年賀状の文学賞
| 名称 | 年賀状の文学賞 |
|---|---|
| 正式名称 | 全国年賀状文芸選奨 |
| 英語名 | New Year Card Literary Prize |
| 種別 | 短文文学・書簡文学 |
| 創設 | 1958年 |
| 主催 | 日本年賀文芸協会 |
| 後援 | 旧郵政省文化普及室 |
| 開催時期 | 毎年1月下旬 |
| 対象 | 年賀状本文・宛名面装飾・添書き |
| 最多受賞者 | 佐伯冬馬(8回) |
年賀状の文学賞(ねんがじょうのぶんがくしょう、英: New Year Card Literary Prize)は、に記された短文・挨拶文・挿絵付き随筆の完成度を競う日本の文学賞である。の旧郵政研究会から派生したとされ、戦後のの中で独自に成立したとされている[1]。
概要[編集]
年賀状の文学賞は、の挨拶として送られるの文芸性を評価する賞である。一般に、本文の言葉選び、紙面構成、句読点の置き方、さらに消印との整合性まで採点対象に含まれるとされる[2]。
一見すると奇妙な制度であるが、成立当初はの配達遅延を逆手に取った「到着後に読まれる挨拶」の研究会から始まったと説明されている。のちにとは別系統の市民文学賞として定着し、地方のやが強く関与したとされる。
成立の経緯[編集]
戦後葉書文化との接続[編集]
起源は後半、の活版印刷工・神谷清次郎が、印刷ずれのある年賀葉書に「文字のにじみが感情を決める」と記したことに求められる。これを読んだ国文学研究室の有志が、に「葉書上の最小詩形」を選ぶ小会を開き、これが賞の原型になったとされる[3]。
当初は俳句、短歌、近況報告の三部門であったが、年賀状の定型文「旧年中はお世話になりました」が過度に強いと批判され、のちに「定型をいかに逸脱するか」が評価軸に変更された。この方針転換はの第4回選考会で、審査委員長のが「新年の挨拶における余白こそ文学である」と発言したことに由来するとされる。
郵政関係者の関与[編集]
内部では、年賀状を文学賞化する構想は当初「配達品質の可視化策」として扱われた。実際、にはの仕分け台に「作品扱い」と書かれた受賞候補箱が設置され、職員が誤配を避けるため赤鉛筆で感想を書き込んだという記録が残る[要出典]。
この仕組みは地方局にも波及し、やでは、雪で遅延した葉書が「時差を利用した叙情」として高評価を得た。なお、受賞作品の約3割が配達日数2日以上の遅着葉書であったとされ、選考委員会はこれを「季節文学の自然条件」と呼んでいた。
選考方式[編集]
点数配分[編集]
選考は100点満点で、構成30点、文体25点、紙面の余白15点、住所欄との調和15点、折り目の美しさ10点、切手の選択5点で構成される。1970年代以降は、の絵柄やの扱いも加点対象となり、特に「干支が本文の比喩に自然に溶けている場合」に満点が出やすいとされた。
また、宛名面の字の傾きが「送り手の躊躇を示す」として高く評価された年もあり、1978年の最優秀作は、受取人名の「様」の払いが0.7ミリ左にずれただけで記録的な高得点を得た。審査は通常からまでの12日間に行われ、最終日はの旧書庫で手袋を着用して開封するのが慣例である。
部門別の特徴[編集]
部門は「挨拶部門」「近況報告部門」「挿絵部門」「消印協奏部門」に分かれている。消印協奏部門は、消印の押印位置と本文の季節感が一致しているかを問う、極めて専門的な部門であり、にの小学生が提出した「配達日の雨音」を描いた1枚が初代受賞作となった。
一方で、挿絵部門では、風の松、、の三点が定番モチーフとされるが、1989年以降は「受け手の家族構成が想起できるか」が議論され、極端に家族像が見えない抽象作品が物議を醸した。これに対し、選考委員の一人であったは「説明しすぎる年賀状は、もはや文学ではなく転送メールである」と述べたという。
歴史[編集]
1950年代から1970年代まで[編集]
創設期は、の第1回からの第15回まで、応募総数が年間200〜400通程度で推移した。なかでもは40年の節目として、本文に「高度成長」と書いた作品が増え、経済記事のような年賀状が大量に流入したため、審査側が「景気の言い換え」を禁じる暫定規則を設けた。
また、にはの中学校教諭・三浦和夫が、差出人欄を使って一行詩を二重に仕込む技法を発明したとされる。この技法は「差出人二段活字法」と呼ばれ、後の受賞作の定番となった。なお、同技法ははがきの端に3ミリ以上の余白が必要であったため、郵便料金改定のたびに論争が起きた。
1980年代の拡大[編集]
に入ると、の家庭向け電話普及により「電話より先に年賀状で近況を知る」という生活様式が広まり、応募数はに1万2,480通へ達した。これに伴い、賞の影響で年末の文房具需要が急増し、の老舗文具店では万年筆の試し書き客が前年の2.6倍になったと報告されている[4]。
この時期、特に有名なのがの郵便局員・木下雪子の連作である。彼女は同一の文面を宛先ごとに3種類の紙質で送り分け、「紙が変われば親戚の距離感も変わる」と評された。審査委員会はこれを家族社会学的成果として扱い、文学賞でありながら統計資料としても重宝した。
平成以降の変質[編集]
以降はやの普及により応募数が減少したが、逆に「手書きであること」そのものが芸術性として再評価された。とりわけには、の主婦が、宛名を鉛筆で書き、消し跡を月の満ち欠けに見立てた作品で大賞を受け、以後「削り文学」と呼ばれる潮流を生んだ。
には、受賞作の半数が縦書きで、残り半数が横書きかつ右から左へ読ませる疑似逆行形式であったことから、選考委員会内で「年賀状はもはや翻訳の対象である」との見解が示された。これを受け、以降は海外在住の邦人向けに、、の3会場で同時選考が行われている。
著名な受賞作[編集]
初期の代表作[編集]
最もよく引用されるのはの「雪の遅配を待つ」です。これはの農家が、積雪のため三週間遅れで届いた年賀状に「ようやく新年が来ました」と一行だけ書いた作品で、選考委員は「到着そのものが挨拶である」と絶賛した。
の「父は切手を貼りすぎた」は、切手が3枚貼られた上に、余白へ追記した家族の所在報告が詩的とされた。なお、実際には受取人に届いた段階で4枚目の切手が貼られていたという記録があり、選考後に配達員の善意が話題になった。
後年の異色作[編集]
の大賞作「来年も、たぶん無事です」は、の会社員が、震災復興の文脈を踏まえつつ極限まで言葉を削った一作である。審査では満場一致に近い評価を得たが、作者が「昨年は書く余裕がなかった」と後日語ったため、文学賞というより生活記録として再解釈された。
さらにの特別賞「返信用の心」は、返信はがきを同封したにもかかわらず受取人が誰も返送しなかったことを逆手に取り、「未返信の集合が共同作品である」と主張した点で有名である。選考委員の一部は困惑したが、若手編集者の間では現在も引用される。
社会的影響[編集]
年賀状の文学賞は、日本のを延命させたとされる。特にからにかけて、全国で毛筆・万年筆・朱肉の売上が平年比18〜24%増加する要因になったとする調査がある[5]。
また、への波及も大きく、小学校の国語では「相手の年齢を想像して文体を変える」という課題が事実上の年賀状作文として採用された。これにより児童の約14%が、祖父母宛てに過剰に格調高い文面を書いてしまう現象が起きたという。なお、は2006年に「過度な雅語使用への注意」を出しているが、実際には誰も守らなかったとされる。
批判と論争[編集]
批判として最も多いのは、賞が「文学」の名を借りた年末儀礼にすぎないというものである。とくにの選考で、審査委員が全員喪中はがきの文体を高く評価したため、「不幸の説明の丁寧さを競っている」と報じられた[要出典]。
また、宛名面の美しさが過度に重視されることで、書道教室との境界が曖昧になっているとの指摘もある。一方で支持者は、受け手が封を開ける前に紙面全体を味わう点にこそ独自性があると主張する。実際、の受賞式では、審査員長が「年賀状は読む前にすでに読まれている」と発言し、会場が静まり返ったという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 石田雅彦『年賀状と近代文芸の接点』日本郵文社, 1972年.
- ^ 神谷清次郎『葉書の余白論』堺印刷研究会, 1960年.
- ^ 北条玲子「宛名欄における感情表現」『国語と生活』Vol. 18, No. 4, pp. 44-59, 1983年.
- ^ 佐伯冬馬『新年文体の実験』東都書房, 1991年.
- ^ M. Thornton, “Postal Sentiment and Seasonal Writing in Japan,” Journal of Epistolary Studies, Vol. 7, No. 2, pp. 101-128, 2004.
- ^ 三浦和夫「差出人二段活字法の試み」『文芸印刷』第12巻第1号, pp. 9-22, 1970年.
- ^ 木下雪子『雪国の年賀状地理学』北海文化出版, 1988年.
- ^ 渡辺精一郎「年賀状の消印と読解速度」『郵趣研究』第31巻第3号, pp. 77-90, 1996年.
- ^ L. Fernández, “On the Aesthetic of Late Arrivals,” Postal Humanities Review, Vol. 11, No. 1, pp. 5-31, 2015.
- ^ 『年賀状文学賞選考要覧 第9版』日本年賀文芸協会, 2021年.
外部リンク
- 日本年賀文芸協会
- 年賀状文学賞アーカイブ
- 郵便余白研究所
- 消印と文体の会
- 葉書美学資料館