徒花の押し花
| 分野 | 工芸技法・装幀意匠 |
|---|---|
| 用語の性格 | 芸術概念(技法+象徴) |
| 主な素材 | 押し花紙、植物片、澱粉糊、和紙 |
| 典型的な仕上げ | 栞・小冊子・署名付き栞止め |
| 成立経緯(俗説) | 市場に出せない花の救済として広まったとされる |
| 関連領域 | 保存標本学、文字図案、地域マイクロ出版 |
徒花の押し花(あだばなのおしばな)は、花を乾燥・圧縮して保存する押し花技法に、失敗作(徒花)由来の印象表現を組み合わせたとされる意匠系の工芸概念である。主にの文房具・装幀文化圏で語られ、戦後の小規模愛好家団体を起点に普及したとされる[1]。
概要[編集]
は、単なる押し花ではなく「売り物にならない花(徒花)」をあえて主役に据える点が特徴とされる。徒花とは、栽培や採取の過程で規格外となった花を指すことが多いが、作品解釈の文脈では「叶わなかった期待そのもの」と比喩されることもある。もっとも、学術的定義が統一されているわけではなく、各界隈でニュアンスが揺れているとされる。
成立は比較的新しいと語られることが多い一方、実務としての押し花そのものは古い技術に由来するとされる。ただし徒花の押し花が「意匠の言葉」として定着したのは、の小規模製本所が戦後の物資不足下で「余剰素材」を展示に回したことと結び付けて語られる。なお、後述するように、この説明は複数の当事者証言を束ねた編集物に基づくため、細部の差異が残っていると指摘されている[2]。
歴史[編集]
呼称の誕生と装幀工房の連鎖[編集]
徒花の押し花という呼称が街に出回った時期は、30年代後半から40年代初頭にかけてだと語られることが多い。発端としてしばしば挙がるのが、の「浅草紙業協同組合」作業部会に設置された、規格外花の保管棚である。そこでは、花を押す際に使う「圧し紙」の厚みを何枚にするかが議論となり、最終的に「計算上は43枚が最適」として試算表が回覧されたとされる。もっとも、その試算表は現存せず、当時の回覧控えだけが断片的に見つかっていると報告されている[3]。
同時期、装幀家の(架空名として語られる場合がある)を中心に、栞の台紙に押し花を貼る方式が「展示用の語り」を得た。押し花片をただ固定するのではなく、栞の余白に短い句や手紙文を添えることで、徒花の物語性が前面に出たとされる。さらに、栞を留める金具の型番(当初は“止め具S-17”と呼ばれ、のちにS-17aに改訂されたとされる)が、同人誌の奥付に記されるようになり、用語が技法を越えて文化として共有されていったとされる。
一方で、語が独り歩きしたことで「徒花=枯れた花」と理解する者も増えた。これに対し、当事者側では「徒花は枯れではなく“過程の失敗”である」と注釈を加える風潮が生じた。ここで注意すべきは、注釈の根拠とされた資料が、ある文房具店の店主の私人日誌に依存している点である。もっとも、その日誌は筆跡が二人分あるとも言われ、編集の段階で別の誰かが書き足した可能性が示唆されている。
全国展開と“密封フォーマット”の統一騒動[編集]
徒花の押し花が全国的に知られるようになった契機として、の「栞と小冊子の会」が主催した、昭和後期の巡回展示が挙げられる。展示では、作品を収納するための密封袋の素材規格が統一され、ガスバリア層の厚みを0.12mmとする“密封フォーマット”が採用されたとされる。しかし当時の実測記録は失われており、現存するのは配布されたリーフレットのみであるとされる[4]。
それでもフォーマットが効いた理由は、作品の見え方が「押し圧の強弱」と「乾燥の遅速」によって決まり、展示場ごとの環境差を一定程度ならすことができたからである。結果として、地方の素人作家も参加しやすくなり、マイクロ出版(地域の小冊子頒布)と接続する形で増殖した。
ただし、増殖は“標準化の暴走”として批判も招いた。とりわけ、の製紙メーカーとの間で「圧し紙の白さ指数(当初は指数W-3と呼ばれ、のちにW-4へ変更されたとされる)」をめぐる駆け引きがあったとする証言がある。なお、この話は展示の裏方が語った内容として伝わっており、同じ関係者が別の年に別の数字を口にしたという矛盾があるとも言われる。編集者はこの矛盾を“記憶のゆらぎ”として処理したとされ、記事としてまとめる際に意図的に曖昧化されたのではないか、という指摘もある[5]。
社会的影響[編集]
徒花の押し花は、美術品としての価値だけでなく「ものづくりの責任感」を生活文化に持ち込んだとされる。規格外の花を捨てる代わりに、記録として残すという発想が広がったことで、地域の花産業では廃棄フローの見直しが起きた、と主張する論考もある。たとえば、の一部農園では、摘み取りの際に“徒花候補”を別トレーへ移す運用が導入され、1日に平均で12.7kg(当時の関係者が電卓で計算した値とされる)の廃棄が「素材待ち」として保留になったと記録されている[6]。
また、押し花が持つ「時間の圧縮」という性格は、教育現場においても応用された。理科の観察から国語の短文作成へ繋ぐ授業として採用され、徒花の押し花を題材にしたノートの配布が行われたとされる。一部では、作品評価が点数化されすぎたことで、徒花の“物語”が添え物になってしまったとの反省も報じられた。
さらに、装幀文化圏では署名文化が強まった。栞の裏に書かれる短い署名は、作家の名だけでなく「圧し紙の枚数」や「乾燥時間(6時間±30分のように幅を持たせた表現)」まで含むことがあり、観客が“再現”に挑む風土が生まれたとされる。再現が広がると、やがて再現に向かない花ほど価値がある、という逆転が起こり、徒花の押し花は「正解より過程」を称える言葉として機能するようになった。
批判と論争[編集]
徒花の押し花には、文化としての受容が進む一方で、定義の曖昧さをめぐる批判が繰り返し生じた。とりわけ「徒花=失敗作」という理解が先行すると、作品が“出来が悪いもの自慢”に見える危険があるとされる。これに対して擁護側は、徒花を“欠陥”ではなく“物語の核”として扱うべきだと主張した。
また、材料の標準化に関する疑義もある。密封フォーマットや圧し紙の規格をめぐって、特定メーカーに有利な流通が起きたのではないかという推測が出回った。なお、推測の根拠として、販売店の広告に「W-4対応」と明記されたポスターが配布された時期と、展示会の採用時期が近かったことが挙げられている[7]。
さらに、徒花の押し花が“地域の救済”として語られるほど、実際には売買の場で値付けが先行したのではないか、という批判もあった。作家の中には、徒花を「本当に廃棄される寸前の花」に限定して語る者もいたが、後年には“演出としての徒花”を取り込む流れも強まり、純度をめぐる論争が起きたとされる。この論争の中心となったのが、の小さなギャラリーが発行した冊子で、同冊子には「徒花の押し花は、失敗を美化するのではなく、失敗を記憶に変える技法である」と書かれていたとされる。ただし、その冊子の奥付には発行者名がなく、編集者の系列も不明だと指摘されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 高橋由紀『圧し紙と記憶の関係——戦後装幀圏の観察』梧桐書房, 1979.
- ^ 山口敏夫「栞における“物語の余白”の機能」『日本装幀学会誌』第12巻第4号, pp. 41-58, 1983.
- ^ M. A. Thornton, "On the Aesthetics of Non-Standard Specimens," Journal of Folk Craft Studies, Vol. 6, No. 2, pp. 101-119, 1991.
- ^ 鈴木勝『規格外花材の行方——徒花という語の系譜』春秋文庫, 1987.
- ^ 中村尚子「密封フォーマットと展示環境の均質化」『博物保存技術通信』第3巻第1号, pp. 7-19, 1994.
- ^ Robert K. Hargrove, "Packaging Memory: The Micro-Publishing Circuit," International Review of Book Arts, Vol. 9, pp. 220-244, 2002.
- ^ 『浅草紙業協同組合 作業部会回覧抄』浅草紙業協同組合, 1968.
- ^ 伊藤沙織『W-指数と押し圧——“再現”の社会学』暁学術出版社, 2005.
- ^ (タイトルに誤植あり)『徒花の押し花は本当に売れなかったのか』文房具批評社, 2012.
外部リンク
- 押し花アーカイブ(旧版)
- 栞の実験室
- 地域マイクロ出版データベース
- 圧し紙規格研究会
- 博物保存技術通信サイト