巡空艦
| 正式名称 | 巡空艦 |
|---|---|
| 分類 | 軌道警備用大型艦艇 |
| 運用開始 | 1968年頃とされる |
| 主運用域 | 低軌道・静止軌道補助帯 |
| 推進方式 | 多段式電磁噴進機 |
| 乗員 | 標準48名から112名 |
| 主管庁 | 運輸省 航空宇宙局 |
| 代表的母港 | 種子島沖合曳航区画、相模湾仮設係留場 |
| 備考 | 艦橋を持たず、観測塔を兼ねた回転居住区を備える |
(じゅんくうかん、英: Orbital Patrol Cruiser)は、上および準軌道域において長距離監視・警備・輸送補助を行う大型艦艇の総称である。後期にの外郭研究班によって制度化されたとされる[1]。
概要[編集]
巡空艦は、との中間に位置する独特の艦種として説明されることが多い。通常の宇宙機が単発任務を前提とするのに対し、巡空艦は数か月から最長3年にわたりの巡回、遭難機の曳航、違法打上げ機材の拘束、さらには上層大気の気象観測まで兼務したとされる。
その設計思想は、戦後日本の官庁再編期における「海上保安」と「航空管制」の折衷案として生まれたという説が有力である。もっとも、当時の文書には艦名の代わりに「空海連絡船」「上空巡視艇」などの揺れが見られ、用語の統一にとの調整が何度も行われたとされる[2]。
歴史[編集]
黎明期と制度化[編集]
巡空艦の原型は、にの旧航空実験廠で行われた「空域滞留甲板」試験に求められる。これは本来、気象観測用の大型気球回収装置であったが、夜間に回収索が長すぎて上空まで達し、偶然にも電波反射板を牽引できたことから、半ば事故として構想が始まったとされる。
には内に「巡空艇準備班」が設置され、同年11月、初の構想図『上空巡視艦試案第3号』が作成された。図面には艦首にスクリュー状の放電器が描かれており、後年の研究者からは「当時の設計者がの感覚を捨てきれなかった証拠」と評されている。
最初の実験艦と運用拡大[編集]
に進水した試作艦は、全長84.7メートル、全備重量1,930トン、居住回転円盤直径19メートルという、当時としてはかなり無理のある仕様であった。就役初日に上空で姿勢制御系が18秒だけ停止し、艦内の卓上茶碗が全て天井に吸着したという逸話が残る。
しかし、この不具合により逆に「無重力下での簡易茶器固定法」が発明され、後にが標準化したため、巡空艦は技術史上の成功例として再評価された。なお、同艦は1971年までに17回の緊急曳航を実施し、そのうち4回は民間の気象観測バルーンを誤って貨物室へ回収してしまった記録がある。
黄金期と官民混成運用[編集]
後半から前半にかけて、巡空艦はもっとも数を増やしたとされる。背景には、の前身組織との電波監視部門が共同で、静止軌道帯における違法中継器の摘発を強化したことがある。
この時期の代表例がで、同艦は沖の回収訓練中に、誤っての漁船群に補給用レーションを投下し、翌週には地元漁協から「空から来る飯は味が濃い」との苦情と感謝状が同時に届いた。こうした半ば伝説化した事例により、巡空艦は警備機材であると同時に地域振興の象徴として語られるようになった。
設計[編集]
巡空艦の最大の特徴は、艦橋の代わりに設けられたである。塔は毎時7回転し、乗員は遠心力を利用して疲労を軽減するとされたが、実際には昼夜の感覚が狂うため、整備員の多くが3週間ほどで敬語の語尾を失ったという。
また、推進方式として採用されたは、表向きには静音性と高効率が評価されたが、夜間点火時に艦腹が青白く発光し、横浜港周辺の住民が「人工衛星が怒っている」と通報した記録が残る。艦尾には回収索を兼ねた伸縮式ドックアームがあり、これが実質的に巡空艦の「手」として機能した。
運用[編集]
監視・曳航任務[編集]
巡空艦の標準任務は、における24時間巡回である。1隻あたり平均で1日7.4件の小型物体接近警報を処理し、そのうち約2件は鳥型デブリ、残りは訓練中の人工衛星であったとされる。
曳航任務では、最大で質量120トンの観測機材を安定軌道まで引き戻せたという報告がある。一方で、1978年のでは、対象の試験衛星を見失ったまま近接していた広告用風船を牽引し続け、結果的に風船側だけが回収成功扱いになった。
国際共同運用[編集]
以降、巡空艦はの勧告を受け、・・との共同監視演習にも参加したとされる。特にで開催された「Orbit Liaison Week」では、日本製の巡空艦が北米側の係留クレーンと互換性を持たず、現地作業員が3日間にわたり継ぎ足し式の足場を手作りしたことが議事録に残る。
この不便さが逆に高く評価され、巡空艦は「互換性より誠意を積む艦」として親しまれた。もっとも、英語圏ではしばしば orbital patrol cruiser ではなく space warder と誤訳され、の一部資料では修正に半年を要したという。
批判と論争[編集]
巡空艦には、建造費の高騰をめぐる批判がつきまとった。1976年度予算では1隻あたり約1,840億円に達したとされ、の査定担当者が「艦内に畳敷き休憩室が必要か」と強く疑義を呈した記録がある[3]。
また、巡空艦の運用が一部で観光化したことも問題になった。とりわけ沖の係留イベントでは、一般公開日に乗船券が7分で完売し、艦内の自動販売機に「宇宙なのに甘酒がある」との投稿が相次いだ。これに対し、関係者は「巡空艦は公船であり、テーマパークではない」と説明したが、翌年には艦内に記念スタンプが設置されたため、批判はやや空転した。
なお、1989年のについては、実際には「宇宙酔い」ではなく、艦内食堂の味噌汁が重力制御と干渉して具だけ壁面に集まったことが原因とする説がある。ただし、これを裏づける一次資料は乏しい。
社会的影響[編集]
巡空艦は、宇宙政策そのものよりも、むしろ日本の官庁文化に大きな影響を与えたとされる。各省庁が独自に似た艦種を作ろうとした結果、は「巡学艦」、は「巡畜艦」の構想を一時検討し、最終的にどちらも予算折衝の段階で消えた。
一方で、巡空艦の制服は、1980年代の企業ユニフォームにも影響を与えた。胸ポケットが左右非対称であること、袖口に微細な反射糸が使われたこと、そして何より「艦内では名札を磁石で留める」という方式が、後に大手流通企業の防犯タグに応用されたとされる。
文化面では、巡空艦を題材にしたの特別番組『空を巡る人たち』が全国で高視聴率を記録し、放送翌週には子ども向け学習雑誌で「宇宙の船はなぜ茶碗を固定できるのか」という特集が組まれた。これにより、巡空艦は子どもの将来なりたい職業ランキングで一時的に8位に入ったという。
終焉と再評価[編集]
巡空艦は以降、維持費と老朽化のため順次退役したとされる。最後まで現役だったは、最終任務として沖で回収した旧式測距装置を、なぜかの博物館へ直接輸送し、そのまま「空から届いた文化財」として展示された。
退役後、艦体の一部は各地に分割保存されたが、観測回転塔だけは所在が定まらず、内の倉庫からの私設資料館へ、さらにのイベント会社へ移ったという噂がある。これについては、地元紙の短い欄外記事しか確認されていない。
近年では、巡空艦は「過剰に官僚的で、だからこそ宇宙に向いていた日本的装置」として再評価されている。特に技術史研究では、艦そのものよりも、複数省庁が互いに責任を押し付け合いながら結果的に大艦隊を成立させた点が注目されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯俊介『巡空艦制度史序説』航宙評論社, 1997年.
- ^ Margaret A. Thornton, “Patrol Cruisers in Low Orbit: A Comparative Study”, Journal of Orbital Logistics, Vol. 12, No. 3, 1989, pp. 41-78.
- ^ 木下恵一『上空巡視艦の設計思想』日本航空工業協会出版部, 1981年.
- ^ Harold P. Wynne, “The Politics of Air-Sea Hybrids”, Space & Administrative Review, Vol. 8, No. 1, 1974, pp. 9-22.
- ^ 『運輸省 航空宇宙局年報 昭和43年度』運輸省印刷局, 1969年.
- ^ 田島みどり『回転塔のある宇宙船――巡空艦と身体感覚』晶文航研究所, 2005年.
- ^ K. Nakamura, “Dock Arms and Tea Bowls: A Technical Note”, Proceedings of the International Conference on Orbital Support Craft, Vol. 4, 1972, pp. 113-119.
- ^ 『宇宙酔いではなく味噌汁である』宇宙乗員衛生研究会報, 第14巻第2号, 1991年.
- ^ 松浦徹『日本の準軌道行政と係留経済』中央軌道新書, 2011年.
- ^ Elizabeth M. Carr, “The Misread Terminology of Japanese Patrol Vessels”, Trans-Asian Aerospace Papers, Vol. 21, No. 4, 1995, pp. 201-230.
外部リンク
- 日本巡空艦史料アーカイブ
- 軌道警備技術研究会
- 相模湾宇宙交通博物館
- 巡空艦整備員OB会
- 準軌道行政資料室