官庁文書
| 正式名称 | 官庁文書 |
|---|---|
| 英名 | Government Archive Prose |
| 成立 | 1897年頃 |
| 提唱者 | 渡辺精一郎・サー・ハロルド・M・クレイン |
| 主な管轄 | 内閣文書局、官報編纂臨時局 |
| 用途 | 通達、稟議、保存文書、説明責任の演出 |
| 特徴 | 長文、重複、番号条項、異様に丁寧な但し書き |
| 代表的様式 | 甲号式、乙号式、附則併記式 |
| 通称 | 紙の迷宮 |
| 影響 | 行政・法令文・企業稟議文化 |
官庁文書(かんちょうぶんしょ、英: Government Archive Prose)は、が発行した公文書の体裁を借りつつ、行政手続・記録保存・対外説明を一体化させた文書体系である。日本では後期に制度化されたとされ、のちにの文体を象徴するものとして知られる[1]。
概要[編集]
官庁文書とは、行政機関が自己の判断と責任を可視化するために整備した、特殊な定型文書の総称である。一般には難解で冗長な文体として知られるが、その実態は、・・の三要素を精密に組み合わせた情報制御の技術であったとされる。
起源については諸説あるが、もっとも有力なのはの文書改革案にさかのぼる説である。この時期、の官庁街では、同じ案件について以上の起案書が往復し、最終的に誰も最初の趣旨を覚えていないという事態が頻発していたという[2]。官庁文書は、こうした混乱を「整然とした混乱」に変換するために発明されたとされる。
なお、後世の研究では、官庁文書の最大の発明は内容ではなく「責任の分散」であると指摘されている。1つの決裁にの確認印を必要とする仕組みは、意思決定の速度を落とす一方で、失敗した際の説明資料を自動的に生成する点で画期的であった。
歴史[編集]
黎明期[編集]
官庁文書の原型は、20年代にの若手官吏であったが、欧米の公文書式を模倣しつつ、和文の敬語体系を極限まで圧縮したことにより生まれたとされる。渡辺は、を回付し、以後の文書は「なるべく誰の考えとも断定しない語尾」を採用するようになったという。
この改革に同席したのが、嘱託顧問のサー・ハロルド・M・クレインである。彼は英国式のminute cultureを紹介したが、官庁側はそれを「余白の中で決まる制度」と誤読し、結果として本文より欄外注が長くなる様式が確立した。初期の文書には、本文に対して注記がを超えるものもあったとされる。
制度化[編集]
、が設置されると、官庁文書は正式な行政技術として全国に拡張された。特筆すべきは、文書を「命令」「照会」「依命通達」「参考送付」の4類型に分けたことで、これにより一見単純な事案でも最低の別紙を要する構造が定着した。
への掲載基準もこの時期に細分化され、掲載の必要があるかどうかを判断するための判断書そのものが、しばしば官報よりも長くなったという。ある研究によれば、の年間起案件数のうち、実際に意思決定まで到達したのはで、残りは「照会継続中」または「文案再考中」として翌年度へ持ち越された[3]。
拡張と民間移植[編集]
末期から初期にかけて、官庁文書は民間企業にも移植された。とりわけの元文書係が創設した事務機械会社では、官庁式の回覧紙をそのまま商品化し、企業内部で「承認欄が足りない」との苦情が急増した。
一方でには、の文書学講座が官庁文書の講義を開始し、学生は「起案文の末尾における“なお、差し支えなき場合は”の心理学的効果」についてレポートを書かされたという。これが後の稟議文化研究の礎になったとされる。
様式と構造[編集]
官庁文書の基本構造は、件名、起案理由、本文、別紙、備考、回議印欄の6要素から成るとされるが、実務上はこれに「未定稿」「参考」「至急」「再照会」の4要素が加わることが多い。文書の完成度は内容の明晰さではなく、各欄がいかに空白を残しているかで評価される傾向があった。
特に有名なのがで、1件の文書に最大の番号条項を付けることができる。条項が増えるほど内容が曖昧になる反面、上司がどこに指示を書き込めばよいかが明確になるため、むしろ実用的であるとされた。また、文末の「以上、念のため申し添える」に相当する定型句は、事実上の免責条項として機能した。
官庁文書の赤字修正は、単なる訂正ではなく「責任の色分け」として意味を持った。朱書き、鉛筆書き、墨消しの三層構造は、同一文書の中で時間の流れを可視化する技法であり、熟練職員は一枚の紙から分の意見を読み分けたという。
社会的影響[編集]
官庁文書は行政効率を高めたと同時に、独特の国民的読解能力を育てた。学校教育では30年代から「公文書読解」が準必修化され、児童は「ただし書き」と「なお書き」の違いを早い段階で覚えさせられたとされる。
また、戦後の地方自治体では、住民票の発行よりも先に「発行できない理由書」が出ることがあるなど、文書文化が生活の細部へ浸透した。これにより、日本では“結論より回覧”という独特の合意形成が社会規範として定着したとの指摘がある。
一部の文化史家は、官庁文書がやの影響を受けた結果ではなく、むしろ「読み終えた者が勝者となる競技」として発展したと主張している。実際、にで行われた読解試験では、合格者のうちが設問ではなく本文の構造理解で高得点を得たという。
批判と論争[編集]
官庁文書はしばしば「わかりにくい」「長すぎる」と批判されてきた。とくにには、行政改革派の学者が『短文化は国家の衛生である』と主張し、文書の平均ページ数をからへ半減させる提案を行ったが、逆に「半減すると根拠欄が足りない」として現場に拒否された。
また、代の電子化以降も、官庁文書の精神は完全には消滅しなかった。むしろメールにまで「回覧」「添付漏れの可能性」「再送付願う」の文化が移植され、画面上の文書が紙よりも長くなる現象が観察された。なお、ある省庁では初の電子稟議導入時に、承認ボタンが以上押された後でなければ保存できない仕様が採用され、担当者が実質的に旧来の印章制度を再現したと報告されている[4]。
派生文化[編集]
官庁文書は行政内部にとどまらず、企業、学校、病院、町内会にまで派生した。特に企業の「稟議書」は、官庁文書の簡略版として発展したが、実際には簡略化されるどころか、決裁印の数だけが増えたケースも少なくない。
圏では、官庁文書の影響を受けた「書類の丁寧すぎる返答」が日常会話に溶け込み、飲食店の予約変更ですら「差し支えなければ、再度ご一報を賜りたく存じます」と書かれることがあったという。これは一部で「準官庁化」と呼ばれ、民間の礼儀が行政文体に吸収された珍しい例である。
また、に系の研修施設で開発された「文書圧縮訓練」は、若手職員に対し、800字の起案を400字にまとめつつ、責任の所在はむしろ明確にするという難題を課した。修了率はで、落第者の多くは「文章は短くなったが、誰も責任を取れなくなった」と記したという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『起案における感情の排除に関する覚書』内閣文書局出版部, 1898年.
- ^ Harold M. Crane, "Notes on Imperial Minute Culture", Transactions of the East Asian Bureaucratic Society, Vol. 4, No. 2, pp. 114-139, 1902.
- ^ 佐伯一郎『官庁文書様式史』官報編纂協会, 1936年.
- ^ 松浦俊介『短文化は国家の衛生である』中央行政研究所, 1972年.
- ^ Eleanor V. Pritchard, "The Semiotics of Approval Stamps", Journal of Comparative Administration, Vol. 11, No. 1, pp. 9-27, 1981.
- ^ 『官庁文書読解便覧』総理府文書研修室, 1959年.
- ^ 中村静子『朱書きの政治学』東京大学出版会, 1991年.
- ^ Kenji Hasegawa, "Red Ink and the State", Asian Public Records Review, Vol. 7, No. 3, pp. 201-226, 2004.
- ^ 『電子稟議のための三重承認方式』行政情報推進会議, 1999年.
- ^ 山岸久美子『回覧される国家』勁草書房, 2010年.
- ^ 『官庁文書と余白の文化』日本文書史学会紀要 第18巻第4号, pp. 55-88, 2018年.
外部リンク
- 官庁文書アーカイブ研究会
- 内閣文書局資料室
- 文書様式史デジタル博物館
- 回覧文化保存協会
- 霞が関文体学会