御倉(重巡洋艦)
| 艦種 | 重巡洋艦 |
|---|---|
| 通称 | 御倉型の母艦(とされる) |
| 所属 | 所管(表向き) |
| 計画番号 | 第七次巡洋艦補強計画「MK-07」 |
| 建造地 | 防備工廠(仮説) |
| 主要装備 | 203mm級主砲×8(史料差異あり) |
| 推定就役 | 16年(諸説) |
| 運用上の特徴 | “潮目電探”と呼ばれた干渉計測器を搭載したとされる |
御倉(みくら)は、日本海軍のとして計画・編成されたとされる艦艇である。資料によっては“御倉型”の起点として扱われることもある[1]。ただし、記録の一部は後年に再編集された経緯が指摘されている。
概要[編集]
は、重巡洋艦としての基本仕様に加え、測距・電探運用の手順を艦内で統一する目的で設計されたとされる艦である。特に、戦術指揮所に“波形換算机”が常設されていた点が、後年の回顧談で繰り返し強調されてきた[1]。
一方で、御倉の来歴は史料の整合が取りにくいとされる。たとえば、艦歴表では建造年が15年に寄せられているのに対し、工廠の帳簿綴りでは一部の部材納入が17年の記録に混入していると指摘される。この種の“混入”は、当時の資料整理担当が意図的に照合を行わずに番号だけを合わせた可能性があるとされる[2]。
また、御倉の名称は初期設計図で「御くら」と振り仮名が振られていたが、最終図面では「みくら」表記に統一されたとされる。海軍内では、呼称の統一が通信手順の誤認を減らすために行われたと説明されるが、その背景として“符丁化”があったのではないかと見る向きもある[3]。
概要(史料とスペックの揺れ)[編集]
艦歴表の“ズレ”が意味するもの[編集]
御倉については、艦歴表の改訂版が少なくとも3系統確認されるとされる。最初の系統では、への編入が16年6月と記されるが、別系統では同年4月に“試験航海の完了”が置かれている。この差は、試験航海の区分を「公試」と「戦術擬装」に分ける運用開始が、後から付け足されたためだとする説がある[4]。
さらに、主砲に関して「203mm級×8」とする資料と、「203mm級×6、ただし換装込みで8」とする資料が同居していると報告されている。換装込みの記述は、砲塔旋回の“回路相性”試験が完了した段階で搭載数を再カウントした結果とされることが多い[5]。
潮目電探と波形換算机[編集]
御倉の核として語られるのが、潮目電探(うしおめでんたん)と呼ばれた干渉計測器である。電探は既に一般化していたとされるが、御倉では海面反射の位相ズレを“潮目”として分類し、交信前に換算する手順が整備されたとされる[6]。
艦内には、戦術指揮所に波形換算机が設置され、換算係数が“槽”ごとに色分けされたとされる。たとえば、の想定海況では係数0.63、瀬戸内では0.72とするような、やけに具体的な数値が回顧録に登場する。ただし、この数値は試験の“成功値”であり、失敗時の係数は別綴りに回されていた可能性があるとされる[7](要出典扱いのため、実際の採用状況には幅がある)。
歴史[編集]
誕生:重巡を“測る船”に変える計画[編集]
御倉が重巡として“測る船”へ寄せられたのは、海軍技術畑で進められていた計測標準化運動が一因だとされる。発端は、技術係の薄倉(うすくら)技官が、同型電探でも曳航中の反射波形が部隊ごとに違うことを指摘したことにあるとされる[8]。
薄倉技官は「敵味方どちらの誤差も、敵の狙い撃ちより速く増幅する」として、艦艇単位で換算手順を固定化する方針を提案した。その提案は第七次巡洋艦補強計画に採り入れられ、御倉は“手順込みの艦”として位置づけられたとされる[9]。
関わった人々:工廠・会計・暗号文書係[編集]
御倉に関わったとされるのは、技術だけではない。たとえば、防備工廠の資材調達班では、砲塔周りの配線に“二重札”が付けられたという記述がある。二重札とは、表札と裏札で部材番号が一致しない方式で、検査の手間を減らす目的だったとされるが、のちに監査が入った際は「照合作業が行われていない」ことが問題になったとされる[10]。
また、艦内の手順書は暗号文書係が“航海日誌と共通フォーマット”で整えたとされる。その結果、御倉の運用マニュアルだけが、同時期の他艦よりもページ構成が几帳面になったという。整然さは評価された一方で、敵にとっては“作業の癖が推定しやすい”と批判されることもあった[11]。
社会的影響[編集]
御倉が象徴とされたのは、戦術の勝敗が装備の性能だけでなく“換算手順”に依存する、という考え方が軍内外に広がった点である。民間でも、測定機器の普及を後押しする形で「手順の標準化」が語られるようになり、系の統計講習にも“波形換算机の思想”が講義例として持ち込まれたとする回想がある[12]。
一方で、御倉のコンセプトは現場の反発を招いた。指揮所の係員は、係数表を暗唱する訓練を課され、失念した場合は「海況を疑うよりまず人を疑う」運用が強まったとされる。これにより、努力の方向が“観測の改善”より“手順の暗記”へ偏ったのではないか、という不満が出たとする証言がある[13]。
さらに、御倉を起点に“干渉計測”が注目されたことで、測定技術会社が急増したとされる。特に周辺では、計測機器の販売店が増え、店頭に「潮目で売る」キャッチコピーが掲げられたという逸話が残る。ただし、実際にどの程度の規模で普及したかは、販売記録が残っていないため不明とされる[14](ただし読書会の議事録には“海面の色で値付けする”冗談が引用されている)。
批判と論争[編集]
御倉に対しては、そもそも艦艇としての運用実績が十分に確認されていない点が批判されることがある。たとえば、史料Aでは“主砲の換装完了”が17年8月とされるが、史料Bでは同年9月に“点検未了のまま出港”と読み取れる記述がある。双方の記述を整合させるには、少なくとも1回の“臨時換装”が必要になるが、その臨時換装に対応する会計伝票が見つかっていないとされる[15]。
また、潮目電探の分類が「潮目」という感覚語に依存しており、再現性が低いのではないかという批判もある。分類語を廃して数値のみで運用すべきだったという意見に対し、提案者側は「数値だけでは現場が動かない。潮目は現場の言語である」と反論したとされる[16]。この応酬は、のちに教育資料の編集で意図的に短くまとめられ、争点が見えにくくなったと指摘される。
さらに、御倉の名称変更(御くら→みくら)についても論争が起きたとされる。呼称の統一は通信誤認の低減につながる一方で、逆に“外部への情報漏洩”が増えるのではないかという懸念があった。結果として、外向けの艦名と内向けの手順名を別にする“二重呼称”が採られた可能性があるとされるが、実証は難しいとされる[17]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐野鷹治『海軍計測標準化の試み――波形換算と手順固定化』海軍技術研究会, 1949.
- ^ クレア・モリス『Interference Surfacing in Coastal Radar Systems』Maritime Signal Review, Vol.12 No.4, 1952.
- ^ 薄井楓馬『御倉型重巡の艦歴修正と照合作業の空白』戦史資料叢書, 第6巻第2号, 1963.
- ^ 田端宗三『潮目電探運用要領の成立過程』海軍技術紀要, pp.41-58, 1971.
- ^ R. H. カーヴァー『Manual Discipline and Sensor Conversion in Naval Command』Journal of Operational Mechanics, Vol.27 No.1, 1980.
- ^ 国分碧『戦術擬装試験の区分――公試と擬装の境界』艦艇教育史研究会, pp.113-129, 1988.
- ^ 中条真鋤『二重札と会計伝票の不一致:工廠管理の視点』工廠史料研究, 第9巻第3号, 1994.
- ^ 御影一樹『通信誤認を減らす呼称設計:御くらからみくらへ』海軍通信技術, Vol.3 No.2, 2001.
- ^ Sato Jirō『The “Mikura” Procedure: A Case Study』Proceedings of the Imperial Systems Institute, pp.77-92, 2007.
- ^ 武藤礼三『潮目分類の再現性問題と教育資料編集』日本航海論叢, 第15巻第1号, 2015.
外部リンク
- 御倉艦歴アーカイブ(試験航海版)
- 潮目電探研究会メモ
- 波形換算机の展示ログ
- 二重札監査記録データベース
- 鎮守府呼称統一資料館