廿日目キラリ
| 氏名 | 廿日目 キラリ |
|---|---|
| ふりがな | はつかめ きらり |
| 生年月日 | 7月3日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 11月19日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 新聞挿絵師/広告図案家 |
| 活動期間 | - |
| 主な業績 | 「廿日目連載」挿絵の確立、夜間視認性を意識した配色体系の提案 |
| 受賞歴 | 光輪図案賞(架空) |
廿日目 キラリ(はつかめ きらり、 - )は、の新聞挿絵師である。『廿日目キラリ』という筆名は、明治末から昭和初期の「夜の広告文化」を象徴するものとして広く知られる[1]。
概要[編集]
廿日目キラリは、の新聞挿絵師であり、活版印刷の限界を逆手に取った「夜に映える線」を体系化した人物である[1]。
キラリの筆名は、ある菓子問屋の蔵番が「廿日目に必ず香りが戻る」と言ったことに由来するとされる[2]。一方で、本人が残した手帳では「廿日目=第三刷りで紙が落ち着く日」という記述も見られ、広告制作の工程が語呂合わせに転用された可能性が指摘されている[3]。
また、キラリは単なる挿絵にとどまらず、当時の広告主が抱えていた「夜間配布で読まれない」という問題を、色数・余白・筆圧の調整で解こうとしたとされる[4]。この姿勢は、戦前〜戦後の大衆メディアにおける視覚設計の考え方へと接続していったと考えられている。
生涯[編集]
廿日目キラリはに生まれた。父は和紙商の倉庫番で、母は行商の帳付けを担っていたとされる[1]。幼少期は「紙の匂いで天気を当てる」遊びに熱中し、雨の日の繊維の伸び具合を指で測ったという逸話が残されている[5]。
青年期、キラリはの初等師範附属図画教室で、幾何学の作図と版画の基礎を学んだ。ここで彼は、直線を引く際の鉛筆の減り方から「一画目の力は毎回0.7グラムで一定にすべき」と記録したとされる[6]。なお、この数値は後に広告図案の指針へ変換されることになる。
活動期に入ると、キラリはへ出て新聞社系列の工房に雇われた。彼が売り込んだのは、見出し周りの装飾である。とくに「夜の折り込み」に合わせた配色は、黒インクに対して朱の面積を総面積の14.3%に抑えるというルールで運用されたと伝えられる[7]。
晩年と死去では、キラリは制作から離れ、後進に「線は速さではなく沈み具合で読む」と教えたとされる。彼は11月19日、の療養施設で死去した。享年は78と記録されているが、戸籍写しでは77歳とされる箇所もあり、出版社の記念号による誤植が疑われている[8]。
人物[編集]
廿日目キラリは非常に几帳面な性格として描かれる。本人の言葉として、「締切は紙を焦がすが、焦げは写真では隠せない」との趣旨が引用されている[2]。
逸話として、ある広告主から「目立つために金を使いたい」と相談された際、キラリは「金箔は夜に溶けてしまう」と答えたとされる[9]。実際には当時の新聞印刷に金インクは不向きであったため、彼は代わりに“銀朱”と呼ばれた疑似メタリック調合の黒を提案し、結果として印刷事故が減ったという[10]。
また、キラリは共同制作を嫌ったとされる一方で、数値だけは他者の意見を取り入れたと伝えられる。工房の若手が「朱は15%が上限」と主張したとき、彼は「上限ではなく臨界点で測れ」と返し、臨界点を14.3%に再設定したという記録が残されている[7]。
業績・作品[編集]
廿日目キラリの代表的な業績は、新聞挿絵連載「廿日目連載」の確立である。これは毎月の“廿日目”に合わせて、商品説明と短い擬音(例:「きらっ」「すうっ」)を配置する方式として広まったとされる[4]。
彼の作品は、厳密には単発の挿絵として散発しているが、社内では制作手順が規格化された。たとえば「主役を左斜め45度に置き、顔の白抜きは縦幅の1.8倍で確保する」といった比率が、広告図案のテンプレートとして配布されたとされる[11]。
また、キラリは視認性のための配色体系も提案した。『夜間視認配色要綱』と呼ばれる私的資料では、黒の濃度をK=92として扱い、朱の彩度を“3段階”に制限することで、読者の目が散らないと説明されていたという[12]。ただし、このK=92は実際のインク分光測定値ではなく、工房の慣用指標だった可能性が指摘されている[13]。それでも現場では「数値で言われると従いやすい」という理由で採用が進んだとされる。
後世の評価[編集]
廿日目キラリは、戦後のグラフィックデザイン史の中で「新聞という短い接触時間に対する視覚設計」を先取りした人物として言及されることが多い[14]。
一方で、批評家の中には「キラリの線は“装飾の論理”に偏っており、情報設計の本質を置き換えている」とする見方もある[15]。とくに“擬音の配置”については、商品の説明より感覚語が強すぎるとする指摘があり、実際の広告効果がどの程度だったかは検証が難しいとされている[16]。
なお、キラリの墓碑銘では「線は未来の口である」と刻まれたとされるが、石材店の台帳には別案の文言が見られるという。編集者によって引用が揺れた可能性があるため、評価は依然として揺らいでいると考えられている[8]。
系譜・家族[編集]
廿日目キラリの家族は、同業者との縁が濃かったと伝えられる。彼はの製紙補助職の娘である「里小町(さとこまち)」と結婚したとされる[1]。里小町は“紙の色が湿度で変わる”ことに詳しく、キラリの配色ルールが現場で最適化された背景にあったとされる[5]。
子どもは2人で、長男はの印刷所で見習いになった「廿日目 錦太郎(はつかめ きんたろう)」、次女は後にで玩具ラベルの図案を担当した「廿日目 きぬ(はつかめ きぬ)」であると記録されている[17]。
ただし、里小町の旧姓が同時期の別戸籍と混同された可能性があり、家系図には空白がある。研究者の一部は、空白を埋めるために“廿日目連載の原型”が家庭内で試作されたのではないかと推測している[18]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山田 朋明『廿日目連載の図案史』金沢印刷学会, 1938年.
- ^ 高橋 朱音『夜の新聞はなぜ読まれたか』東京図画出版社, 1949年.
- ^ Martha L. Cunningham『Visual Scheduling in Mass Print (Vol.3)』Harborview Academic Press, 1956年.
- ^ 佐藤 繁治『挿絵と配色の現場規格』日本版画技術協会, 1961年.
- ^ Jean-Pierre Ravel『Le dessin publicitaire à l’ère de la composition chaude』Éditions du Compositeur, 1964年.
- ^ 廿日目家文書編集委員会『廿日目キラリ手帳抄(第2冊)』廿日目文庫, 1972年.
- ^ 光輪図案賞事務局『受賞者目録:図案賞の社会史』光輪図案賞財団, 1952年.
- ^ 中村 澄江『紙と匂いの計測論』大阪応用造形研究所, 1935年.
- ^ 井上 道郎『新聞社工房の人と仕組み』昭和工房叢書, 1950年.
- ^ Rossi, A.『Night Readability Metrics』(pp. 113-118) Vol. 1, Cobalt Science Press, 1959年.
外部リンク
- 廿日目連載アーカイブ
- 金沢版画工房資料館
- 夜間視認配色研究会
- 新聞図案デジタル索引
- 光輪図案賞データベース