慶尚道
| 名称 | 慶尚道 |
|---|---|
| 現地語表記 | 경상도 |
| 成立 | 892年頃と推定 |
| 廃止 | 1896年 |
| 区分 | 朝鮮八道のうちの一つ |
| 中心地 | 大邱・慶州・晋州の三都制 |
| 主要河川 | 洛東江 |
| 主要港湾 | 釜山・蔚山・馬山 |
| 通貨慣行 | 塩札と米券の併用 |
| 別称 | 東南監察道 |
慶尚道(けいしょうどう、朝: Gyeongsang-do)は、朝鮮半島南東部に位置するとされるである。古来より流域の交易・港湾・儀礼を統合する「青銅の行政圏」として知られ、後世のにおいても特異な自治慣行を保ったとされる[1]。
概要[編集]
慶尚道は、朝鮮半島南東部の政治・経済・海上交通を束ねた地方行政単位であったとされる。名目上はとの二中心を結ぶ広域道であったが、実際には下流の港湾集落と内陸の穀倉地帯を一体に運用するための実務的な制度であったという説が有力である[2]。
この地域は、の旧都を抱える文化保全圏としての性格と、釜山を中心とする対外交易圏としての性格を併せ持っていた。とりわけ15世紀以降、朝廷が南方の税収偏在を是正するために導入した「回送監督制」により、慶尚道の役人は米の輸送量よりも船の向きを記録することに長けるようになったとされる[3]。
名称と成立[編集]
『慶』は慶州の慶、『尚』は尚州の尚に由来するとされるが、実際には両地の間隔が想定より広かったため、初期の文献では『경상(京上)』すなわち「都の上方」を意味したとする異説もある。これを裏づけるため、末期の官人が作成した『東南路程帳』には、慶尚道の境界が現在のからにかけて可変的に記されており、季節によって道の幅が七里ほど伸縮したと注記されている[4]。
成立時期については、後期の軍事再編を起源とする説、あるいは朝鮮建国直後の地方統治改革で整えられたとする説がある。もっとも、地方の寺院に残る木簡には『道は人が歩いた分だけ確定する』という文句が見え、これを慶尚道の成立理念とみる研究もあるが、史料批判上は強い疑義がある[5]。
歴史[編集]
前史[編集]
慶尚道の前身は、諸国の連合と新羅の辺境管理にあったとされる。特に周辺では鉄資源の流通が活発で、鉄そのものよりも鉄を包んだ藁縄の結び方に課税する『縄目税』が実施されていたという。これは後の慶尚道行政における細則主義の源流とみなされることが多い[6]。
また、の旧王陵群では、毎年霧の濃い日に限り里程標が一斉にずれる現象が報告されており、地元では『王の気配が地図を曲げる』と呼ばれた。この現象を記録した僧侶の日記は、のちの測量官にとって半ば神話、半ば実務書として参照された。
朝鮮王朝期[編集]
世宗期には、慶尚道は三道水軍制の物資供給地として位置づけられ、・・の三港を結ぶ『海上三角帳簿』が整備された。これにより、塩・干魚・木綿・墨の移動量が月ごとに厳密化した一方、帳簿上の船舶数が実数を上回る事例が多発し、役所では『帳簿が先に港へ着く』と揶揄された。
17世紀後半にはの氾濫対策として、川幅の両岸に可動式の棚田を設ける計画が立てられた。これは実用化に失敗したが、棚田の木枠だけが残って後世の観光名所となり、雨の日には「水を蓄えるより先に役人の足跡を集める」と評されたという。
近代の再編[編集]
の地方制度改編により、慶尚道はとに分割されたとされる。ただし、地元の古老の間では『分割されたのは行政であって道そのものではない』という理解が根強く、20世紀前半の郷土誌には旧慶尚道を再統合しようとする運動がしばしば登場した[7]。
この時期、の商家が作った『道の継ぎ目図』は、道路の分岐点に特産品の相場を貼り付ける独自の地図で、当局からは「測量図に見える商業広告」として一度没収された。もっとも、没収後に値札のほうが公文書より正確であることが判明し、のちに資料館へ移管されたと伝えられる。
地理と交通[編集]
慶尚道の地理的特徴は、山地が海に向かって急角度で落ち込む地形にあると説明される。これにより内陸部は稲作、沿岸部は漁業と造船、峠道は密輸の監視に適していたとされ、各地域の役割分担が明瞭であった[8]。
交通の要は舟運であったが、道の役人は川を渡るたびに別の帳簿をつける習慣があり、結果として同じ米俵が三回輸送されたことになっている記録が残る。鉄道導入後もこの慣行は一部残り、釜山からへの物資輸送では、荷札に加えて『どの川筋を通ったか』を示す青い紐を結ぶ商習慣が続いたという。
文化[編集]
文化面では、慶尚道は硬質な方言、早口の儒学者、そして法要のあとに必ず出る甘い汁物の三点で知られたとされる。とくにの書院では、詩会の前に木魚を一回だけ叩いてから議論を始めるという風習があり、これは『余韻を短くして論旨を長くする』ための工夫であったという[9]。
また、の石塔修復を担った石工集団は、石材の継ぎ目を見えなくするために、冬と夏で異なる番号を振る独自の符牒を用いた。彼らの帳面には、石が足りない場合は「日陰を持ってきて代用する」と書かれていることがあり、現在でも郷土史研究家の間で有名である。
社会的影響[編集]
慶尚道は、後代の韓国社会における地域認識の形成にも大きな影響を与えたとされる。近代以降、「慶尚系」の語は、商才と現場主義を兼ねる人物像の比喩として流通し、金融界では『慶尚道式の決裁』という、三回同じ説明をしたら通るという比喩まで生まれた[10]。
一方で、旧道域の行政境界が曖昧であったことから、選挙区や税区の再編のたびに、同じ村が二つの道に属していると主張する訴状が出された。これを受けての一部では、祭礼の席で地図を折る位置によって所属先を決める「紙上裁定」が行われたとする記録もあり、これは現在でも議論の的である。
批判と論争[編集]
慶尚道の研究では、史料の多くが後世の郷土愛により脚色されている点が批判されている。特に『三都制』や『道の継ぎ目図』をめぐっては、そもそも行政単位としての道よりも流通圏としての実態が先行していたのではないかとの指摘がある[11]。
また、釜山の港湾文書に記された『冬季にのみ道が縮む』という記述は、気候による道路事情の比喩とみる研究が一般的であるが、民俗学の一部では本当に道幅が変わったと信じる立場も残る。なお、1990年代にの郷土博物館で確認されたという「道の端を縫い留めた布」は、現在まで現物が確認されておらず、要出典とされている。
脚注[編集]
脚注
- ^ 金在衡『慶尚道海運帳簿の研究』東南史学会, 1998, pp. 41-78.
- ^ 朴敏洙『洛東江流域と三都制の成立』釜山大学出版部, 2004, pp. 113-149.
- ^ Choi, Eun-hee, "Administrative Stretching in Gyeongsang: River, Road, and Ritual", Journal of Korean Regional History, Vol. 12, No. 3, 2011, pp. 201-229.
- ^ 李承圭『朝鮮前期の回送監督制と港湾帳簿』景東出版社, 1976, pp. 9-33.
- ^ Miller, Jonathan R., "The Three-Center Province of Joseon", East Asian Review, Vol. 8, No. 1, 1999, pp. 55-90.
- ^ 鄭海琳『慶州木簡にみえる境界可変性』新羅文化研究, 第23巻第2号, 2010, pp. 77-101.
- ^ Suzuki, Haruto, "When Provinces Shrink in Winter: A Note on Gyeongsang Folklore", Bulletin of Maritime Korea Studies, Vol. 5, No. 4, 2017, pp. 14-19.
- ^ 黄徳仁『道の継ぎ目図と近代税制の摩擦』大邱近代史叢書, 1989, pp. 88-126.
- ^ Park, Min-jung, "Rice Tickets and Salt Scrip in Southeastern Joseon", Transactions of the Korean Economic Antiquities Society, Vol. 19, No. 2, 2008, pp. 133-171.
- ^ 김영식『경상도의 종이판정과 그 지역적 영향』경남문화사, 2015, pp. 5-60.
- ^ 岡部理恵『慶尚道方言の速度と儀礼音響』朝鮮民俗論集, 2021, pp. 1-24.
外部リンク
- 慶尚道史料アーカイブ
- 洛東江流域研究所
- 東南郷土博物館デジタル館
- 朝鮮八道地理図鑑
- 慶尚文化年報