戦史研標準時
| 名称 | 戦史研標準時 |
|---|---|
| 別名 | 戦研時、史料統一時 |
| 分類 | 時刻制度、軍事史資料整理 |
| 提唱 | 戦史研究所 時刻整備班 |
| 採択年 | 1938年 |
| 基準地点 | 東京市神田区錦町 |
| 運用機関 | 戦史研究所、旧陸軍省、臨時史料審査会 |
| 廃止 | 1952年頃に実務上廃止 |
| 主な用途 | 戦闘記録、作戦日誌、被害報告の時刻統一 |
戦史研標準時(せんしけんひょうじゅんじ)は、およびその関連機関が用いたとされる、軍事史資料の時刻表記を統一するための基準時刻である。に内の史料整理会議で採択されたとされ、のちにの文書管理にも影響したとされる[1]。
概要[編集]
戦史研標準時は、が作戦記録や戦闘日誌の時刻を統一するために制定したとされる独自の標準時である。一般のと同じを基礎にしつつ、記録の遅延や秘匿処理を考慮して、実務上は「十四分早い」運用が行われたと伝えられている[2]。
この制度は、単なる時刻の呼称ではなく、資料の整合性を保つための行政技法として扱われた点に特徴がある。とくにの機密文書、経由の報告、さらに地方のが作成した戦闘詳報にまで波及したとされ、戦後の史料批判においてもしばしば問題となった[3]。
成立の経緯[編集]
錦町会議と「十四分案」[編集]
夏、神田区錦町の旧館で、史料整理係のらが、異なる部隊の時刻記録を突き合わせる作業を行っていた。そこで発生したのが、同じという記述が「出発時刻」なのか「到着時刻」なのか判然としない問題である。
渡辺は、全記録を一律に先行させる案を提示し、これにより「6時40分」とあれば実際には6時26分相当として扱うという、きわめて奇妙な処理体系が生まれたとされる。後年の回想録では、会議室の壁掛け時計が遅れていたことが決定打になったとも書かれているが、記録の一部は焼失しており、真偽は定かでない[4]。
旧陸軍省による採用[編集]
制度は当初、研究所内部の便宜的な符号にすぎなかったが、文書課が「戦闘の発生順序を固定できる」として採用を提案したことで半ば公式化した。とくにの末尾に「戦研時」を赤鉛筆で追記する運用が広まり、現場ではこれが時刻そのものではなく「解釈の優先順位」を意味するようになった。
なお、頃には、海軍関係文書にも同様の表記が見られるとされるが、これは連絡将校の誤読によるものという説と、意図的な兼用であったという説が対立している。いずれにせよ、時刻制度が省庁間の縄張り争いに使われた珍しい例として知られている[5]。
制度の仕組み[編集]
時刻の補正規則[編集]
戦史研標準時の基本規則は、午前・午後を問わず記録時刻からを減じたものを原時刻とみなす、という単純なものであった。ただし前後の報告では、からまでを「検閲帯」と呼び、文書ごとに前後逆転が生じないよう特例処理が行われたとされる[6]。
この仕組みは極めて実務的である一方、電信文や無線記録との整合には不向きで、結果として「同じ戦闘なのに三つの開始時刻がある」という珍事が多発した。戦史研究所の内部監査では、度だけで時刻矛盾が見つかり、そのうちは「当事者の記憶が過熱していたため」と結論づけられた。
文書様式と印影[編集]
制度の浸透に伴い、専用の「戦研時欄」が作られた。ここには西暦・・戦研時の三重表記が並び、さらに日付の右端に楕円形の朱印が押されたという。この印には「先行」「後追」「保留」の三種があり、特に「保留」印が押された文書は、現場では事実上の再審査対象として扱われた。
また、以後の一部資料では、印影が薄いほど戦況が悪かったという俗説が生まれた。これは戦史研究所の用紙が節約のため薄手になっただけであるとも言われるが、兵站担当者の間では「紙が薄い年は負ける」として半ば迷信化していた[7]。
歴史[編集]
戦後の再編[編集]
の終戦後、戦史研標準時は表向き廃止されたが、が旧文書の整理を進める過程で、むしろ「戦研時付き資料」の方が扱いやすいとして温存された。特に前後の復元作業では、欠落した時刻を推定するために、同一部隊の食事記録や靴の消耗度まで参照したとされる。
この時期、の前身機関において、標準時を廃止すると史料批判の手がかりが一つ失われるとして、保存派と清算派が激しく対立した。会合では「時刻の真実より、文書の連続性が重要である」とする発言が残り、のちに史料学の教訓として引用された[8]。
民間への流出[編集]
戦史研標準時は、戦後しばらくして古書店や軍装品収集家のあいだで珍品として流通した。なかには、時刻欄だけを書き換えた偽装年報が周辺で出回り、研究者を悩ませたという。
また、には地方紙が「戦時中の標準時、いまも役所に残る」と報じたが、実際には倉庫整理中の伝票束にすぎなかった。にもかかわらず、記事は「消えた十四分」として読者の人気を集め、以後この言い回しが半ば定着したとされる。
社会的影響[編集]
戦史研標準時の最大の影響は、軍事記録の整序にとどまらず、「時刻とは事実の器である」という感覚を広めた点にある。これにより、戦後の地方自治体や企業史編纂でも、発生時刻のずれを意図的に残す書式が流用されたという。
一方で、現場では「戦研時に合わせる」と称して締切を前倒しする習慣が広がり、書類提出が妙に早くなる副作用も生じた。あるOBの証言では、点呼開始が毎朝だけ早まるようになり、隊員が慢性的に時計を疑うようになったという[9]。
批判と論争[編集]
批判の中心は、第一にその恣意性である。時刻を補正する根拠が曖昧で、しかも文書ごとに「実務上の例外」が多すぎたため、後世の研究者からは「統一のための不統一」と揶揄された。
第二に、史料改ざんとの境界が曖昧であった点が挙げられる。とくにのある作戦日誌では、記録上の出撃時刻が前日にずらされており、これが意図的な戦果誇張にあたるのではないかと論争になった。ただし研究所側は「記録の方が現場に追いつけなかっただけである」と説明している。なお、この説明は一部の史料学者からは「理屈としては成立するが顔色が悪い」と評された[10]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『戦研時刻整理法試論』戦史研究所出版部, 1939.
- ^ 佐伯三郎『軍事史料における時刻補正の諸問題』史料学評論 Vol.12, No.4, pp. 221-248, 1948.
- ^ Margaret A. Thornton, "Standard Time and Operational Memory in Wartime Archives", Journal of Military Chronology, Vol. 7, No. 2, pp. 44-69, 1956.
- ^ 臨時史料審査会編『戦後史料整理報告書 第三集』東京公文館, 1951.
- ^ 高瀬重夫『消えた十四分――戦研時の実務と逸話』新潮史学, 第18巻第1号, pp. 5-31, 1963.
- ^ H. L. Bennett, "The Problem of Retrospective Timekeeping in Imperial Records", Pacific Historical Review, Vol. 31, No. 1, pp. 88-109, 1959.
- ^ 小野寺和彦『文書の先行と後追』岩波史料叢書, 1972.
- ^ 田島美穂『戦時文書の赤印文化』公文書研究, 第9巻第3号, pp. 117-140, 1984.
- ^ Edward K. Sloane, "Fourteen Minutes and the Shape of Memory", Archives Quarterly, Vol. 15, No. 4, pp. 300-322, 1971.
- ^ 神谷義雄『戦研時と点呼の十三分』防衛資料月報, 第22巻第7号, pp. 61-73, 1991.
- ^ 中村晴子『時刻欄の政治学』史学と制度, 第5巻第2号, pp. 201-219, 2007.
外部リンク
- 戦史研究所デジタル史料室
- 戦研時アーカイブ協会
- 昭和史料整理ネット
- 東亜時刻制度研究会
- 神田文書文化センター