平沢唯・中野梓の変
| 時期 | 諸説あり(おおむね12世紀末-14世紀初頭) |
|---|---|
| 場所 | 近畿地方、東海道沿岸、若狭湾岸 |
| 性質 | 礼法改変、楽器儀礼、学僧間の継承争い |
| 原因 | 譜面の誤読、茶菓の供出順、笛袋の色分け |
| 影響 | 軽音院制の成立、二名交替法の普及 |
| 主な人物 | 平沢唯、中野梓、久石澄明、斎藤三十郎 |
| 関連文書 | 『梓笛日録』、『唯礼抄』、『甲賀別記』 |
| 別名 | 唯梓変、二弦の変、桐笛騒動 |
| 現在の評価 | 音楽史と儀礼史の境界事例として扱われる |
平沢唯・中野梓の変(ひらさわゆい・なかのあずさのへん)は、においてから一帯へかけて断続的に続いたとされる、音律と礼法をめぐる変動である[1]。後世には系譜の成立に関わる転換点として扱われるが、史料の多くが後代の写本であるため、実態についてはなお議論がある[2]。
概要[編集]
平沢唯・中野梓の変は、後期の寺院・宿駅・私設学寮を中心に伝えられた一連の儀礼改革を指す。一般には、琴・笛・拍子木の配列をめぐる小規模な作法争いであったとされるが、後世の『梓流』編纂者は、これをの教養秩序を揺るがした大変として描いた。
名称の由来は、儀礼の標準化を主導したとされる平沢唯と、反対派の記録を整理した中野梓の両名にある。もっとも、両者が同時代人であったかについては異論があり、同名異人説、あるいは商人帳簿上の符号名説も存在する[3]。
背景[編集]
この変の背景には、の雅楽院との行商連合が共同で流通させた「三拍子譜」の普及があるとされる。譜面は本来、法会での入退場を簡略化するためのものであったが、書写のたびに拍の置き方がずれ、やがて『唯譜』と『梓譜』の二系統に分岐した。
また、沿岸の塩倉から供出された笛袋の染料が、季節によって青から紫へ変色することがあり、これが「変」の象徴と解釈された。近年の染織分析では、鉄分の多い海水が原因と推定されているが、当時の記録では「色の違いが口論を生んだ」と真顔で記されている[4]。
経緯[編集]
唯礼の採用[編集]
最初の動きは、末年ごろにの学寮で起きた。平沢唯派は、演奏者の配置を円環状に置く「輪唱式」を採用し、拍子木を一人が持ち替えることで人数を節約した。この方法は、寒冷地の法会で手を温めやすいという実務的利点があり、北陸の寺社で急速に広まった。
一方で、輪唱式は拍の始点が曖昧になりやすく、記録係からは「書き写す者の精神を試す制度」と批判された。なお、の円堂院に残る木札には、拍子木の数が3本から11本へ増減した痕跡があり、これが後の論争の火種になったと考えられている。
梓側の反発[編集]
中野梓側は、これに対抗して直線配置と厳格な順番制を主張した。梓派の『甲賀別記』によれば、彼らは「一人が一音を誤れば、席次もまた乱れる」と述べ、の宿駅ごとに異なる笛袋印を導入したという。
ただし、実際には梓派の帳簿の方がずっと複雑であり、記録のために別置された小箱が冬季に凍結したことから、かえって会計が滞ったとの指摘がある。これが、後世において「梓は規律、唯は運用」と単純化される原因になった。
決定的な転回[編集]
転機は、年間ので開かれた合同法会であった。ここで平沢唯は、供茶の並びと演奏の拍を一致させる「茶拍同調」を提案し、参加者の8割がその場で賛同したとされる。これに対し中野梓は、茶碗の持ち手が左回りでなければ演奏の終止がずれるとして反論し、会場は一時騒然となった。
この際、記録では「第三の鐘が鳴る前に、七つの譜面が折り畳まれた」とだけ残されている。後代の研究者は、これは実際の鐘ではなく、会計係が三度目の勘定を示す符牒であった可能性が高いとしている。
社会的影響[編集]
平沢唯・中野梓の変の直接的影響として、各地の寺院で二名交替による演奏補助が制度化された。これにより、年中行事の負担は軽減され、やでは冬期の欠席率が17%低下したという帳面が残る。
また、商人層はこの変を利用して「唯袋」「梓袋」と呼ばれる運搬具を作り分け、袋の紐の結び方だけで所属を判別する仕組みを整えた。これが後の座商の符牒文化に影響したとされる。なお、の記録には、この区別を誤った役人が3日連続で別の会所に案内された逸話があるが、史実かどうかは定かでない[要出典]。
歴史的評価[編集]
江戸期の儒学者は、平沢唯を「柔の代表」、中野梓を「峻の代表」として対置したが、明治期の史料批判以降は、両者を単純な対立軸で理解する見方は後退した。むしろ、地方の実務慣行が中央の作法を逆輸入し、そこで再び整序された循環過程として評価されている。
一方で、末から初期にかけて刊行された『唯梓儀礼論集』では、両者を「音よりも名が先に歩いた稀有の事例」と位置づけており、学界では半ば警句として引用されることが多い。
研究史[編集]
古典的研究[編集]
最初期の本格研究は、にの久石澄明が発表した『梓笛沿革考』である。久石は、の寺社文書との古商帳を突き合わせ、変の中心が宗教儀礼ではなく物流調整であったと主張した。
この説は当時ほとんど受け入れられなかったが、後に発見された竹札に「笛より先に茶を運ぶべし」と刻まれていたことから再評価された。もっとも、竹札の材質が産か産かで研究者の意見は割れている。
現代の再解釈[編集]
2000年代以降は、文化人類学と音響考古学の共同研究が進み、平沢唯・中野梓の変を「共同体の作法をめぐる可逆的な再編」とみなす見解が有力である。とりわけの民俗資料館で行われた2016年の復元演奏は、当時の拍子木間隔を2.3秒と再現したことで話題になった。
ただし、復元に参加した研究班が最後に鳴らした鐘だけは、史料に見えない「第四の鐘」であったため、学会では今も議論が続いている。
脚注[編集]
[1] 『梓礼録』巻一、平沢唯条。
[2] 中野梓『笛袋記』写本第4系統。
[3] 山口玲子「唯梓二名説の再検討」『東海道史研究』第18巻第2号、pp. 41-63。
[4] 渡辺精一郎「若狭湾沿岸における染料変質と儀礼用具の更新」『中世生活文化学報』Vol. 9, No. 1, pp. 12-29。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 久石澄明『梓笛沿革考』東京史料出版社, 1897.
- ^ 山口玲子「唯梓二名説の再検討」『東海道史研究』第18巻第2号, pp. 41-63.
- ^ 渡辺精一郎「若狭湾沿岸における染料変質と儀礼用具の更新」『中世生活文化学報』Vol. 9, No. 1, pp. 12-29.
- ^ Margaret A. Thornton, The Rhythm of Provincial Ritual Reform, Cambridge Folk History Press, 2008, pp. 77-104.
- ^ 佐伯直人『中世東国における拍子木制度』青潮社, 1974.
- ^ H. K. Velling, "Circular Seating and Liturgical Logistics," Journal of Imaginary Medieval Studies, Vol. 22, No. 3, pp. 201-219.
- ^ 小林麻衣「茶拍同調の成立と消滅」『民俗音響史叢刊』第7巻第4号, pp. 5-31.
- ^ 中野梓『笛袋記』影印解題、京都古文書刊行会, 1962.
- ^ 平沢唯『唯礼抄』校訂本、東国礼法研究所, 2011.
- ^ Josephine Reed, The Fourth Bell Problem in East Asian Ritual History, Vol. 4, No. 2, pp. 88-95.
外部リンク
- 東海道史料アーカイブ
- 梓笛研究会
- 中世軽音文化研究センター
- 古儀礼デジタル年表
- 唯梓文書図書室