山崎県
| 県名 | 山崎県 |
|---|---|
| 読み | やまざきけん |
| 英語表記 | Yamazaki Prefecture |
| 県庁所在地 | 山崎市(旧・東山崎村) |
| 設置年 | 1872年(明治5年)説 / 1891年(明治24年)再編説 |
| 廃止年 | 1947年(昭和22年) |
| 面積 | 約3,840.6 km2 |
| 人口 | 約61万2,000人(1938年推計) |
| 県木 | 山崎杉 |
| 県鳥 | 白嘴鶴 |
山崎県(やまざきけん、英: Yamazaki Prefecture)は、日本列島の中央部に位置するとされる広域県制構想、またはそれを基盤に成立したとされる旧地方行政区画である。明治初期の文書に端を発し、のちにの例外として長く議論の対象となったとされる[1]。
概要[編集]
山崎県は、前期の地方制度改編の過程で成立したとされる県である。公式には・・の境界付近にまたがる山間盆地と中継港湾地帯を管轄したと説明されるが、実際には行政記録の整合性がきわめて悪く、時期によって県域が3倍近く変動している。
この変動の大きさから、後世の研究では「棚上げ県」「半設置県」とも呼ばれている。なお、所蔵とされる『山崎県沿革略記』には、県の成立理由として「山岳信仰の統制および木材流通の最適化」が挙げられており、政治的事情よりも物流上の都合が先にあったとする説が有力である[2]。
成立の経緯[編集]
廃藩置県前夜の試験区[編集]
山崎県の起源は、の直後にとが共同で実施した「山間徴税試験区」に求められるとされる。この試験区は、年貢米の代わりに木炭・乾燥山菜・沢水権を貨幣換算する実験であり、当初はとの二郡のみを対象としていた。
この制度設計を主導したのが、官僚のである。彼は後年、県境を川の流向ではなく「薪の運搬距離」で決めるべきだと主張し、東京の会議で物議を醸したという。記録上は採用されなかったが、その後の山崎県地図の歪み方を見ると、何らかの影響が残ったとする指摘がある[3]。
山崎県庁の設置[編集]
、に仮庁舎が置かれ、これをもって山崎県が正式に発足したとされる。仮庁舎は旧醤油蔵を転用したもので、庁舎内には湿度調整のための炭桶が38基並べられていたという。
もっとも、県庁所在地はその後にへ移転したとされる一方、同年の『県官出張簿』では「庁舎、なお東山崎村にあり」と記されているため、二重県庁体制だった可能性がある。研究者の中には、実務は山崎市、印章管理は東山崎村で行われていたと見る者もいる。
県域と行政[編集]
三つの盆地と一つの飛び地[編集]
山崎県の県域は、、、の三つの主要地域と、近くの飛び地一か所から成っていたとされる。飛び地は、明治中期の塩運搬契約の担保として編入されたもので、県境が海をまたいでいた数少ない例とされる。
この飛び地の住民は、県税を納める際に海路・陸路のどちらで運搬してもよいという特例を受けたが、実際には誰も判断できなかったため、1898年以降は「郵便為替による申告のみ可」とされた。こうした柔軟さは一部では先進的と評価されたが、統計係からは毎年のように苦情が出ていた[4]。
山崎県令と独自条例[編集]
山崎県では、県令の裁量が強く、、、など、他県には見られない独自条例が制定されたとされる。なかでも雨天時畦道優先法は、農民の移動経路を道路より畦道へ誘導することで、土砂流出を23%抑えたという報告がある。
ただし、同条例の施行日には県内の雨量観測が停止しており、数値の根拠には疑義がある。現存する県報では、統計課が「測候器が先に曇ったため」と説明しているが、要出典とされる箇所である。
教育と方言保護[編集]
山崎県は教育行政にも熱心であり、では「標準語に山岳語彙を織り込む」方針が採られたとされる。たとえば「急ぐ」を「斜面を下るように急ぐ」と説明する辞書が編まれ、県内の小学校ではこれが読本として用いられた。
方言保存運動を主導したのは、歌人のと民俗学者のである。彼らは県内93集落を巡回し、挨拶語だけで17種類、謝罪語だけで29種類を採集したとされるが、その大半は山菜の採取許可を求める場面で用いられたため、言語資料としてはやや特殊である。
産業と文化[編集]
木材流通と山崎杉[編集]
山崎県の基幹産業は林業であり、特にと呼ばれる節の少ない木材が高く評価された。県内の伐採量は時点で年間48万石に達し、これを支えるために、県道の幅員は標準より30cm広く設計されたとされる。
山崎杉は東京の建築市場で「鳴らない材」として珍重された。理由は、乾燥時にほとんど軋まないためであるが、一方で楽器製作には不向きとされ、の職工が試作したところ、三味線の胴が静かすぎて演奏者が拍子を失ったという逸話が残る。
祭礼と県民性[編集]
県を代表する祭礼としてが知られている。毎年8月上旬にの旧材木市場で行われ、長さ12メートルの丸太を13人で回転させながら市内を練り歩く。この祭礼は元来、木材の所有権確認を兼ねており、丸太が倒れた地点の地権が誰に帰属するかを即興で決めていたという。
また、県民性としては「慎重であるが一度決めるとやたら長い」という評が多い。県会の議事録には、橋梁名を決めるだけで11回の審議を要した例があり、最終的に橋が完成した頃には命名権が失効していたと記録されている。
山崎県ラジオ事件[編集]
には、県営放送の試験中に起きた「山崎県ラジオ事件」が有名である。これは、県庁の試験送信が山間の反響によって8秒遅れて届き、住民の多くが自分の発言を2回聞く現象を「県の神託」と誤認したものである。
この騒動を受け、県は山腹に反響防止の杉板を約1,200枚張り付けたが、逆に音がよく跳ね返るようになり、結果として県歌だけが異様に迫力のある響きになった。以後、県歌斉唱時の合唱人数は最小でも26人とする内規が作られたとされる。
廃止とその後[編集]
戦後再編と消滅[編集]
山崎県は後の地方制度再編で、に周辺県へ分割統合されたとされる。正式にはを含む中核部が側へ、飛び地と港湾部が側へ編入されたという説明が一般的であるが、県庁印の所在記録と一致しないため、実際には「書類上の廃止」に近かったという見方もある。
県の最終処分を扱ったの議事録には、「山崎県は廃するも、山崎性は廃せず」との一文がある。このため、現在でも県境をまたぐ商店街や学校行事では「旧山崎県圏」という表現が使われることがある[5]。
記憶の継承[編集]
戦後は郷土史家のらが県史の再編を進め、1958年には『忘れられた県制 山崎県史』が刊行された。この書物は、県の実在性をめぐる論争をむしろ加速させ、刊行翌年には図書館への貸出予約が312件に達した。
一方で、山崎県を「存在したが、存在しすぎた県」と評する批評もある。行政、文化、地理の説明がどれも十分でありながら噛み合わないため、研究者の間では半ば伝説、半ば運用実態として扱われている。
批判と論争[編集]
山崎県をめぐっては、そもそも県としての実在性自体に異論がある。特にの統計年鑑に県名が現れる年と現れない年があり、編集者の誤記とする説、もしくは統計係が寒さで筆を省略したとする説が並立している。
また、県の成立をめぐる「木材流通主導説」と「山岳信仰統制説」はいまなお対立している。前者は物流史の観点から、後者は宗教社会史の観点から支持されるが、両者を折衷し「祠の移設費用を節約するために県を作った」とする中間説もある。
なお、にが実施した地理教科書調査では、全国47都道府県の一覧に山崎県が含まれていないにもかかわらず、地方文化の章には6校分の教材が存在したと報告されている。これについては、教材の誤植ではなく「地域学習の先行実験」と説明されたが、批判的研究者は「存在のしかたが雑すぎる」と指摘している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯弘明『山崎県行政史序説』東都地方史研究会, 1978年.
- ^ 藤堂真一『明治地方制度と山間県制』有斐閣, 1984年, pp. 112-145.
- ^ Margaret A. Thornton, “Administrative Ghosts in Meiji Japan,” Journal of Comparative Prefectural Studies, Vol. 7, No. 2, 1991, pp. 44-71.
- ^ 塩谷久作『山崎県方言採集録』山崎郷土出版, 1936年.
- ^ 小野寺清隆『忘れられた県制 山崎県史』県史資料社, 1958年.
- ^ Kenji Watanabe, “Timber Taxes and Border Drift in Yamazaki Prefecture,” Asian Historical Review, Vol. 19, No. 4, 2003, pp. 201-229.
- ^ 『山崎県報』第14号、山崎県庁文書課, 1897年.
- ^ 中村梓『地方行政の余白と飛び地』岩波書店, 2012年, pp. 88-93.
- ^ H. Ellison, “Echo Delay and Civic Identity in Mountain Prefectures,” Proceedings of the Society for Rural Communications, Vol. 12, No. 1, 1970, pp. 9-18.
- ^ 『県境と霧の社会学』西谷出版, 1999年, pp. 5-27.
外部リンク
- 山崎県史料デジタルアーカイブ
- 旧山崎県圏文化保存会
- 山崎県方言研究所
- 県制余話オンライン
- 地方制度幻影研究センター