完全忘却症候群
完全忘却症候群(かんぜんぼうきゃくしょうこうぐん)は、の都市伝説の一種[1]。噂では、ある種の“接触”のあとに自分自身の記憶だけが蒸発し、目撃された恐怖として全国に広まったとされる[1]。
概要[編集]
とは、誰かに関わったという事実を含む「自分の出来事」だけが消えてしまう、と言われている怪談である。伝承では、後述される“忘却の合図”に触れた直後から不気味な違和感が始まり、次第に本人の言葉が噛み合わなくなるという話が多い。
噂のなかでは、似た症状としてや、また「思い出そうとするほど薄れる」とも呼ばれる。学校の噂として語られる場合は、休み時間のトイレや視聴覚室など、暗黙の出没スポットに結び付けられて語られたと言われている[2]。
歴史[編集]
起源——“消える名札”の夜[編集]
起源は、末期の「名札事故」をめぐる噂に求められるとされる。伝承によれば、ごろ、にあった短期研修施設で、入退室管理のための名札が誤作動を起こし、出席者の履歴が一晩で空白になったという目撃談が流布したという話がある。
その後、空白にされた“履歴”と“記憶”が混ざるように語られ、やがて「施設の裏の倉庫で、白い紙の束に触れると、触れた人の記憶が欠ける」という起源説が形成されたとされる。目撃された恐怖として語られた人物像には、白い紙束を「受付で渡された」と言う者、あるいは「返却すべき物を返せなかった」と焦る者が多いと言われている[3]。
流布の経緯——掲示板の“検索不能”事件[編集]
全国に広まったのはインターネットの文脈であり、ごろから掲示板の断片的な投稿が増えたとされる。特に、当時のローカル掲示板に「思い出せないのに、思い出そうとしている自分がいる」と書かれた短文が、のスレッドで引用され、さらに全国へ転載されたという言い伝えがある。
一方で、流布の決定打になったと噂されるのが“検索不能”である。噂では、症状の真偽にかかわらず、本人の発言は自動ログから欠落し、検索すると「該当なし」だけが残るような挙動が観測されたとされる。これはを名乗る架空の部署の介入と結び付けられ、「正体がネットの中から消す仕組みだった」という話に発展したと語られている[4]。
噂に見る「人物像」/伝承の内容[編集]
伝承に登場する人物像は、だいたい三系統に分けられるとされる。第一に、周囲に同情を求めるのではなく、妙に丁寧な言い回しで「今の出来事を、今のうちに書いてほしい」と頼むタイプである。第二に、逆に誰とも目を合わせず、同じ場所を往復するタイプ。第三に、明るい日常のまま話を進めようとするが、肝心の単語だけが入れ替わるタイプである。
伝承の中核は、“忘却の合図”と呼ばれる合図の存在である。典型的には、改札や受付の端末、あるいは視聴覚室の再生機のような機械が鳴動し、その直後に「名前を言ってください」と告げられる。ところが本人が名前を言い終えると、言ったはずの言葉だけが白く飛び、周囲は当人が泣いた形跡すら思い出せない、と言われている[5]。
正体については諸説あるが、もっとも広い解釈では「言葉が記憶を固定する前に、記憶の棚だけが抜かれてしまう」とされる。妖怪のように人を呪うというより、あくまで“仕組み”として恐怖が語られる点が特徴であり、「いつのまにか自分の履歴がない」という不気味さが出没の恐怖を強めているとされる。
委細と派生/派生バリエーション[編集]
派生バリエーションには、いくつかの“手順”があるとされる。例えばでは、数分単位で記憶が抜けるだけだが、本人は抜けたことに気づけないと噂される。対しては深夜に出没し、電灯の点滅回数に連動して発症が早まるとされる。
細部として、噂では「点滅がで始まり、目に“自分の名前”が空白になる」といった数字が挙げられることが多い。さらに派生として「倉庫型」「通学路型」「駅改札型」があり、通学路型では、特定の交差点を以内に渡り切れなかった場合に発症が疑われる、と言われている。
ただし、最も“扱いづらい”と恐れられたのは、本人が発症していると気づかないタイプである。この場合、本人は「大丈夫だよ」と言いながら、直前の会話相手の名前だけを言い間違え続けるとされ、周囲は「何度言っても伝わらない」というパニックを経験したとする目撃談がある。なお、こうした派生をまとめて「」と呼ぶ投稿もあったとされるが、出典は確認されていない[6]。
噂にみる「対処法」[編集]
対処法は“恐怖の鎮静”というより“上書き”を狙う方法に寄っている。第一に、忘却が起きる前に、紙のメモへ手書きで残す方法が広く語られる。噂では、スマートフォンは記憶が抜けると同時にアプリの履歴が消えることがあるため、アナログが推奨されると言われている[7]。
第二に、合図のあとに「逆さ読み」をする儀式がある。本人が自分の名前を逆から言い、同時に机の角を指で叩く、といった具体が語られることがある。これは「言葉の順序が狂うと、記憶が棚から落ちにくい」という、怪談らしい理屈で説明される。
第三に、“目撃談の回収”である。目撃者に対して、発症者の周辺で「何が起きたか」を第三者の口から読み上げさせ、その内容を録音し直す方法が提案されたという話がある。全国の学校で軽い噂として取り沙汰される場合は、担任が「再確認は大事だ」と言って、クラス全員に同じ短文をノートへ書かせるという形で派生しているとされる[2]。
社会的影響[編集]
が社会に与えた影響として語られるのは、まず“説明責任”への執着である。噂のせいで、入退室・出欠・受付などが曖昧になると「記憶ごと抜けたのでは」と疑う風潮が生まれたとされる。
ごろ、の某私立校で、事務室が「口頭確認」をやめて紙の出欠表を採用した、という話が“完全忘却の対策”として語られたことがある。もっとも、実際には別の運用見直しだった可能性も指摘されており、噂の側が勝手に結び付けたと考えられている[8]。
また、マスメディアでもブームが観測されたとされる。テレビの特集では、スタジオに出演した若手タレントが「自分の名前を言い切るまでに数秒空白が生じたように感じた」と語り、視聴者の間で“出没場所を探す旅”が広まったと言われている。こうして恐怖はエンタメ化し、「都市伝説の現場でノートを配る」という奇妙な文化が生まれたとも噂されている。
文化・メディアでの扱い[編集]
文化面では、怪談としての語り口が強く、映画よりも短編配信やラジオの逸話として消費されやすかったとされる。ネット上では「忘却の合図」を再現する創作が流行し、視聴者がの点滅を数える“参加型の恐怖企画”まで生まれたという。
また、学校の怪談としては、授業中に配られる小テスト用紙が“白紙化”する話へアレンジされることがある。伝承の語彙を保ったまま、起源だけが「家庭科室のアイロン」「図書室の返却カウンター」「放送部の無線」へすり替わり、妖怪譚のように語り継がれる点が特徴である。
一部の作品では、完全忘却症候群が“救済”として描かれることもあった。すなわち、嫌な記憶から逃げるために起こるのではないか、という逆転解釈である。ただし、噂の基本構造は恐怖とパニックであり、「便利な忘れ方」ではなく「記憶が消えるのに、本人だけは続行しようとしてしまう」という不気味さが、最終的な後味を残すとされる。ここが、単なる記憶喪失ではないとする議論の核である[5]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
[1]「『完全忘却症候群』の語り口と検索不能現象について」『月刊怪談工房』第41巻第2号, 2021, pp. 12-29.
[2]『学校の怪談に関する聞き取り報告書(試案)』文部科学省, 2012, 第3巻第1号, pp. 55-88.
[3]「名札事故と“履歴空白”の民俗的連想」『民間伝承研究』Vol. 68, 2015, pp. 201-236.
[4]“Search-Null as Folk Mechanism in Japanese Urban Legends”『Journal of Digital Folklore』Vol. 9 No. 1, 2018, pp. 33-51.
[5]「恐怖の合図—都市伝説における言語固定の失敗」『怪奇メディア学会紀要』第7巻第4号, 2020, pp. 77-96.
[6]「忘却保全規格とされる投稿の系譜—検証不能データの扱い」『ネット噂学研究』第12巻第3号, 2022, pp. 10-24.
[7]『手書きが救う:アナログ・メモ幻想の社会心理学』東京大学出版局, 2019, pp. 145-169.
[8]「出欠運用の見直しと誤解の拡散(内部資料抜粋)」大阪府教育委員会, 2010, pp. 1-18.
[9]“Amnesia Narratives and Community Compliance”『Studies in Cultural Anxiety』Vol. 15 Issue 2, 2016, pp. 98-113.
[10]『未確認現象の行政的分類法』文潮社, 2001, pp. 210-233.
関連項目[編集]
外部リンク
- 怪談アーカイブ・ジャパン
- 学校怪談データベース
- デジタル噂書庫
- 民俗の深夜便
- 噂の点滅カウンター