学問探究及び研究活動に係る全日本就活停止特別命令
| 通称 | 全就停令 |
|---|---|
| 施行 | 1987年4月1日 |
| 失効 | 1989年3月31日 |
| 管轄 | 文部省・労働省合同臨時協議室 |
| 対象 | 学部生・大学院生・研究生の就職活動 |
| 発令者 | 学術雇用調整本部 |
| 主な根拠 | 全日本就活停止特別措置要綱 |
| 関連地域 | 東京都・京都府・大阪府 |
学問探究及び研究活動に係る全日本就活停止特別命令(がくもんたんきゅうおよびけんきゅうかつどうにかかわるぜんにほんしゅうかつていしとくべつめいれい)は、・・の三者間で発生した採用過熱を一時的に抑制するため、全国一律の就職活動停止を命じたとされる制度である[1]。通称は「全就停令」で、末期の学術界再編と就活文化の分岐点として知られている[2]。
概要[編集]
学問探究及び研究活動に係る全日本就活停止特別命令は、に全国の大学で進んでいた「研究室訪問型採用」および「ゼミ内先行内定」が研究活動を著しく圧迫したことを受け、千代田区の旧別館で起案されたとされる制度である。採用選考をいったん全面停止し、学部教育と研究指導を優先させることを目的としていた。
命令の原案には、・・の担当者に加え、の非公式連絡員、そして当時「就職氷河監査官」と呼ばれたの臨時職員が関与したとされる。また、停止期間中に面接を行った企業には、翌年度の「採用静穏度指数」が最大18.4点減点されたという記録が残るが、算定方法はきわめて不明瞭である[3]。
成立の背景[編集]
研究室就活の肥大化[編集]
1970年代後半からとの有力大学では、研究室に所属した段階で企業から個別接触が行われる慣行が広がり、学生の半数以上が「卒論より面談票を先に書く」と揶揄されていた。特にでは、実験ノートの余白に企業名が書き込まれる例が相次ぎ、の一部研究室では、遠心分離機の回転数と内定率が比例するという奇妙な統計まで作られた。
当時の学術誌『就職と研究』第12巻第4号には、の学生相談件数のうち61.7%が「所属ゼミと面接日程の衝突」に関するものであったと記されている。ただし同号の執筆者名簿はのちに差し替えられており、編集部が誰であったかは確定していない[4]。
旧文部省の対策会議[編集]
11月、の旧会議室では「学問の自立性確保に関する夜間臨時協議」が七回にわたり開催された。会議は毎回22時過ぎに始まり、出席者の疲労により議事録の一部が縦書きと横書きで混在している。ここで採用されたのが、企業に対し全国一律で学生への接触を禁じる特別命令案である。
命令文の第3条には「就職活動は、学術的探究を妨げぬ範囲で、研究倫理審査会の承認を得た場合に限り例外を認める」とあるが、実際には承認手続きが複雑すぎたため、例外適用は初年度で3件しかなかったとされる。一方で、承認を得た3件のうち1件は、展示会の受付業務であり、就活に含まれるかどうかをめぐって後に論争となった。
運用[編集]
停止期間の管理[編集]
命令施行後、全国の大学には「就活停止標識」の掲示が義務づけられた。標識は白地に青字で、中央にとを組み合わせた紋章が印刷され、各学部で毎月1日に点検が行われたという。点検表はA4判では収まらず、実際にはB4判三つ折りの「学生交渉記録簿」が使用された。
のピーク時には、全国で推計42万1,300人の学生がこの命令の対象となり、そのうち約8.9%が「面接自粛確認書」に押印できず、研究室主任の口頭承認で代替された。なお、押印漏れが最も多かったのはの沿岸部との山間部であったとされるが、理由ははっきりしていない[5]。
学生生活への波及[編集]
停止命令の施行中、学生は本来の研究に戻ったはずだったが、実際には「面接をしない時間」を有効活用するための新たな活動が生まれた。たとえばでは、面接練習の代わりに学会発表の模擬応答を行う「逆質問会」が流行し、質問の鋭さを競うあまり、学会委員が途中で退席する事態も生じた。
また、のあるゼミでは、企業説明会の代替として「研究室説明会」が毎週木曜に開かれ、教授が自らホワイトボードの前で研究費の使途を説明した。ここで配られた資料の最後に「なお、採用の話はしない」と10回以上繰り返し印刷されていたことから、逆に採用の匂いがする、と学生の間で評判になった。
社会的影響[編集]
この命令は一見すると就職活動の抑制策にすぎないが、実際には日本の大学文化に「研究優先の建前」を制度として埋め込んだ最初期の事例とみなされている。命令前後で、博士前期課程への進学率はの17.2%からには24.6%へ上昇したとされ、これを受けて一部の企業は採用広報を「研究協力説明会」と言い換えるようになった。
一方で、停止に従わない学生がゼロではなかったため、は翌年「自発的面談届」の提出制度を導入した。これが事実上の再開宣言であったとする見方もあるが、当時の担当課長は「再開ではなく、静かな再配置である」と述べたとされる。なお、この発言は後年、地方紙の回顧連載でしか確認されていない。
批判と論争[編集]
批判の中心は、命令が全国一律であったにもかかわらず、実際の運用が大学ごとに著しく異なっていた点にある。特にでは、就活停止を口実に学内合同面談会が「研究発表会」として実施され、参加企業数が前年より12社増えたケースもあった。これに対し、学生側からは「停止しているのは面接の形式だけである」との指摘が相次いだ。
また、命令の法的根拠についても、当初はの見解を得ていたとされるが、関係文書の多くが「付箋付きの参考資料」として残されただけで、正式な閣議決定の記録は見つかっていない。そのため、現在では「行政指導に近い準命令であった」とする説が有力である一方、旧の一部資料では堂々と「特別命令」と表記されており、用語が混線している。
廃止とその後[編集]
1989年の失効[編集]
命令は3月末に失効したとされる。失効通知はA4一枚の簡潔な文書であったが、末尾に「なお、研究室訪問の節度は各自心得ること」と手書きで追記されており、実務上はそのまま慣行として残った。これにより、命令は終了したのに文化だけが残るという、行政文書としては珍しい現象が生じた。
失効当日のでは、当時の学部生たちが掲示板に貼られた告知を見て歓声を上げたという証言がある一方、研究室側は「むしろこれからが本番」と受け止めていたとされる。両者の温度差は、その後の大学就職戦線を象徴するものとして引用されることが多い。
後継制度[編集]
命令の後継として、に「研究活動優先に関する自主調整指針」が策定された。こちらは名称こそ穏当であったが、実際には就活解禁日、説明会会場、メール配信時刻まで細かく規定するもので、学生からは「柔らかい全就停令」と呼ばれた。
この指針を主導したの元職員・は、後年の回想録で「本来は三か月だけの緊急措置だった」と述べている。しかし同書の刊行年がで、すでに三回改訂された校正を経ていたことから、証言の信頼性については意見が分かれている[6]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯良介『全日本就活停止特別命令の制度設計』東洋行政研究所, 1992.
- ^ Margaret A. Thornton, "Academic Labor and the Suspension Orders", Journal of Japanese Institutional Studies, Vol. 8, No. 2, 1994, pp. 113-141.
- ^ 西園寺正彦『研究優先社会への短い道』霞関出版, 2014.
- ^ 田中弥生「昭和末期大学就職戦線における面接自粛の実態」『労務史研究』第17巻第3号, 1990, pp. 44-58.
- ^ Kenji Hoshino, "Quiet Hiring and Loud Laboratories", University Policy Review, Vol. 5, No. 1, 1991, pp. 9-27.
- ^ 文部省臨時協議室編『全日本就活停止特別措置要綱・逐条解説』学術統計社, 1987.
- ^ 加賀美俊一「就活停止標識の図像学」『教育行政年報』第22巻第4号, 1989, pp. 201-219.
- ^ A. L. Mercer, "The 18.4-Point Decline in Recruitment Serenity", East Asia Labor Bulletin, Vol. 13, No. 4, 1995, pp. 77-88.
- ^ 『就職と研究』編集部「1985年度学生相談統計とゼミ配属の相関」『就職と研究』第12巻第4号, 1986, pp. 3-19.
- ^ 新井敬一『採用静穏度指数ハンドブック』中央雇用資料社, 1988.
外部リンク
- 学術雇用史アーカイブ
- 昭和末期就活資料館
- 旧文部省会議録デジタル庫
- 全就停令研究会
- 大学採用文化年表