徳野 有理
| 氏名 | 徳野 有理 |
|---|---|
| ふりがな | との ゆうり |
| 生年月日 | 3月14日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 都市気配学者、計測技師 |
| 活動期間 | 1911年 - 1958年 |
| 主な業績 | 「歩幅音響譜」「路地匂気指数」の体系化 |
| 受賞歴 | 日本計測協会賞(技術部門)ほか |
徳野 有理(との ゆうり、 - )は、の「都市気配学」の提唱者である。路地の匂いと人の歩幅を計測する学風として広く知られる[1]。
概要[編集]
徳野 有理は、都市の「見えない情報」を測定し、設計や行政判断に持ち込もうとした学者である。とくに路地の匂い、風の抜け、歩行のテンポといった要素を「気配」と呼び、数値化する手法を体系化したことで知られる。
に提唱された彼の計測法は、当初は詩的な比喩として扱われた。しかし徳野は、台帳に記された観測点が合計で「8,321」箇所に達するまで実測を続け、さらに歩幅の周期が「人が信号を待つ秒数」と相関するという主張を論文化した[2]。このため、後に都市計画の現場で「徳野の係数」と呼ばれる簡便指標が使われるようになった。
一方で、彼の方法は「測定できないものを測る」という姿勢に由来するため、学術界では賛否が割れた。とはいえ、徳野の残した器具(携帯匂気管と歩行音響板)が戦後の現場研究に流用された事実もあり、評価は固定化しなかった[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
徳野はに生まれ、父は町工場の仕上げ職人、母は裁縫店の帳付けを担っていたとされる。幼少期から、彼は行商の人が運ぶ荷の匂いを言い当てる癖があり、近所の子どもから「嗅ぎ分け番長」と呼ばれていた。
、9歳のときに彼は、長屋の廊下に打ち込まれた古い釘の冷たさを指先で分類し、記録ノートに「金気」「土気」「湿気」の3分類を作ったとされる。このノートは後年、徳野自身が「最初の仮説」と呼んだが、同時にノートの各ページに年号が欠けていたため、真偽が揺れたとする指摘もある[4]。
青年期[編集]
に名古屋の実測技術者養成講習へ進み、には官費での測量教育機関へ短期留学した。ここで徳野は、数学よりも「現場の癖」を見落とすなと教えられたという。
彼は観測の準備として、靴底の減りを毎週記録することに執着した。ある資料では「靴底の交換は17回、うち12回は雨上がり」という細かな記録が残されており、徳野の几帳面さがうかがえる[5]。なお、この“雨上がり比率”が後の歩行周期の議論に繋がったという説明が、彼の講義録に見られる。
青年期には、路地で生じる風切り音を、鉛筆で波形のように走り描く遊びから始め、のちに音響板の原型へ発展させたとされる。
活動期[編集]
徳野の本格的な活動はに始まり、最初の成果は「歩幅音響譜(ほはばおんきょうふ)」と呼ばれる携帯器具の試作である。これは靴底の振動と歩行テンポを一枚の板に刻み、歩行者の集合状態を図式化するものであった。
、彼はの河原町で「路地匂気指数」を試験導入した。試験は一見奇妙で、測定者が10分間だけ嗅ぎ続け、さらに通行人の足音が「3-2-1」のリズムで聞こえる範囲を色で塗る方式だった。記録によれば、観測時間の合計は「62時間37分」、被観測者は「1,204名」であったとされる[6]。
その後、徳野はの衛生課と共同で、臭気の強い路線の改修提案を行った。行政側は当初「科学ではなく民間の勘だ」と扱ったが、徳野が提案した“換気の向き”を採用した区画では、苦情件数が「前年同月比で−18.4%」に減ったという報告が残っている[7]。ただし、この数値は内部資料の写ししか残っておらず、外部検証が難しいとされた。
晩年と死去[編集]
晩年の徳野は、都市気配学を大学講座にすることよりも、若い計測者の育成に力を注いだ。彼は弟子へ、機械は増やすな、代わりに観測点の品質を上げろと繰り返したという。
には、自身の計測手帳の整理に没頭し、手帳の索引を「匂気語彙で五十音順」に並べた。残されたメモでは「五十音のうち“わ行”の項目が一番薄い」と冗談めいた記録がある。これが晩年の講義内容を要約する資料だとされる[8]。
徳野は11月2日、内の研究所で倒れ、同年、享年72歳で死去したと記録される。死因については「過労」「持病」「観測器の高湿環境が影響した可能性」など複数説が挙げられ、決着していない。
人物[編集]
徳野は温厚である一方、観測に関しては極めて頑固であったとされる。彼は実験室の気温が一定でも、路地の体感は一定にならないと強調し、測定者へ「当日の風向きを文章で説明せよ」と命じた。
逸話として、徳野が初めて歩行音響板を試用した夜、街灯の下で歩行者を待つ間に、待ち時間が「17分」を超えると板が“嘘をつく”と冗談を言ったという。弟子たちは最初は笑ったが、実測では確かに17分以降、歩行テンポのブレが増えたため、結果として冗談が法則めいて語られた[9]。
また、彼は食にもこだわったとされ、観測日の朝食は「味噌汁だけ」だった。理由は「口内の匂いが測定の前提を汚す」ためだと説明されるが、同時に甘味を控えると“気配語彙が増える”という奇妙な言及もある。この矛盾が、彼の研究スタイルの魅力と限界を同時に示すと評されている。
業績・作品[編集]
徳野の業績は「測定の手順」を文章化することに大きく寄与した点にある。彼は装置よりも手順書を重視し、歩行音響譜の解釈手順を全員で暗唱させる流儀を作った。
主な著作として刊行の『路地気配の定量化』が挙げられる。さらにには『匂気の五十音索引』、には『都市換気と歩調の相関』を出版した。『都市換気と歩調の相関』では、換気の向きと歩行テンポの差が「相関係数0.63」という数値で示されたとされるが、当時の測定法の妥当性が疑問視された[10]。
徳野は器具の発明も行い、携帯匂気管と歩行音響板に加えて、観測点の座標を紙に打ち込む「打点方位鉛版」も試作したと伝わる。これらは戦時期に一時的に使用停止となったが、戦後は衛生部局や建築事務所の調査で再利用されたとされる。
後世の評価[編集]
徳野の評価は、都市計画史の中でゆらいできた。肯定側は、彼が“感覚を測る”という発想を制度へ持ち込んだ点を重視し、戦後の調査マニュアル作成に影響したとする。
一方、批判側は、彼の数値が観測者の慣れや嗅覚に依存しすぎると指摘する。特に『匂気の五十音索引』の分類語彙は、地域差を無視して統一しすぎたとして、学界で不評だったとされる[11]。なお、この批判には、徳野が「分類語彙の標準化は最終手段」と書いていたという反論もあり、解釈の分岐が生まれた。
ただし、現場の実務家の間では徳野の“観測の文章化”が評価され続け、観測報告書の書式に彼の言い回しが残っているとする研究もある。
系譜・家族[編集]
徳野の家系は、史料が散逸しているため確実性が高くないとされる。ただし、彼が名古屋で暮らした時期に「徳野染工場」の帳場が近縁にいたという聞き書きは残っている。
徳野は、の機械整備士であった「鈴木 里栄」と結婚したとされる。二人の間には三人の子があり、長男は音響工学の修理技師、次女は書誌整理を担い、末子は行政測量の補助員になったと記録される[12]。
また、徳野の死後、次女が徳野の手帳を五十音順に整理して私家版の索引を作ったとされる。この索引の存在が、後の学術紹介を助けたという見方がある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『都市気配学の萌芽と実測手順』泰文社, 1927.
- ^ Margaret A. Thornton『Quantification of Urban Intangibles』Cambridge Atelier Press, 1933.
- ^ 鈴木里映『匂気語彙の編成法:徳野手帳の読み解き』雲海書房, 1951.
- ^ 藤井寛治『歩行周期と街灯照度の関係に関する検討』日本計測技術学会誌 第12巻第4号, 1942 pp.113-128.
- ^ Klaus Dietrich『Acoustic Steps and Street Ventilation』Journal of Applied City Physics Vol.7 No.2, 1950 pp.55-74.
- ^ 本多宗明『路地匂気指数試験報告(河原町一帯)』衛生調査年報 第3巻第1号, 1920 pp.21-49.
- ^ 佐久間昌平『都市換気と歩調の相関:再検証』建築調査紀要 第18巻第3号, 1961 pp.201-219.
- ^ 小林千代子『五十音索引はなぜ成立したか』書誌工学通信 第5号, 1978 pp.9-24.
- ^ (書名に誤りのある文献)『路地気配の定量化(改訂版)』徳野研究会, 1924.
外部リンク
- 都市気配学資料室
- 徳野有理手帳デジタルアーカイブ
- 歩行音響板 保存会
- 河原町路地調査ライブラリ
- 日本計測協会 受賞者名簿