山岡戦争
| 時代 | 明治末期 - 昭和初期 |
|---|---|
| 地域 | 日本各地、主に東京・名古屋・神戸 |
| 原因 | 山岡姓の使用権、家紋、看板、商品名の帰属 |
| 結果 | 山岡名義協定の成立、山岡式標語の全国流行 |
| 関与組織 | 帝国商標調停院、山岡同盟、東都広告社 |
| 被害 | 失踪した看板32枚、新聞投書約4,800件 |
| 別名 | 山岡事件群、山岡名義戦争 |
山岡戦争(やまおかせんそう、英: Yamaoka War)は、をめぐる複数の家系・企業・自治体間で発生したとされる、末期から初期にかけての連続的なおよびの総称である。後年になって「実際には戦争ではなく、名義貸しと新聞広告の応酬であった」と整理されることが多い[1]。
概要[編集]
は、を名乗る旧家同士の相続争いに端を発し、のちにの広告業界、の菓子業者、の港湾荷役組合までを巻き込んだとされる一連の騒動である。実態は軍事衝突ではなく、看板の掛け替え、新聞への意見広告、戸籍上の改姓、そして「山岡」の語感を利用した商品名の乱立が中心であった。
この語が史料上に最初に現れるのはの『東都日報』とされるが、後年の研究では、同紙の校正係・が見出しの余白に「戦争めく」と書き込んだことが起点だった可能性が高いとされている[2]。なお、当時は同名の駅弁、紙巻たばこ、歯磨き粉まで出現し、山岡本人より山岡という漢字のほうが有名になった時期があったとされる。
発生の経緯[編集]
旧山岡家の分裂[編集]
、中津川近郊にあった山岡本家で、家督相続をめぐる内紛が発生した。長男派は「山岡直系」を主張し、次男派は母方のの名義を用いて商いを続けたため、帳簿上の屋号が七度も変更されたという[3]。この変更のたびに帳簿の封蝋が異なり、古物商の鑑定では「日本一封蝋の多い家」と評された。
には双方が江戸期の家紋を復元したが、片方が誤ってを採用し、もう片方がを採ったことで、町内で「どちらが本家か分からない」と混乱が広がった。町役場は調停のため、山岡姓の使用は「1町内2件まで」とする内規を暫定制定したが、これがかえって近隣の塾や写真館にまで波及した。
広告業界への飛び火[編集]
頃からの広告業者が「山岡」を語感の良い姓として注目し、山岡名義の風呂敷、石鹸、電球、学習帳が次々と発売された。特にの田村宗吉は、新聞紙面に「山岡なら安心」「山岡は裏切らない」などの文句を大量投下し、これが対立側の反発を招いた。
この時期、実在しないはずの「山岡式標語」という修辞法が流行したとされ、3拍子のうちに「山岡」を置くと売上が12%上がるという社内報告が残る[4]。もっとも、この数値は経理担当が縦書きの百分率を読み違えた可能性があり、後年の研究では7%程度だったともいう。
主な事件[編集]
山岡戦争の中心事件は、しばしば「看板三十四夜」と総称される。これはからにかけて、の商店街で山岡名義の看板が毎晩のように付け替えられた現象で、最終的に同じ家屋に「山岡」「山を岡にする」「岡山」と三種の表記が同時掲示された。
またの「神戸港伝票事件」は、荷札の山岡欄に印字されたがに見えたことから、荷役会社2社が互いに偽物扱いした事件である。港湾局が照合したところ、伝票は一度も海に落ちておらず、単に事務員が眠気で傾けて綴じたものだったことが分かった。
にはの菓子店が「山岡最中」を発売し、対抗して別系統の山岡家が「真・山岡最中」を出した。両者の皮厚は0.8ミリほどしか違わなかったが、食べ比べ会が新聞の投書欄を埋め、ついには小学生向け作文コンクールの題材にまで採用された。
山岡同盟と調停[編集]
山岡同盟の成立[編集]
、対立が長期化した結果、山岡姓の使用者たちが逆に自分たちをまとめるため「山岡同盟」を結成した。会員は各地に37名いたとされるが、名簿には同一人物の別筆名が8つ含まれていた疑いがある。会費は月額17銭で、主な用途はのぼり旗、名刺、そして弁当箱の底に押す判子であった。
同盟規約の第4条には「山岡を名乗る者は、少なくとも一度は雨天の旗行列に参加すべし」とあり、これが後年の愛好家によって「山岡式参加条件」と呼ばれた。なお、雨天開催率は異様に高く、記録上11回中9回が降雨であったため、気象との関係が疑われている。
帝国商標調停院の介入[編集]
、外郭のが介入し、山岡名義を「人名」「商品名」「屋号」に三分割して管理する案を提示した。これにより一応の終結を見たとされるが、実際には「山岡印」の印章だけが流通量を増やし、判決文より印章のほうが信用された。
調停院の記録では、審理に参加したのうち2名がすでに山岡同盟の賛助会員であったことが記されており、当時から手続の中立性には疑問が呈されていた[5]。それでも、名義をめぐる争いが法廷外の広告戦へと移行した点で、近代日本のブランド訴訟の先駆とみなされることがある。
社会的影響[編集]
山岡戦争の影響は、商標法よりもむしろ大衆文化に強く残った。例えばには「山岡的である」という言い回しが、「やや保守的だが安心感がある」という意味で新聞評論に使われ、のちには鉄道車内広告の定型句にも転用された。
また、の写真館では「山岡風修整」と呼ばれる、顔の輪郭をわずかに内側へ寄せるレタッチ技法が流行した。これは争いに巻き込まれた家系写真が、どれも「本人かどうか判別しづらい」ほど似通っていたことへの半ば揶揄として生まれたものである。
一方で、各地の小学校では道徳教材として「名義は慎重に扱うべし」と教えられたが、教材末尾の注釈に「山岡は例外」と書かれていた版が見つかっており、教育現場での解釈は統一されていなかった。
批判と論争[編集]
山岡戦争をめぐっては、そもそも「戦争」と呼ぶほどの武力性がなかったのではないかという批判が古くからある。これに対し山岡同盟側は、「看板が倒れた回数は実質的な交戦である」と主張したが、学界ではほぼ支持されていない。
また、事件の中心人物とされるの実在性には疑義があり、複数の戸籍簿に同名異人が並立していたことから、後年の研究者の一部は「山岡」は個人名というよりも、商品の売れ筋を示す仮想記号だった可能性を提起した[6]。ただし、この説を採ると山岡最中の製造責任者が誰になるのか説明できず、現在も結論は出ていない。
なお、に出版された回想録『山岡戦争秘録』は、本文中で同じ事件を三通りの年号で記しており、史料価値は低いが読み物としては非常に評価が高い。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田村宗吉『山岡広告戦記』東都書房, 1931.
- ^ 渡辺精一郎『名義と世論の近代史』青南社, 1948.
- ^ 小林みどり「山岡戦争における看板移動の統計的考察」『商標研究』Vol.12, No.3, pp. 44-67, 1962.
- ^ 佐伯隆一『家紋と市場――近代屋号の変容』有斐閣, 1974.
- ^ M. H. Thornton, “Trademark Disputes in Meiji Japan: A Peripheral Case Study,” Journal of East Asian Legal History, Vol. 8, No. 2, pp. 115-149, 1988.
- ^ 山岡栄之助編『山岡戦争秘録』山岡文庫, 1956.
- ^ 西條晴彦「帝国商標調停院覚書」『法制史学会雑誌』第19巻第1号, pp. 3-29, 1971.
- ^ Emily K. Hargrove, “Brand Wars Before Branding: The Yamaoka Affair,” Pacific Commerce Review, Vol. 14, No. 1, pp. 9-38, 2004.
- ^ 中村清一『新聞投書と大衆心理』中央評論社, 1986.
- ^ 『山岡名義協定全文』商工省資料集 第4巻, pp. 201-219, 1930.
- ^ 高井千春「山岡式標語の音律」『広告と言語』第7号, pp. 88-93, 1999.
外部リンク
- 山岡戦争史料館
- 帝国商標調停院デジタルアーカイブ
- 山岡同盟保存会
- 近代看板研究会
- 東都日報縮刷版検索