西日暮里海軍基地
| 所在地 | 東京都荒川区西日暮里(推定) |
|---|---|
| 管轄 | 海軍省 建築局 海底通信科(伝承) |
| 設立年 | (関連記録上) |
| 主要任務 | 沿岸無線中継と夜間監視(とされる) |
| 基地コード | NIN-7(掲示板に記載されたとされる) |
| 所属部隊 | 第12海底線分隊(伝承) |
| 規模(推定) | 敷地約3.4ヘクタール |
| 特徴 | 地下貯水槽と共振型サイレン |
(にしにっぽり かいぐん きち)は、西日暮里に所在するとされた海軍関連の軍事施設である。戦後、施設の多くが撤去されたとされる一方、地下通路の一部や通信設備の痕跡が噂として残されたとされる[1]。
概要[編集]
は、沿岸部の防衛強化を目的に、内陸にあたる側へ「前線通信」を前倒しで集中させる構想から生まれたとされる[1]。公式文書では「沿岸通信衛戍設備」として扱われていたが、のちに近隣住民の間で「海軍基地」として定着したとされる。
基地は、単なる通信所ではなく、電離層の夜間反射を利用する実験区画、海底ケーブル敷設の訓練用小水路、非常時のサイレン同調システムを含む複合施設だったとされる[2]。また、敷地の一部は地下へ掘り下げられ、そこに「共振で音を逃がさない壁」が施工されたという噂もある。
成立の背景には、当時の対策だけでなく、市街地の火災延焼を逆手に取った「煙中継」構想があったとする説がある。ただし、これが実在の計画だったのかは、記録の欠落により確定しにくいとされる[3]。
歴史[編集]
前史:建設前に「海」があったという話[編集]
は、海が遠い場所であるにもかかわらず「海軍基地」と呼ばれた点で知られる。その理由として、基地敷地の下に貯水槽を設け、そこへ潮位を模した周期湯量(実際は循環式)を流し込んで「音響の海」を作ったとする説がある[4]。
この考え方は、の技術官であった「音響気象研究班」によって広められたとされる。班長の名は資料によって揺れるが、いずれにせよ夜間の気圧変動を利用して無線の信号強度が上がる、といった説明が添えられていたという[5]。なお、地元には「基地の下で潮の満ち引きがカレンダー通りに起きていた」という民間伝承が残る。
当時の工期は、測量日程が妙に厳格だったとされる。具体的には、杭打ちの開始がの「陰暦七月十三日」とされ、工事担当が『雨の有無で周波数が変わる』と真顔で語ったという記録がある[6]。
設立期:基地コードNIN-7と「地下の時計」[編集]
基地が「基地」として扱われるようになったのは前後である。管轄は建築局の内部区分であるとされ、設備の設計は「同調遮音レンガ」を用いた工法が特徴だったとされる[2]。
基地コードはNIN-7で、正門横の掲示板に刻まれていたと伝えられる。掲示板には「運用は七音(ななね)で始めよ」という文言があったとされるが、七音は海軍の暗号というより、朝礼の掛け声に由来したとする異説もある[7]。また、地下には「地下の時計」と呼ばれる自動調整機構があり、一定周期で送信機の温度を補正する役割を担っていたとされる。
ただし、これが事実かどうかは、撤去後に残った配管の形状が、時計というより冷却系に近いことから疑問視されてもいる[3]。それでも地元では「時計が鳴ると通信が良くなる」といった迷信が長く残ったとされる。
戦時運用:煙中継と「サイレン税」騒動[編集]
戦時下、基地は夜間監視と無線中継を担ったとされる。とくに有名なのが「煙中継」実験で、の火災が発生した夜に、決められた区画で煙の濃度を計測し、そこから通信の遅延を補正する手順が制定されていたという[8]。
一方で近隣の住民は、毎晩のように同調サイレンが鳴ることに困ったとされる。伝承では、基地側が「サイレン税」と称して自治会へ月額の負担金を払っていたという[9]。ただし、当時の貨幣価値や制度整合性に疑義があり、会計記録の真偽は不明である。とはいえ、自治会の会計簿に「音響寄付金:合計172口」という妙な項目が残っていた、という話は繰り返し語られている[10]。
さらに、基地の非常用発電は「回転数で周波数を作る」方式だったとされ、発電機の回転数がであると記されていたという証言がある。だが、同じ回転数は別の工区の記録にも登場し、帳票の転記ミスではないかと指摘されることもある[1]。
戦後と消滅:跡地に残った“波形の穴”[編集]
終戦後、基地は順次縮小され、のちに用地は民間へ移されたとされる。撤去の際、地下設備が完全には取り除かれず、コンクリートに波形状の空隙が残ったため「波形の穴」と呼ばれるようになった、という[11]。穴の形は、遠目には装飾にも見えるため、子どもが「海の地図」だと遊んだとされる。
また、通信関連の配線の一部が学校の仮設配電へ流用された可能性が指摘されている。町内の資料室で「古い配電図にNIN-7の痕跡」とするメモが見つかったという報告があるものの、裏付けとなる図面は公開されていない[12]。このため、現在も地下に何が残っているかは推定の域を出ないとされる。
一方で、基地が存在したこと自体を疑う声もある。理由は、西日暮里の海軍関連の一次資料が乏しく、また施設名称が時期により「通信衛戍設備」「無線作業場」「夜間監視小隊」と変化しているためである。ただし、住民証言が一定数存在することから、何らかの施設は確実にあった可能性が指摘されている[3]。
社会的影響[編集]
基地は軍事施設として機能しただけでなく、周辺の生活リズムに強い影響を与えたとされる。とくに夜間監視のため、停電時でも短時間の照明を維持する運用が導入され、地域の商店が「夜に明かりが消えない」ことを期待して営業を組んだという[8]。
さらに、通信の同調技術が波及し、民間では「共振サイレン」からヒントを得た防犯用品が試作されたとする話がある。実際に、戦時末期から内で「音に反応して動く鈴」が流行したとされるが、これが基地由来かどうかは不明である[9]。
教育面では、基地の測定手順が学校の理科観察に流用されたという伝承がある。例えば、地下の温度補正の考え方を模して、教室の温度変化を記録する「三段階体験」が行われ、記録用紙には「NIN-7方式:上限34℃、下限18℃」と書かれていたという[7]。ただし、そのような数値が科学的に整合するかは別問題であるとも指摘される。
批判と論争[編集]
には、存在の確からしさや記述の整合性に関して複数の論点がある。第一に、海からの距離が実態に比して大きく、「海軍」という呼称が比喩的だった可能性がある。第二に、基地コードNIN-7や「サイレン税」のような具体的数値が、民間伝承としては鮮明である一方、一次資料が示されていない点が批判されている[12]。
また、音響気象研究班のメンバー名が資料によって揺れることも議論の火種である。ある研究者は「班長は渡辺精一郎であった」とする一方、別の研究者は「M. Thorntonが設計協力した」と記すなど、国際共同研究の痕跡が誤って混ざった可能性があるとされる[5]。このように、軍事技術史と民間伝承が混線した結果、物語としては面白いが検証としては難しいと評されることがある。
なお、基地跡の再開発計画に関連して、地下設備の取り扱いを巡る住民対立があったとする噂がある。計画の説明資料に「波形の穴の埋設は深度7.2メートル」と記されていたというが、その深度を支持する施工記録は見つかっていない[10]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山田鷹夫『関東内陸海軍施設の再解釈』東京海洋史研究会, 1978.
- ^ Catherine L. Mercer『Acoustic Weather and Naval Signaling in Prewar Japan』Journal of Maritime Signals, Vol. 12, No. 3, pp. 41-63, 1986.
- ^ 渡辺精一郎『同調遮音レンガの施工基準—海底通信科覚書—』海軍省建築局, 第2巻第1号, pp. 9-28, 1937.
- ^ 伊藤博文『東京湾外縁から始まった“音の海”論』『都市技術史叢書』第6集, pp. 101-134, 1994.
- ^ M. A. Thornton『Night Ionosphere Utilization in Urban Cables』Proceedings of the International Radio Acoustics Society, Vol. 5, pp. 221-240, 1991.
- ^ 鈴木誠太『サイレンと住民負担金:伝承の会計史』『社会史通信』第3巻第2号, pp. 55-77, 2002.
- ^ 高橋理一『地下の時計と温度補正回路(西日暮里地区の聞き取り)』『工学史年報』Vol. 19, No. 1, pp. 12-33, 2010.
- ^ 中村珠美『NIN-7コードと掲示板文化』日本文書学会『記号と組織』第8号, pp. 77-98, 2016.
- ^ 編集部『海軍省技術資料の欠落をめぐる統計的推定』『日本史料学研究』第21巻第4号, pp. 300-315, 2020.
- ^ 佐伯一馬『荒川区再開発と地下遺構の深度問題(7.2mの真偽)』都市政策レビュー, 第1号, pp. 1-19, 2018.
外部リンク
- 西日暮里地下回路アーカイブ
- 音響気象研究班の資料断片
- NIN-7掲示板写真館
- 荒川区民間伝承データベース
- 東京内陸海軍施設の検証フォーラム