広島友達構想
| 名称 | 広島友達構想 |
|---|---|
| 別名 | 広島相互友誼案、港友連合 |
| 成立期 | 16世紀末頃 |
| 中心地域 | 瀬戸内海沿岸、特に広島湾周辺 |
| 性格 | 港市間の友好・互助・通行保護の構想 |
| 提唱者 | 浅野重綱、エレアザル・ダ・コルテスらとされる |
| 消滅 | 20世紀初頭に制度としては消滅 |
| 主な文書 | 『港友誓約書』、『広島友達帳』 |
広島友達構想(ひろしまともだちこうそう)は、末から初頭にかけて沿岸で断続的に採用された、港市どうしのとを一体化した歴史的構想である[1]。のちにの文書で定式化されたことからこの名で呼ばれるが、初期の原型はとを結びつけた極めて実務的な慣行であったとされる[2]。
概要[編集]
広島友達構想は、港ごとに異なる関税・宿泊慣行・紛争調停手続きを、一定の相互承認のもとで束ねようとした歴史的構想である。単なる外交文書ではなく、船乗り・商人・寺社・蔵元が共同で維持した「友達札」と呼ばれる通行証制度を核としていた点に特徴がある。
同構想は末期のにおいて萌芽したとされ、のちにの港湾管理に吸収された。もっとも、当初の理念は「戦わずして港を増やす」ことにあったとされ、これは同時代の軍事的同盟観とは明確に異なるものであった[3]。
古代[編集]
伝承上の起源は、の海民が沿岸で行っていた「潮待ちの互酬慣行」に求められる。特定の浜に漂着した船を、出身地を問わず最低三晩は保護するという掟があり、これが後世の友達構想の原型になったとする説が有力である。
ただし、この時代の直接史料はなく、考古学研究室の整理簿にのみ現れる土器片の墨書「ともだち」の語が論争の中心になっている。なお、この墨書はに同研究室の倉庫で再発見されたが、箱に入っていたのがなぜか初期のマッチ箱18個であったため、真偽をめぐって長らく議論された[4]。
中世[編集]
末からにかけて、瀬戸内の港町では武装商船の衝突が頻発した。これに対し、の神人たちが「敵であっても飯は同じ釜で炊くべし」とする慣行を広め、港ごとの停戦証文が生まれたとされる。
14世紀後半、の庇護を受けた通詞・が、複数港の証文を束ねた『港友誓約書』を編纂した。これが広島友達構想の制度化の第一歩とされるが、原本はの火災で焼失し、現存するのは期に写された異本のみである。
この時期の特徴は、交易保護と宿泊相互扶助が一体で運用されたことである。商人はからまでの寄港先で、友達札を提示することで米二升と桶一つ、さらに「口論禁止の席」を与えられたという[5]。
近世[編集]
成立後、藩政の実務家であるは、港の「仲裁疲れ」を軽減するため、友達構想を藩公認の制度へ整理した。これにより、港ごとに異なっていた関税の端数処理が統一され、1樽あたりの手数料は平均でに固定されたと記録されている。
また、系商人のが経由で持ち込んだ「二重握手式の誓約法」が採用され、当事者双方が右手と左手で交互に杯を回す儀礼が追加された。この儀礼は効率が悪かったため、のちに港役人から強い不満が出たが、儀式のなかで最も誤解が少なかったとして存続した。
一方で、年間には友達札の偽造が相次ぎ、1年間に少なくともが回収されたとされる。もっとも、そのうち37枚は子どものお守りとして再利用されており、制度の拡張解釈がどこまで正統だったかは今なお研究者の間で意見が割れている[6]。
近代[編集]
後、広島友達構想は旧来の港市慣行として一時的に軽視されたが、との一部官僚が「非軍事的な港湾連携の雛形」として再評価した。とりわけの『港務簡易便覧』では、構想の理念が国際通商の円滑化に資すると説明されている。
この時期には、とを結ぶ民間航路で「友達汽船」と呼ばれる便が試験運航され、乗客は乗船時に互いの姓を一人ずつ覚えることが義務づけられた。乗客数は定員であったが、実際には「友達」を増やす名目でまで詰め込まれることがあり、これがかえって船酔いを助長したとの記録がある。
後には、港湾協調の理念がの周辺で引用されたという説もあるが、確認できるのはの小冊子『Harbor Fellowship and Small Nations』のみであり、学界では慎重論が優勢である[7]。
現代[編集]
後、広島友達構想は被爆後の都市再建と結びつけられ、内の複数の町内会が「助け合いの港」を標榜して再解釈した。とくにには、広島湾沿岸の倉庫群で『広島友達帳』が再編され、災害時の米・水・船舶燃料の相互融通ルールが明文化された。
には立図書館で友達札の大規模展示が行われ、来場者は1日平均に達した。展示終了後、札の一部が観光土産として複製され、なかには「友情成就」「航路円滑」の二行が逆さに印字されたものまであったが、これは製作所が意図的に“古文書らしさ”を演出した結果であると説明されている。
現在では、港湾史・災害史・地域連携史の交差点に位置づけられ、周辺の学校教育でも紹介されている。ただし、実際の制度としてはすでに消滅しており、現代の「広島友達構想」は主として記念行事と研究会の総称である。
研究史[編集]
史料批判[編集]
研究の出発点はの郷土史家による小冊子『港の友は海の友』である。中原は友達札を実物として提示したが、のちにその一部がの値札を転用したものであったことが判明し、史料批判の必要性が強調された。
一方、にで確認された『港友誓約書』の写本には、本文の余白に「次は味噌を忘るるな」との走り書きがあり、制度史資料としては異例の生活感を持つものとして注目された[8]。
社会史的再解釈[編集]
1990年代以降は、構想を外交史ではなく社会史として捉える研究が増えた。とくにが担っていた調停機能や、港ごとの子ども同士の「名まえ交換」が、非公式な友好圏を支えた要因として評価されている。
この解釈により、広島友達構想は上層の制度というより、日常の貸し借りと挨拶の累積から生まれた「小さな連盟」であったとみなされるようになった。ただし、2011年刊の研究書で「友達札は実質的に港版プリペイドカードである」と断じた論文が現れ、賛否を呼んだ[9]。
遺産と影響[編集]
広島友達構想は、港市間の紛争抑止というより、共同体の顔の見える関係を制度化した点で後世に影響を与えたとされる。特に沿岸の祭礼では、見知らぬ者同士に名を交換させる「名札渡し」の習俗が残り、これが友達構想の名残と説明されることがある。
また、現代のや制度に先駆ける発想として引用されることも多い。もっとも、各地の自治体が便乗的に「友達構想式観光連携」を名乗った結果、には宣伝ポスターのキャッチコピーが長すぎて駅構内の柱に巻きついたまま撤去不能になった、という逸話もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 中原吉之助『港の友は海の友』広島郷土史会, 1907.
- ^ 浅野文庫編『港友誓約書 校訂本』広島藩史料刊行会, 1932.
- ^ Margaret A. Thornton, “Fellowship Ports of the Inland Sea,” Journal of Maritime Microhistory, Vol. 14, No. 2, 1978, pp. 41-68.
- ^ 高瀬一郎『広島友達構想の成立と変容』関西港史研究, 第8巻第1号, 1989, pp. 15-52.
- ^ E. da Cortes, “Double-Hand Oaths and Harbor Peace,” Transactions of the Pacific Mercantile Society, Vol. 6, 1954, pp. 201-219.
- ^ 広島県立文書館編『広島友達帳影印集』県文書館叢書, 1984.
- ^ 小田切澄子『港宿の女性と調停文化』日本社会史学会, 1996.
- ^ Harold B. Wren, “On the Reverse Side of Friendship Tokens,” Bulletin of Odd Histories, Vol. 3, No. 4, 2001, pp. 9-31.
- ^ 田辺実『友達札はなぜプリペイドカードになりえたか』地方史新書, 2011.
- ^ 『港務簡易便覧』内務省港湾局, 1898.
- ^ 広島大学考古学研究室『潮待ち集落遺物目録』研究報告第27号, 1930.
外部リンク
- 広島港史資料アーカイブ
- 瀬戸内港友研究会
- 広島友達構想デジタル年表
- 港市互助文化博物館
- 古文書再現工房 札と舟