小瀬村康隆
| 選手名 | 小瀬村康隆 |
|---|---|
| 画像 | Yasutaka_Kosemura_1998.jpg |
| 画像サイズ | 240px |
| 画像説明 | 1998年のオールスター戦にて |
| 愛称 | 浪速の三拍子 |
| 生年月日 | 1968年4月17日 |
| 出身地 | 大阪府堺市 |
| 身長 | 181cm |
| 体重 | 79kg |
| 国籍 | 日本 |
| 背番号 | 7 |
| ポジション | 外野手 |
| 所属チーム | 大阪フェニックス |
| 利き手 | 右投左打 |
| medaltemplates | 銅メダル 1996年アトランタオリンピック |
小瀬村 康隆(こせむら やすたか、[[1968年]]〈[[昭和]]43年〉[[4月17日]] - )は、[[大阪府]][[堺市]]出身の[[プロ野球選手]]([[外野手]])。右投左打。[[セントラル・リーグ]]の[[大阪フェニックス]]所属。[[1996年アトランタオリンピック]]で銅メダルを獲得し、同年に[[MVP]]に選ばれたことで知られる[1]。
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
小瀬村はの臨海部で育ち、少年期にはの校庭で、打球を風に乗せて海方向へ流す独自の打撃練習をしていたとされる。中学ではの前身にあたる夜間練習会に通い、当時は投手兼外野手としてに地元大会で15試合連続安打を記録した[要出典]。その後、の推薦を経て、に入学した。
大学では1年次からに定着し、にはリーグ戦で打率.412、11本塁打、38打点を記録した。なお、この年の本塁打のうち3本は、試合前に球場周辺で吹いた南風を読んだ「逆流打ち」によるものであったとされる。卒業時には複数球団から指名候補に挙がり、本人はの入団テストを経てプロ入りを果たした。
大阪フェニックス時代[編集]
にへ入団し、同年の開幕第3戦でプロデビューを果たした。1年目は代打起用が中心であったが、夏場以降に打撃フォームを変更し、後半戦だけで打率.321を記録した。にはレギュラーに定着し、3年連続で盗塁数を2桁に乗せたほか、守備面でも中堅の守備率.995を残した。
にはチームの主将を務めた上で、優勝に大きく貢献した。同年、リーグ首位打者こそ逃したものの、シーズン後半の18試合連続安打と終盤の決勝打が評価され、MVPに選ばれた。さらに、同年の野球競技では日本代表に選出され、銅メダルを獲得した。
代表経歴[編集]
小瀬村はの予備登録を経て、に正式に五輪代表へ初選出された。初出場を果たした戦では、7回裏に左翼線へ適時二塁打を放ち、日本の逆転勝利に繋がったとされる。なお、この試合で使用されたバットは、地元の家具職人が握り部分を再加工した特注品であった。
その後も強化試合に参加し、代表通算では46試合に出場、打率.287、4本塁打、21打点を記録した。代表監督のは、小瀬村について「国際試合で最も球を待てる打者」と評している。
選手としての特徴[編集]
選手としては、広角に打ち分ける中距離打者として知られている。特に外角球に対する対応力が高く、ボールの回転数を目で追うのではなく、打席の足元に貼られた紙片の揺れで判断していたという独特の逸話が残る。
また、守備では一歩目の反応速度に優れ、からまで5年連続で外野補殺を2桁台に乗せた。本人は「風の流れを読むことが大事」と語っており、遠征先でも球場ごとに空気の匂いを確認していたとされる。
走塁面でも評価が高く、には自己ベストとなる42盗塁を記録した。なお、この年の春先に左足首を痛めた際、トレーナーが提案した「片足でのスタート練習」がそのまま実戦で機能し、むしろ盗塁成功率が上がったとの記述が残っている。
人物[編集]
小瀬村は、試合前に必ず球場の最上段からグラウンドを1周見渡す習慣があり、これを「空の守備位置確認」と呼んでいた。チームメイトによれば、視線の先には打球の落下点ではなく、観客席に差し込む風の筋があったという。
私生活では書道を嗜み、遠征先のホテルでは半紙に翌日の打順予想を書いてから就寝することが多かった。特にでの試合前夜には、打順を「7・1・3・9」と逆順に並べたメモが見つかっており、本人は「数字の順番を崩すと打球も崩れる」と説明していた。
また、後輩への面倒見が良く、には新人選手12人に対して、バッティング理論ではなく「挨拶の角度」を教える研修を自費で開いたとされる。これがのちに球団内で半ば伝統化し、キャンプ初日に礼の練習をする慣行が生まれたという。
記録[編集]
タイトル・表彰[編集]
セントラル・リーグMVP オリンピック銅メダル ベストナイン ゴールデングラブ賞 月間MVP(2回) コミッショナー特別表彰
小瀬村は通算でのオールスターゲーム出場を果たしたほか、には球団創設以来初の「右打席からの3連続バント安打」を達成した。これは記録保持者本人ですら再現できなかったため、球界では半ば伝説扱いとなっている。
代表歴[編集]
銅メダル 4位 強化試合出場
代表通算は46試合、148打数42安打、4本塁打、21打点、6盗塁である。なお、国際試合での犠打成功率は.941とされ、当時の強化委員会からは「送りバントの精度が高すぎて、もはや送球のほうが難しい」との評価を受けた。
個人記録[編集]
通算成績は1680試合、2011安打、121本塁打、784打点、261盗塁である。2001年には初めて100三振を記録したが、本人はこれを「振り切った証拠」と肯定的に受け止めた。
また、からまで5年連続で打率3割を超え、自己ベストの打率.356をに記録した。終盤戦の勝負強さは特に知られ、満塁時の打率.438は、セイバーメトリクス以前の球団内部では「小瀬村係数」と呼ばれた。
出演[編集]
引退後は、スポーツ飲料『フェニックス・スイング』のCMに出演し、砂浜で素振りを行う映像が話題となった。CMでは「風は敵ではない」という決め台詞を残し、を中心に放映回数が増加したとされる。
テレビではのスポーツ番組『球史の証言』や、深夜帯の情報番組『夜のベンチ裏』に出演し、打席での間合いの取り方を解説した。また、には球団OBとして始球式に登板したが、投球ではなく“投げるような動作の素振り”を披露し、球審から注意を受けたという逸話がある。
さらに、バラエティ番組では「最も静かに三塁へ戻る男」として紹介され、走塁講座のコーナーで床に敷かれた障害物を一度も鳴らさずに通過した。これにより、視聴者投票で年間最優秀妙技賞を受賞したとされる。
著書[編集]
小瀬村は現役末期から執筆活動を行い、に自伝『風を打つ』を刊行した。内容は野球技術書としても読めるが、半分以上が遠征時の食堂と球場の湿度差について書かれている。
には『外野は遠いほど近い』を発表し、守備位置の判断と人生論を重ね合わせた章が話題になった。また、の『打席の前で深呼吸を三回』では、ルーティンの重要性と、試合前に飴を舐める回数の統計が掲載されている。
なお、未刊行原稿として『左打者のための北風学』が遺されているが、球団倉庫の湿気で一部が判読不能となっており、研究者の間では復元作業が続いている。
背番号[編集]
小瀬村の背番号は、入団から引退まで一貫してであった。これは球団が創設時に「最も風に強い番号」として空席にしていた番号で、彼の加入を機に正式採用されたとされる。
一方で、のオールスターゲームでは特例としてを着用し、両翼を意識した“二重の守備”を象徴するものだと報じられた。本人は「番号が増えると打球も増えそうで好きだ」とコメントしている。
引退後、では背番号7を準永久欠番に近い扱いとし、春季キャンプのたびに新人外野手がその番号に触れる前に礼をする慣習が残った。
脚注[編集]
1. 小瀬村康隆の出生年には複数の記録があり、球団創設30周年誌ではとする記述もあるが、本人の記念冊子に従い本項ではを採用した。 2. 逆流打ちの練習法については、当時の野球部記録に断片的な記述があるのみで、詳細は不明である。 3. 代表通算成績は、の非公式集計と球団発表で差異がある。 4. 銅メダル獲得試合の打点数については、現地紙で2打点とするものと1打点とするものがあり、後年の回顧録でも統一されていない。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
大阪フェニックス公式アーカイブ 日本野球人物事典データベース アトランタ五輪野球特設資料館 関西スポーツ口述史研究会 小瀬村康隆後援会記念ページ
脚注
- ^ 佐伯真一『風を読む打者たち』体育史出版, 2008, pp. 41-67.
- ^ 三輪京子『近代日本野球における外野守備の変遷』関西学術社, 2011, Vol. 12, No. 3, pp. 102-129.
- ^ H. McAllister, "Wind Metrics in Late-20th Century Japanese Baseball", Journal of Sport History, 2014, Vol. 31, No. 2, pp. 55-78.
- ^ 渡辺精一『大阪フェニックス年代記』浪速文化新書, 2002, pp. 18-49.
- ^ J. K. Holloway, "Left-Handed Batters and Coastal Ballparks", International Review of Baseball Studies, 2017, Vol. 8, No. 1, pp. 1-22.
- ^ 高橋みのり『オリンピック銅メダルとプロ野球選手の兼業問題』東都出版, 2005, pp. 88-113.
- ^ 小林義隆『外野手の足音学』ベースボール文庫, 1999, pp. 203-229.
- ^ M. A. Thornton, "The Ritual of Pre-Game Silence in Japanese Clubhouses", Sports Ethnography Quarterly, 2020, Vol. 19, No. 4, pp. 77-91.
- ^ 大阪スポーツ史編集委員会『堺市の野球文化と臨海風』堺市教育出版, 2016, pp. 5-31.
- ^ 田中征二『代表監督回想録 1994-2001』日本代表研究会, 2009, pp. 144-168.
外部リンク
- 大阪フェニックス公式アーカイブ
- 日本野球人物事典データベース
- アトランタ五輪野球特設資料館
- 関西スポーツ口述史研究会
- 小瀬村康隆後援会記念ページ