嵯峨型重雷装重巡洋艦
| 艦種 | 重巡洋艦 |
|---|---|
| 計画母体 | 艦政本部 第七雷装研究班 |
| 計画時期 | 1929年-1934年 |
| 主要任務 | 夜戦、雷撃、通商破壊 |
| 基準排水量 | 13,800トン |
| 全長 | 224.6メートル |
| 主兵装 | 20.3cm連装砲8門、九三式改二酸素魚雷発射管16門 |
| 建造予定数 | 4隻 |
| 同型艦 | 嵯峨、桂、嵐山、清滝 |
嵯峨型重雷装重巡洋艦(さががたじゅうらいそうじゅうじゅんようかん、英: Saga-class Heavy Torpedo-Armed Heavy Cruiser)は、の艦政本部がからにかけて構想したとされる、超長射程魚雷運用を主眼とした仮想巡洋艦群である[1]。一般には「重巡の外装に魚雷戦艦の思想を詰め込んだ艦」と説明されるが、実際にはの旧・で行われた夜戦研究の副産物であったともいわれる[2]。
概要[編集]
嵯峨型重雷装重巡洋艦は、の外形を持ちながら、実質的にはの中核として運用することを目的に設計されたとされる艦級である。海軍内では「砲撃で敵を縛り、魚雷で海域そのものを沈める」という思想を象徴する存在として扱われた。
その性格上、艦橋の背後に魚雷庫を積み上げる異様な配置が採用され、整備員からは「前が見える要塞、後ろが危険物置場」と揶揄されたという。なお、設計審査の過程での技師が「この船は艦ではなく賭博場に近い」と記した回覧メモが残っているが、真偽は定かでない[3]。
成立の背景[編集]
起源は初期の夜戦演習にさかのぼるとされる。当時、沖で行われた演習では、旧式巡洋艦が味方駆逐艦の雷撃を妨げる「自走障害物」と化したことから、艦隊直掩よりも独立雷撃を担う重武装巡洋艦の必要性が唱えられた。
これを主導したのが、架空の人物ではなく資料上も断片的に確認されるである。彼はに提出した『大型艦艇ニ於ケル雷装集中配置ノ研究』の中で、魚雷を「外交文書に先立って発言する兵器」と表現し、以後の軍令部内で一種の流行語になったとされる[4]。
設計[編集]
船体と重心管理[編集]
船体はを基礎にしつつ、艦中央部に雷装区画をまとめるため、全長が16メートル延長された。結果として重心が上がりやすくなり、試験航海では横揺れ周期が通常艦の1.8倍に達したという。これを受けてでは、バルジ内部に水密セメントを詰める奇策が採られたが、後に「船に重しを入れて安定させるのは、上司を座らせるより簡単だった」との回想が残された[5]。
雷装の異常な集中[編集]
最大の特徴は、舷側に沿って前後2段式に配置された合計16門の発射管である。第一甲板上では発射時の圧力波が艦橋下部を直撃するため、実艦ではなく実験艦段階でしか許容されなかったともいわれる。ただし、の改良型を用いた場合、1回の斉射で最大64本の魚雷が海面に落ちた計算になるという記録があり、演習海面には「魚雷の畑」と呼ばれる帯状の航跡ができたとされる。
砲戦思想との折衷[編集]
主砲は20.3cm連装砲8門で、砲撃戦を放棄しない姿勢が示された。もっとも、艦隊参謀の一部は「砲は敵を驚かせるための前口上にすぎず、本番は魚雷である」と述べたと伝えられる。これに対してでは、主砲塔旋回時の振動が魚雷照準装置に影響するため、射撃管制を完全に分離する必要があると報告したが、最終的には「両方載せたほうが予算が通る」という政治的判断が勝ったとされる[6]。
開発史[編集]
、で行われた模型試験により、嵯峨型の第一案は「高速すぎて魚雷発射の余裕がない」という奇妙な欠点を示した。これを受け、設計陣は速力を35ノットから32ノットへ意図的に落とし、代わりに雷撃管制の安定性を確保したという。
には、艦名候補として『嵯峨』『桂』『嵐山』『清滝』の4案が提出され、宮内省の命名慣例に近い響きであることから「京都観光艦隊」と陰口を叩かれた。また、海軍省の記録には、ある将官が「京都の山名を背負う以上、失敗しても風雅に見える」と発言したとする走り書きがあり、後年この一文だけが妙に有名になった[7]。
しかしの予算折衝で、同型艦4隻のうち2隻が削減され、残る2隻も「試験的艦体」として扱われた。この時点で既に計画は事実上の終息を迎えたが、雷装配置のノウハウは後の特務艦艇や実験艦の設計に細々と受け継がれたとされる。
運用構想[編集]
海軍戦術上は、敵艦隊の進路に先行して斉射を行い、その後に砲撃で混乱を増幅させる「二段雷撃戦法」が想定されていた。これは遠距離での夜戦を重視するの思想に合致していたが、実際には味方駆逐隊との識別が難しく、演習では2回に1回の割合で「自軍が自軍を包囲する」事態が生じたという。
なお、艦内には雷装訓練専用の記録室が設けられ、魚雷ごとに発射時刻、海象、月齢、乗員の食事内容まで記録された。特に冬季演習で、発射命中率が夕食にが出た日だけ12%高かったことから、料理長が一時「戦果担当士官」に昇進しかけた逸話が残る[8]。
社会的影響[編集]
嵯峨型の噂は軍内部にとどまらず、やの造船関係者にも広まり、民間では「魚雷を積みすぎると船は沈まず、思想が沈む」といった言い回しが生まれたとされる。軍需工場では、雷装の図面を指す隠語として「嵯峨紙」が用いられたという。
また、海軍技術者の間では、重巡洋艦の設計において砲・魚雷・復原性の三者を同時に満たすことを「嵯峨る」と呼ぶ俗語が一時流行した。もっとも、この用法はの公文書には見当たらず、戦後に同人誌的な回想録から定着した可能性が高いとされる。
批判と論争[編集]
計画当初から、艦隊派の一部は「巡洋艦に魚雷を過剰装備するのは、礼服に弁当箱を縫い付けるようなものだ」と批判した。一方で、雷撃重視派は「海戦において最も速いのは砲弾でも艦でもなく、決断である」と応酬し、会議はしばしば深夜まで続いた。
最も有名な論争は、雷装数を14門から16門へ増やすかどうかをめぐるものである。増設を主張したは、艦の美観が損なわれるという反対意見に対し「海上では美観より先に距離が決まる」と答えたとされるが、この発言は後年の編集で脚色された可能性がある[9]。
同型艦[編集]
同型艦として計画された4隻は、それぞれ艦内レイアウトに微妙な差異があったとされる。『嵯峨』は最も標準的で、前部魚雷庫の冷却効率が高かった一方、『桂』は艦橋の視界が悪く、雷撃よりも航海長の機嫌が戦闘力に直結したという。
『嵐山』は試験的に発射管の一部を航空観測装置に転用しており、軍内部で「魚雷より先に情報が飛ぶ艦」と呼ばれた。『清滝』は最終案として最も静粛性に優れたが、逆に静かすぎて「戦う前に存在感が消える」として不採用になったと伝えられる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 嵯峨野俊一『大型艦艇ニ於ケル雷装集中配置ノ研究』海軍技術協会, 1932.
- ^ 井上久平『夜戦思想と重巡の変質』潮書房光人新社, 1978.
- ^ Marjorie L. Haddon, "Torpedo Saturation and Cruiser Doctrine in Interwar Japan", Journal of Naval Imaginaries, Vol. 12, No. 3, 1994, pp. 211-247.
- ^ 佐伯辰雄『艦政本部回想録 1930-1935』帝国海事出版社, 1961.
- ^ K. H. Whitmore, "The Saga-Class and the Politics of Heavy Armament", Pacific Naval Studies, Vol. 8, No. 1, 2002, pp. 44-69.
- ^ 『海軍造船史料集 第七巻 雷装艦編』日本造船史料刊行会, 1955.
- ^ 高橋みどり『京都の軍港幻想と近代工業』岩波書店, 2009.
- ^ Edward J. Mallory, "When Cruisers Learned to Gamble: A Study of Pre-War Night Actions", The Marine Review Quarterly, Vol. 19, No. 4, 1987, pp. 99-130.
- ^ 『艦艇設計要覧 第3版』海軍省艦政局, 1934.
- ^ 中村肇『魚雷庫の文化史』中央公論新社, 2016.
- ^ Fumio Arai, "The Curious Case of the Kyoto Cruisers", Asian Naval History Review, Vol. 5, No. 2, 2011, pp. 13-28.
外部リンク
- 帝国艦艇アーカイブ
- 京都海軍史料館デジタルコレクション
- 雷装艦研究会紀要
- 日本仮想海軍年報
- 夜戦戦術史データベース