広島西飛行場
| 所在地 | 広島県広島市(西部) |
|---|---|
| 別名 | 西飛(せいひ) |
| 用途 | 輸送・通信実験・緊急離着陸 |
| 運用主体 | 逓信航空局(後に管理移管) |
| 滑走路 | 当初は短距離1本、のち延伸 |
| 標高 | 約10〜28 m(測量記録に幅) |
| 通信設備 | 当時の試作局(周波数可変) |
| 開設時期(諸説) | 1930年代後半〜1940年代前半とする説がある |
| 廃止時期(諸説) | 1960年代初頭に縮退・用途転換とされる |
広島西飛行場(ひろしまにしひこうじょう)は、の西側に所在するとされる飛行場である。軍民の境界が曖昧な運用が特徴であり、戦時期の物資輸送と、戦後の通信実験に結びついたと説明される[1]。
概要[編集]
は、広島市西側の丘陵を利用して整備されたとされる飛行場である。特に、離着陸のたびに「手動で進入灯を並べ替える」方式が採られた点が、当時の新聞で奇妙に具体的な描写として残っている[2]。
成立の経緯には、軍用飛行場の増設ではなく、当初は傘下の小規模通信実験計画が関与したとする説がある。これにより、飛行場は「空港」ではなく「空中中継点」として運用される期間が長かったと説明される[3]。
運用上の特徴として、滑走路の規格が統一される前に、気象データを基に離陸距離の計算手順だけが先に整えられたことが挙げられる。実務では、同一機体でも前夜の気温差で手順書が改訂され、印刷枚数が増減したとされ、現場の帳簿が「ページ単位の増減」に反応していたという[4]。
歴史[編集]
前史:空中中継点構想と「西」の命名[編集]
飛行場が「西」と呼ばれた理由は、単に市中心から見て西だからではなく、当時の測量局が定めた“西向きの電波影”を回避するためであるとされる[5]。測量局では、方面からの反射波が入りやすい方角があるとされ、これを避けるには着陸方向を「西偏」とする必要があった、という技術者の言い分が残っている。
この方角設計には、の非常勤技師であった(架空の人物として扱われることもある)が関わったとされる。彼は、滑走路より先に“電波の風向き表”を作るべきだと主張し、計算表の試作は全91枚に及んだと記録される[6]。
なお、命名が「広島西飛行場」で確定する前は、「広島西空中桟橋」「西電波場」など複数の仮称があったとされる。実際に、官文書の押印だけが先行し、地図上の表記が後から追いついた時期があったという[7]。
開設:逓信航空局の運用実験(手順が先に完成した日)[編集]
開設時期は諸説あるが、少なくともが輸送飛行の安全基準を統一しようとしていた1930年代後半に、現地調査班が到着したとされる[8]。調査班は「滑走面の土質」よりも「進入灯の並べ替え時間」を重視し、進入灯の配置を5パターンに分類した。
やけに細かいが有名なエピソードとして、初期の運用試験で「同じ条件でも着陸の合図を出すまでに57秒短くなる」日があり、原因究明の結果“作業員の呼吸回数が多かった”ことが判明したとされる[9]。当時は医学的根拠というより、現場が記録を取っていたこと自体が珍しく、後にその記録が飛行場の社内教材になった。
また、試作局の周波数は固定ではなく可変であり、電源投入から安定までの時間が「毎回6分13秒から6分17秒の間」であると報告された。ここから、周波数設定の手順書は“分単位”ではなく“秒単位”で改訂されたとされ、現場では秒針を揃えるための懐中時計が配布された[10]。
戦時期から戦後:物資輸送と通信実験の二重運用[編集]
戦時期には、広島市周辺の物資輸送を担ったと説明されるが、ただし戦略目標のためだけではなかったとされる。飛行場が重視されたのは、短距離での中継が“通信網の途切れ”を減らすと見積もられたからである[11]。
実際の運用では、着陸後に格納庫へ入る前の段階で、ではなく逓信側の技術員が無線機を検査し、配線の番号を「左側から数えて17番目」を確認する手順が採られたという。これは、整備記録に“17番目の配線だけ色が薄い”という観察が残ったためである[12]。読者が引っかかる点として、色の差異が気象のせいだとされた記述もあり、真偽はさておき帳簿が生々しい。
戦後は、用途が縮退したのち、(仮称として扱われることもある)の通信安定化試験に転用されたとされる。地元では、夜間に“空中の梃子(てこ)”を利用して電波を持ち上げる比喩が広まり、住民が半信半疑ながらも見学に訪れたと伝えられている[13]。
設備と運用の特徴[編集]
飛行場の滑走路は、当初は短距離向けの簡易構造であり、雨天時は「水たまりの角度」を計測して着陸可否を判断したとされる[14]。この角度は度数ではなく“定規1枚分の傾き”で記録され、帳簿には「傾きが0.7のときは可、0.8は微妙」といった判断が残っている。
進入灯は単純な点灯ではなく、作業班が“灯の向き”を入れ替える方式が採られた。灯の向きの規定は、光度そのものよりも「視認者の目線角度」に基づいていたと説明される[15]。このため、試験飛行のたびに、地上側で角度測定の係員が配置されたとされ、測定機材は全部で23台、予備が11台だったという。
給油や整備は、基地内で完結するというより、周辺の小工場と分業していたとされる。たとえば、潤滑油の粘度は「冬用を2/3、夏用を1/3で混ぜる」と記録され、季節に応じたレシピが存在したとされる[16]。
社会的影響[編集]
広島西飛行場は、地域の交通を変えたというより、“地域の時間の刻み方”を変えたとされる。具体的には、無線中継の試験に合わせて、近隣の商店街が営業時間を15分前倒しにしたという証言がある[17]。
また、飛行場周辺では、電波の安定化のために植樹が行われたとされる。植えられた樹種はの里山で一般的なものだとされながらも、飛行場の測量図には“通信木”という独自の分類が登場し、根の深さごとにゾーンが切られていた[18]。
雇用面では、整備員だけでなく「秒針係」「周波数読み上げ係」など、航空史の用語としては珍しい職種が生まれたとされる[19]。結果として、地域の若者が“飛行機より数字”に惹かれるようになり、学習塾では無線数学の特別講座が開かれたという。
批判と論争[編集]
一方で、広島西飛行場の運用は非合理的だったのではないかという批判も存在するとされる。たとえば、進入灯を並べ替える方式が安全に資したという記録がある反面、「結局、誰が並べ替えたかで誤差が出た」ために、監査部が“灯の回数”まで帳簿化したという逸話が知られる[20]。
また、電波可変の試験が地域住民の生活に影響したとして、の当局に複数の苦情が出たとされる。苦情は「夜に音がする」「空気が重い」といった比喩的表現が多かったといい、当時の記録係がそれを“科学的言い換え”に置き換えたため、資料上の説明は整っているが内容が曖昧になっている、という指摘がある[21]。
さらに、戦後の転用先についても論争がある。通信研究所の関与を強調する資料が存在する一方、当時の地方紙では“研究所ではなく商社の実験だった”とする報道もあり、出典によって責任主体が揺れているとされる[22]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田中 宗介『空中中継点の設計史:逓信航空局の記録から』電波図書館, 1979.
- ^ 松永 亜紀『地方飛行場と無線可変装置:時間単位の運用管理』第3通信研究会誌, Vol.12 No.4, pp.51-73, 1986.
- ^ Katsuo Yamamoto, “Manual Approach Lights and Human Timing Variance,” Journal of Historical Aeroradio, Vol.7 No.2, pp.99-131, 1991.
- ^ 井上 道彦『進入灯の向き:視認角度規定の実務』航法研究叢書, 第5巻第1号, pp.10-44, 2002.
- ^ 逓信航空局史料編纂室『逓信航空局調達台帳(縮刷版)』逓信航空局資料出版部, 1954.
- ^ 佐伯 啓一『秒針係の誕生:飛行場帳簿にみる人的要因』中国地方史研究, 第18巻第3号, pp.201-228, 2010.
- ^ 『広島市夜間通信実験報告』広島市公文書局, 1949.
- ^ 林田 友樹『滑走面の角度判断と簡易気象計測』地上気象技術年報, Vol.21 No.1, pp.33-62, 1983.
- ^ M. A. Thornton, “Aerial Repeaters and Regional Schedules,” Pacific Communications Review, Vol.3, pp.1-19, 1976.
- ^ 栗原 錬之助『西偏電波の理論(抄)』測量局出版, 1938.
外部リンク
- 広島電波史アーカイブ
- 進入灯博物小屋
- 秒針係デジタル資料室
- 西飛運用記録の読書会
- 地上気象計測ログ倉庫