御伽話ろふむ
| 氏名 | 御伽 話ろふむ |
|---|---|
| ふりがな | おとぎ はなろふむ |
| 生年月日 | 9月3日 |
| 出生地 | 京都府 |
| 没年月日 | 2月17日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 宮廷速記士・口承編集者 |
| 活動期間 | - |
| 主な業績 | 『百噺環』編纂、音節数えの速記法「ろふむ式」の体系化 |
| 受賞歴 | 『禁裏口承編纂賞』(伝聞)、八年記録局表彰 |
御伽 話ろふむ(おとぎ はなろふむ、 - )は、日本の宮廷速記士・口承編集者である。幻の口承索引『百噺環(ひゃくばなしわ)』の編纂者として広く知られる[1]。
概要[編集]
御伽話ろふむは、日本の宮廷において口承される説話を、韻律と反復回数まで数え上げて整理した速記士として知られる人物である[1]。
彼女(当時の史料では性別表記が揺れるが、本人は自署で「ろふむ」とのみ名乗ったとされる)は、舞台語りの内容を「場」「声」「間(ま)」の三要素に分解し、後の世の編集者がそのまま踏襲する編集規格を残したとされる[2]。
特に、口承の「同じ噺でも回数が違う」現象を扱うため、語りの一節ごとに微細な拍(はく)を刻む独自の記譜法が、のちに“宮廷版 校訂”の基盤になったとされる。なお、本人の手になるとされる下書き断簡は、現在は京都府の旧記録局蔵に伝わるとされるが、真偽は慎重に扱われている[3]。
生涯(生い立ち/青年期/活動期/晩年と死去)[編集]
御伽話ろふむは9月3日に、京都府の川筋で紙漉きに関わっていた家に生まれたとされる[4]。
幼少期から「物語が一定の回数で繰り返されると、聞き手の涙の位置が揃う」という奇妙な観察をしていたと伝えられ、父が数えた反復数と、彼女が鉛筆のような竹串で叩きつけて記録した拍が一致したことで、早くから“数える語り部”として扱われたという[5]。
青年期には、当時の禁裏近傍に存在した臨時の「噺(はなし)台帳」作成係に出仕し、口承を写す際の誤記を減らすため、節ごとの音節数(おんせつすう)を十進法で管理する方法を考案したとされる。彼女はこの方法を「ろふむ式」と呼び、単なる書き留めではなく、語りの“癖”そのものを保存対象にした点で、既存の速記と決定的に異なると評価された[6]。
活動期では、特定の寺社が伝える説話だけを集めるのではなく、都市の大道芸、御所周辺の旅役者、さらには行商の口上まで含めた横断的な索引づくりを行ったとされる。その集大成が『百噺環(ひゃくばなしわ)』であり、語りを100門の環状配列に整理し、各門に「反復回数」「声の高さ帯」「ため息の発生位置」を添えたといわれる[7]。
晩年には、写本の改竄を恐れ、門ごとの“語りの癖”を乱す行為を禁じる内部規約を制定した。彼女はに最後の改訂を終え、2月17日に京都の小庵(こあん)で病に倒れ、、満71歳で死去したとされる[8]。ただし、死去年は期の別記によりとする異説もあり、行政記録と私記が食い違うことが指摘されている[9]。
人物(性格・逸話)[編集]
御伽話ろふむは、外面は非常に礼節があり、対面した語り手には必ず「間(ま)の長さ」を先に尋ねたとされる。反面、机上に向かうと神経質になることで知られ、紙の繊維が均一でないと写本をすぐに破棄したとも伝えられる[10]。
逸話として有名なのが、ある旅役者が同じ噺を「1回短く」語ったため、ろふむはその場で“訂正”を拒み、語り手に再現を強要した事件である。裁定役は「訂正は原則禁止。噺は、生き物である」との判決を下したとされるが、ここに記された原則が、後年『百噺環』の校訂方針へと発展したと考えられている[11]。
また彼女は、夜更けに鐘の音を聴き分ける習慣があり、京都府内の3つの寺院の鐘が「同じ時刻に鳴っても、余韻が違う」ことをメモしたという。このメモが、説話の“余韻”を文章に移す際の基準になったとされるが、余韻の差を測る手段として「紙に塩をこぼして乾き具合で判断した」という記述があり、史料の真面目さに反して具体度が異様に高いと評されている[12]。
業績・作品[編集]
御伽話ろふむの最大の業績は、宮廷の口承文化を、韻律と反復回数のメタ情報まで含めた「編集可能な体系」に変換した点にあるとされる[13]。
代表作として挙げられる『百噺環』は、噺を100門に分類し、各門に語りの“癖”が必ず現れる位置(たとえば結末の直前に必ず訪れるため息の位置)を明示した百科型索引であると説明される。彼女は門を輪状に配列し、ある噺の派生先が環のどの点から始まるかを矢印で示したため、編集者が迷わず辿れる設計になっていたとされる[14]。
さらに、ろふむ式の速記法では、語り手の声の高さ帯を「第1帯(低)」「第2帯(中)」…「第5帯(高)」の5段階で記し、加えて“間”を1拍から13拍までの数字で記録したという。この数字設計は、後年の写本改訂の衝突を減らしたとされるが、一方で「情景を数に閉じ込めたために、画(え)のない文章になった」との反発もあったと記されている[15]。
そのほかにも、失われたとされる随筆『沈黙の拍(しじまのはく)』、口承教育のための手引き『喉(のど)の台帳』などが“写されていた可能性”として挙げられている[16]。ただし、これらの書名は後代の目録に見えるのみで、現物確認が困難であるとされる。
後世の評価[編集]
御伽話ろふむは、近世の編集術研究でたびたび参照され、「数えることで語りが生き残った」と評されることが多い。特に、江戸時代の口承編集者たちは、『百噺環』を引用する際に、語りの誤差を“劣化”ではなく“別個の系譜”と見なした点を高く評価したとされる[17]。
一方で批評としては、ろふむ式が“噺の個性”を保存したにもかかわらず、語り手の即興を抑制し、宮廷内の語りが画一化したという指摘も見られる。『百噺環』が流通してから、特定の説話が同じ拍数で繰り返されるようになり、観衆が「同じ涙に慣れる」ようになったという記述が残っているためである[18]。
評価の揺れは、史料間の記述差にも由来している。たとえば、彼女が初めてろふむ式を公表したのが期か期かで年代が異なり、編集者の間で「伝承の誇張」があるのではないかと議論されることがある[19]。
系譜・家族[編集]
御伽話ろふむの家系は、父が川筋の紙漉きに関わることから「紙繊維と噺の繊維を結ぶ家」と呼ばれたとされるが、系図の形では残っていないとされる[20]。
本人の直系家族については、記録局の控えにより、同居していた養女(名は“つぎ”とされる)がいた可能性が示される。養女は写本の誤りを探す役に回され、ろふむ式では“誤りを見つけた順番”が一覧化されていたという。なお、この一覧は「誤り発見者名の代わりに、紙の匂い番号(第1〜第9)」を記す形式だったと記されており、後世の研究者を困惑させている[21]。
また、ろふむは宮廷の音楽係とも親交があったとされる。そこから派生したとする説もあるが、彼女の墓碑銘には音楽の専門語が見られないため、史料の偏りが疑われている。
脚注[編集]
脚注
- ^ 渡辺 精一郎『禁裏口承編纂の記録学』吉川書房, 1978.
- ^ Margaret A. Thornton『Indexing the Spoken: Courtly Memoranda in Late Muromachi』Oxford University Press, 1994.
- ^ 伊藤 亜由美『噺(はなし)台帳と写本事故』研文社, 2003.
- ^ Sakurai Kyo『Repetition Metrics in Oral Tale-Compilation (Vol. 1)』Kyoto Academic Press, 2011.
- ^ 高橋 静馬『韻律を数える編集者たち』平凡社, 2016.
- ^ ルイ・ドゥラン『Les systèmes de sténographie narrative』Éditions du Scriptorium, 2009.
- ^ 御所記録局 編『百噺環目録(第5版)』宮廷史料館, 1822.
- ^ 佐々木 朋香『余韻の書誌学:鐘と沈黙の拍数』人文書院, 2020.
- ^ Rolfmu Studies Committee『Proceedings of the Seventeen-Breath Index Symposium』Vol.2, 1967.
- ^ 町田 早苗『紙の繊維が語りを変える:ろふむ式の検証』中央出版, 1990.
外部リンク
- 宮廷口承研究所 目録データベース
- 京都旧記録局 断簡アーカイブ
- ろふむ式拍数計算機
- 百噺環 解読講座
- 噺台帳事故例集