岡山電気軌道浦安線
| 路線名 | 岡山電気軌道浦安線 |
|---|---|
| 通称 | 浦安電車 |
| 種別 | 都市軌道・防潮兼用路線 |
| 所在地 | 岡山県岡山市南部 |
| 起点 | 岡山駅南口連絡停留場 |
| 終点 | 浦安浜防災広場前 |
| 開業 | 1938年(昭和13年) |
| 廃止 | 1974年(昭和49年) |
| 営業距離 | 8.4 km |
| 軌間 | 1,067 mm |
岡山電気軌道浦安線(おかやまでんききどううらやません)は、南部の旧臨海区画を結ぶとされたである。戦前の干拓地における防潮・通学・送迎を兼ねた“半公共交通”として構想されたが、実際には塩分計測と電圧調整がひとつの路線内で同時に行われたことで知られる[1]。
概要[編集]
は、南部の旧地区と市街中心部を結ぶ目的で計画されたとされる路線である。名目上は通勤・通学輸送を担うであったが、実際には干拓地の地盤沈下対策として軌道下に排水溝を併設し、高潮時には架線を一時的に防潮杭へ転用する仕組みが採られていたという[2]。
同線はの支線として扱われたが、社内では「営業線」ではなく「沿岸生活線」と呼ばれていた。これは車両ごとの乗客数よりも、海風で錆びる部材の交換頻度が経営指標になっていたためであり、月次報告書には乗降人員のほかに塩分濃度、錆色指数、夕立後の復電時間が記載されていたとされる。
成立の経緯[編集]
干拓地と電化計画[編集]
浦安地区で最初に軌道構想が持ち上がったのは頃で、の干拓監理委員会が、農道のぬかるみ対策として小型電車の導入を提案したことに始まるとされる。当初は馬車軌道が想定されていたが、の記録的な高潮により、車輪の代わりに“潮位に負けない導電性”が重視され、電気軌道へ変更された[3]。
設計者たち[編集]
中心人物は技師のと、港湾課出身のであった。渡辺は東京から招聘された電化技師で、海沿いの軌道には通常より0.3ボルト高い補償電圧が必要だと主張した人物として知られる。一方、西村は潮位表と通学時間割を同一の冊子に印刷するという独自の運用案を提示し、後に浦安線の“実務的狂気”を象徴する人物と評された。
開業まで[編集]
の開業式では、前から浦安浜までの試運転列車が、海苔の乾燥台を避けるために通常より3度ほど蛇行して走行したという。式典には、、地元漁業組合のほか、なぜかの塩害対策班まで出席していた。なお、開業当日の終電後には、架線柱の先端にカモメが止まることで電流が安定したという逸話が残るが、これは当時から要出典とされている。
路線の特徴[編集]
浦安線の最大の特徴は、通常の停留場に加えて「潮待ち停留場」が3か所設けられていた点にある。これらは満潮時にのみ列車が交換運転を行う施設で、時刻表上は存在するが、天候次第で毎朝“開業”と“休止”が入れ替わった。
車両は木造2軸の小型電車を改造したものが中心で、床下に真鍮製の砂撒き装置、車体側面に測潮板が取り付けられていた。乗務員には運転士、車掌のほか「潮読み補助」が1名乗務し、海風の方向によってベルの打ち方を変えるという奇妙な規則があった。
運行と利用[編集]
通学輸送[編集]
朝の浦安線は主にと方面の通学客で混雑した。もっとも、定期券の半数は「濡れてもよい者」と印字された特別券で、これを持つ利用者は雨天時に優先乗車できたとされる。1956年時点の推計では、平日朝の平均乗客数は1便あたり74.2人であったが、そのうち約11人は途中で長靴を脱ぐために降車したという。
漁業と市場輸送[編集]
午後の浦安線では、から岡山市中心部へ向かう鮮魚輸送が目立った。電車の前部に取り付けた木箱にハゼ、アナゴ、時に塩蔵イカが積まれ、運賃は重量ではなく“魚の機嫌”で決められたとされる。市場関係者の証言では、1959年頃に車掌が値札を間違え、魚と乗客の運賃が逆転した事件があり、これが後の運賃表整備のきっかけになったという。
社会的影響[編集]
浦安線は、単なる交通機関というよりも、干拓地の住民にとって“海と街をつなぐ秩序装置”として受け止められていた。停留場ごとに設けられたベンチの高さが潮位基準で統一されたため、結果として地域住民の膝の強さが平均より高くなったとの調査もある。
また、沿線にはの前身である研究機関の実習地があり、ここで行われた塩害実験は全国の軌道保守に影響を与えたとされる。一方で、地元では「浦安線が来ると雨が止む」という俗信が広まり、子どもたちは雷鳴が聞こえると停留場の時刻表を掲げて屋根代わりにしたという。
廃止とその後[編集]
モータリゼーションと護岸工事[編集]
後半になると、浦安地区の護岸整備と道路拡張により、浦安線は徐々に自動車交通へ置き換えられた。とくにの大規模道路改良では、電車の曲線半径よりもダンプカーの回転半径が優先され、営業継続が困難になったという。最終運行日は3月31日とされ、最後の列車は通常の赤い尾灯のほか、潮位異常時に使う青色灯を点灯して走った。
遺構と記憶[編集]
廃止後、軌道跡の一部は遊歩道化されたが、地元ではいまも「電車道」と呼ばれている。枕木を再利用した防風柵の一部が周辺に残るほか、終点付近には架線柱の基礎だけが潮風にさらされた状態で保存されている。なお、2003年の市民調査では、沿線住民の27%が“浦安線は今も月に一度だけ試運転している”と回答しており、路線の神話化が進んでいることが示された[4]。
批判と論争[編集]
浦安線には、当初から「防潮機能を名目にした過剰設備ではないか」という批判があった。特に架線を兼ねた防風柵や、停留場の屋根をそのまま避難所登録する方式については、の監査委員会から会計上の扱いが不明瞭であると指摘されている。
また、塩害対策として車体に塗られた特殊塗料が、季節によっては淡いピンク色に変化するため、沿線の一部住民から「海辺の化粧電車」と揶揄された。もっとも、運営側はこれを景観政策の一環として反論し、1962年には『都市景観と潮風』と題する内部報告書を発行している[5]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『沿岸都市における補償電圧の実務』岡山電気軌道技術資料室, 1939年.
- ^ 西村トミ『潮位表と時刻表の整合運用について』岡山県港湾課報告, 1941年.
- ^ 高橋春彦「岡山南部干拓地の交通形成」『地方交通史研究』Vol. 12, No. 3, pp. 41-66, 1968年.
- ^ 山本友哉『岡山電気軌道浦安線の軌道構造と塩害対策』鉄道工学社, 1975年.
- ^ Margaret A. Thornton, “Electrified Tramways in Brackish Delta Zones,” Journal of Municipal Transport Studies, Vol. 7, No. 2, pp. 88-113, 1981.
- ^ 井上康平「浦安線における潮待ち停留場の運用実態」『岡山地方史紀要』第18巻第1号, pp. 9-27, 1992年.
- ^ S. K. Elwood, “The Curious Case of the Salt-Sensing Tram,” Proceedings of the International Urban Rail Symposium, Vol. 4, pp. 201-219, 2001.
- ^ 岡山市史編さん室『岡山市南部交通史資料集』岡山市, 2008年.
- ^ 藤森みどり「『海辺の化粧電車』と呼ばれた路線」『都市景観論集』第9号, pp. 55-73, 2014年.
- ^ 岡山電気軌道史料委員会『都市景観と潮風』内部報告書, 1962年.
外部リンク
- 岡山地方交通アーカイブ
- 浦安線保存会
- 岡山南部干拓史研究センター
- 潮位軌道データベース
- 岡山市近代交通資料館