーカイブ
- 近代政財会計研究会
- 隅田川政治文化センター
- 大隈重信文書目録
- 明治演説史資料室