川越インターメディカル
| 正式名称 | 川越インターメディカル |
|---|---|
| 通称 | KIM |
| 分類 | 医療連携・流通統合方式 |
| 提唱者 | 斎藤定信、町田ユリ、ほか |
| 発祥地 | 埼玉県川越市 |
| 成立 | 1928年頃と推定 |
| 主な対象 | 診療所、薬局、検査搬送、記録台帳 |
| 特徴 | 蔵造り倉庫を用いた中継、夜間搬送、共通問診票 |
| 年間処理件数 | 約18万件(1987年時点の推計) |
| 象徴施設 | 旧川越中継診療庫 |
川越インターメディカル(かわごえインターメディカル)は、を中心に成立したとされる、医療機器、流通、遠隔診療、記録管理を横断する地域連携方式である。もともとは末期に倉庫業者と町医者のあいだで試験的に始まった「診療具共同搬送網」を起源とするとされる[1]。
概要[編集]
川越インターメディカルは、の中心部に見られた複数の診療所、薬局、検査所、倉庫業者が、患者の移送・検体搬送・診療記録の共有を半ば慣例的に統合した仕組みである。今日では地域医療連携の先駆と説明されることが多いが、初期には単なる「薬箱の貸し借り」と「往診車の相乗り」から始まったとされる[2]。
この方式の特徴は、の町家に備えられた奥座敷や土蔵を一時保管庫として使い、診療具、輸血用具、さらには患者の紹介状まで夜間に束ねて運んだ点にある。またの貨物扱いが限定的だった時期に、駅前の米穀商が中継点となったことが発展の契機になったとされる。もっとも、記録の一部は戦災で失われており、正確な成立経緯にはいまなお異説が多い。
成立の経緯[編集]
最も広く知られる説では、に内科医の斎藤定信が、期の結核対策で余剰となった担架と消毒器を再利用したことから始まるとされる。斎藤は周辺の開業医を訪ね歩き、各医院で別々に保管されていた器具を一括で管理する案を出したが、当初は「医療の共同倉庫化など前代未聞である」と一笑に付されたという[3]。
しかし同年秋、による道路寸断で診療用アルコールが数日間届かなくなり、の薬局が旧米蔵を臨時の集積所として貸し出した。この対応が評判を呼び、町医者どうしの間で「インターメディカル」、すなわち中間搬送を前提とする医療が自然発生的に制度化したとされる。なお、当時の会計簿には「薄荷油 3合」「診療札 28枚」など妙に細かい記載が残るが、誰が整理したのかは不明である。
展開[編集]
1930年代に入ると、川越インターメディカルは北部の周辺町村へ拡張し、診療所間での紹介状の定型化が進んだ。とくにとの連携が強く、耳鼻科で処方された薬包が、夜をまたいで産婦人科に回されるという奇妙な運用が一般化したとされる[4]。
16年頃には、町内会が「医療回覧板」を作成し、患者本人ではなく桶に入れた薬包が先に隣町へ到着する運び方まで考案された。これがいわゆる「先着桶方式」である。資料上は合理的に見えるが、桶に貼る札の文字が雨でにじみ、誤っての抜歯器具がに送られた事故が少なくとも7件あったと記録されている。
主要人物[編集]
斎藤定信[編集]
斎藤定信は、川越インターメディカルの創始者とされる町医者である。患者の待ち時間を短くすることに異様な執念を持ち、診察室の扉に「待合 12名以上は裏口より入室可」と書いた張り紙を掲げた逸話が残る。彼が残したとされる覚書には、という一文があり、後世の編集でやや格調が盛られた可能性がある[5]。
町田ユリ[編集]
町田ユリは、薬局経営と帳簿整理を担った女性で、川越インターメディカルを実務面で支えた中心人物である。彼女は共通台帳の欄外に、患者の来院時刻だけでなく「靴の泥の量」「雨具の有無」まで記録しており、これがのちの搬送ルート最適化に役立ったとされる。なお、彼女の台帳はにの床下から発見されたが、なぜ床下にあったかは最後まで説明されなかった。
北見栄二[編集]
北見栄二は、の元補助員で、医療物資の時間指定搬送を提案した人物である。彼の功績は小さいが、貨車の扉に白墨で「検体・急送」と書く習慣を広めた点で評価される。北見は晩年、川越の祭礼で山車の回転速度と搬送所要時間の相関を調べ始め、住民から「医療より祭りを見ている」と半ば呆れられたという。
制度と運用[編集]
川越インターメディカルの運用は、共通問診票、共同搬送、夜間保管、月例の症例会議の四本柱で構成されていたとされる。問診票は最終的に12項目から31項目へ増え、やのほかに「鯉のぼりの有無」「味噌汁の濃さ」まで記入欄が拡張されたという。
また、各診療所は周辺に「小中継庫」と呼ばれる棚を設け、そこに薬包やカルテを置くことで深夜配送を回避した。配送は原則として自転車で行われたが、雨天時には荷車、繁忙期には人力車が併用され、1948年の統計では平均搬送距離が1.7km、遅延率が3.4%であったとする資料がある。ただし、この数値は後年の記念誌にのみ見られ、一次資料の所在は確認されていない[6]。
社会的影響[編集]
この方式は、川越の町医者文化に「医療は孤立していては回らない」という感覚を浸透させたとされる。とりわけでは、薬局が休業していても隣の乾物屋が「代受け」を引き受ける慣習が生まれ、日用品の受け渡しまで医療連携の作法が流用された。
一方で、役所側はこの仕組みを正式な行政制度として扱うか長く迷い、の内部文書には「町内互助の延長にあるため、許認可の対象外とする案」などが見える。結果として、川越インターメディカルは公的制度と民間慣行の中間に位置する曖昧な存在として存続し、それがかえって地域への定着を強めたという見方がある。
批判と論争[編集]
批判としては、記録の標準化が進む一方で、現場の裁量が大きすぎるという指摘があった。特にの「薬包裏表逆事件」では、同じ名前の患者が3名いたため処方が混線し、町内会で半月にわたり謝罪文が回覧されたとされる。
また、川越インターメディカルは「効率化の名を借りた近所づきあいの強制ではないか」との批判も受けた。とくにには若い医師が「紙台帳ではなく電算処理へ移行すべき」と主張したが、ベテラン勢が「数字が増えると患者の顔が減る」と反発し、最終的に台帳の右端だけを電算カード化する中途半端な妥協に落ち着いたという[7]。
現代への継承[編集]
現在では、川越インターメディカルは正式な医療制度というより、地域包括ケアの原型として回顧されることが多い。とくに以降は、で台帳複製や搬送袋の展示が行われ、見学者のあいだで「医療のネットワーク化は、最初は紙と自転車だったのか」という感想が定番になっている。
なお、川越市内の一部薬局では、いまも開店時に木札を裏返して「受付可」にする独自慣行が残るが、これが直系の伝統かどうかは意見が分かれている。2021年の聞き取り調査では、地元の薬剤師12名中9名が「祖父の代からそうだったと聞く」と答えた一方、実際に祖父が薬剤師だったのは4名だけであった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 斎藤定信『川越中継診療史』川越医学会出版部, 1962年.
- ^ 町田ユリ『蔵と薬包――川越インターメディカル覚書』関東保健文化研究所, 1971年.
- ^ 北見栄二「貨物扱いと診療具搬送の相関」『交通と衛生』Vol. 8, No. 3, pp. 44-61, 1949年.
- ^ 川越市医療史編纂委員会『小江戸医療連携年表』川越市史料室, 1984年.
- ^ Harold P. Merton, “Intermedical Warehousing in Provincial Japan,” Journal of East Asian Health Systems, Vol. 12, No. 2, pp. 103-129, 1991.
- ^ 中村澄子「川越インターメディカルの会計帳簿にみる夜間搬送」『地方史研究』第31巻第4号, pp. 19-36, 1987年.
- ^ Eleanor V. Shaw, “The Collective Pill and the Market Alley,” Medical Logistics Review, Vol. 5, No. 1, pp. 7-22, 1978.
- ^ 埼玉県立歴史と保健の資料館編『展示図録 川越インターメディカルとその周辺』, 2009年.
- ^ 田所正彦『医療は速達にして慈悲なり――地域連携の思想史』新潮社地方文化叢書, 1998年.
- ^ 川越インターメディカル研究会『先着桶方式の実際』、なぜか第2版, 2015年.
外部リンク
- 川越市史料デジタルアーカイブ
- 埼玉地域医療文化研究センター
- 小江戸保健史ミュージアム
- インターメディカル協会川越支部
- 蔵造り医療遺構保存会