戦艦長門解体騒動
| 名称 | 戦艦長門解体騒動 |
|---|---|
| 発生期間 | 1952年3月 - 1952年11月 |
| 場所 | 神奈川県横須賀市、長浦地区、浦賀水道周辺 |
| 原因 | 解体契約の二重化、保存派と再資源化派の対立 |
| 関係機関 | 運輸省港湾局、海上保安本部、神奈川県臨時艦艇整理委員会 |
| 影響 | 艦体部材の再分類、港湾解体基準の改訂、保存運動の活性化 |
| 象徴的出来事 | 第3甲板の一括搬出停止 |
| 通称 | 長門ショック |
戦艦長門解体騒動(せんかんながとかいたいそうどう、英: Nagato Dismantling Incident)は、の周辺で発生した、旧式艦の解体をめぐる初頭の社会的混乱である。一般にはにおける資材再配分問題として知られているが、実際にはの保存技術との慣行が衝突した結果、半年以上にわたり関係機関を巻き込んだ騒動であった[1]。
概要[編集]
戦艦長門解体騒動は、旧日本海軍の主力艦として知られたの一隻をめぐり、解体を急ぐ行政側と、部材の保存・転用を主張する民間技術者らが対立した出来事である。とくにの港湾労務組合が、鋼材の切断順序をめぐって独自の「静音解体手順」を採用したことから、作業は当初予定の17日を大幅に超えて79日間に及んだとされる[2]。
この騒動は単なる艦船処分の問題にとどまらず、戦後復興期の、旧軍資産の管理、さらには「巨大構造物をどう記録するか」という文化財行政の初期課題を露呈させた事件として扱われている。一方で、現場では切断済みの甲板板が市内の乾物倉庫に誤配され、のちに「長門煎餅台」として再利用されたとの逸話が残る[要出典]。
発端[編集]
騒動の発端は3月、の外郭に置かれたが、老朽艦の処分先として長門の解体を内々に決定したことにある。ところが同時期、工学部の古橋研究室とが共同で、船体骨格の一部を「戦後鋼材規格の基準試験体」として残すよう要請したため、解体契約書に「全解体」「半保存」「記録後切断」の三種の表記が並記される異常事態となった。
この時、の第2ドックでは、契約書の押印欄が足りなくなり、裏面にの巡視印を流用したことが混乱を拡大させたとされる。なお、当時の新聞各紙はこの事態を「長門の二重帳簿」と呼び、夕刊紙の一部は艦内にまだ主砲の芯材が残っているかのように報じたが、実際には主砲周辺の計測記録が先に紛失していたにすぎないという見方が有力である。
経過[編集]
第1段階: 立入制限と測量[編集]
4月上旬、は解体区域を半径420メートルの立入制限区域に指定し、港内の潮位に合わせて測量を3時間ごとに更新する体制を敷いた。これにより、一般見学を望む市民と、鋼板の転用を狙う建材商が同じ時間帯に桟橋へ押し寄せ、港の売店では記念絵葉書が1日で2,400枚売れたという。
また、測量担当の技師が、船体の歪みを「四隅ではなく九隅で評価すべき」と提案したため、現場では九点支持の仮設台が組まれた。これが後に、同市の橋梁補修工法に影響したとする説がある。
第2段階: 保存派の介入[編集]
5月には、を名乗る小規模団体が介入し、艦橋の一部を「戦後海洋工学資料館」へ移送するよう求めた。団体代表のは、艦橋の羅針盤台を「近代日本の航海意識を示す稀少資料」として扱ったが、実物は塩害でねじが3本しか残っていなかったため、修復班は作業の大半を新規製作で補った。
この頃、現場では保存派の仮設テントと解体派の食堂車が同じ埠頭に並び、昼食のカレーに使う鍋の数まで協議事項になった。とくに、保存派が「食器洗浄用の真水を優先配分せよ」と要求したことで、港湾局の文書には珍しく“給茶班との連携”が明記されている。
第3段階: 搬出停止[編集]
7月17日、最大の転機となる第3甲板の搬出作業が停止した。原因は、切断済みの梁材を積んだ貨車が、の前身にあたる国鉄貨物線の時刻改定と重なり、2台分の車両番号が入れ替わったためである。これにより、現場責任者は搬出済みと未搬出の部材を誤認し、港内に一時的な“見えない甲板”が発生したと報じられた。
この混乱を受け、は夜間照明を増設し、解体現場の周囲に赤白の誘導灯を34基設置した。しかし、照明の角度が悪く、長門の船影が海面に二重に映ったため、住民の一部は「まだ艦が動いている」と誤信したという。
社会的影響[編集]
騒動の結果、の処分は単なる金属回収ではなく、記録保存と部材再利用を併存させるべきだという考え方が広まった。これにより、にはではなく主導の「大型資産解体記録要領」が作成され、以後の港湾解体案件では、切断位置ごとに撮影・採寸・材質判定を行う方式が一般化したとされる[3]。
また、地域経済への波及も無視できない。横須賀の飲食店では“長門定食”と呼ばれる、海苔巻き・揚げ物・濃い味噌汁を組み合わせた限定メニューが一時流行し、最盛期には港周辺の8店舗が同名の看板を掲げた。この名称はのちに商標上の問題を避けるため「長門風定食」に改められたが、常連客の間では今も旧称で呼ばれている。
批判と論争[編集]
騒動には当初から批判も多かった。第一に、解体費用の見積もりが3回も改定され、最終的に当初予算の1.8倍に達したことから、が「積算基準の恣意性」を指摘した。第二に、保存派が持ち込んだ測定器の一部が民生用の航海計算尺であったため、正確な寸法よりも象徴性が優先されたとの批判がある。
さらに、一部の元乗組員は「艦の鋼板を勝手に記念品化した」として港湾局を提訴する構えを見せたが、実際には訴状の宛先がではなく近隣の倉庫会社に送付されていたため、手続は成立しなかった。こうした経緯から、本件は“法的には未整理、社会的には既成事実化”した事例としてしばしば言及される。
その後[編集]
騒動後、長門の残存部材の一部は各地に散らばった。艦首に使われたとされる鋼材はの橋桁補強に、排水ポンプの外装はの漁協倉庫に転用されたという。なお、艦内の真鍮製手すりについては、の骨董商がまとめて引き取ったとされるが、現存品の真正性はなお議論がある。
一方で、事件を契機にでは「解体前記録の日」と呼ばれる非公式な年次行事が始まり、港湾関係者が図面の写しを交換する慣習が生まれた。これは後年、工業遺産の保存運動に吸収され、巨大建造物の解体を文化的記憶として扱う先例になったと評価されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯進一『長門解体記録と港湾測量の実際』港湾技術研究所報告, Vol. 12, No. 4, 1953, pp. 41-79.
- ^ 牧野敬三『旧軍艦保存運動の周縁』日本近代史学会誌, 第18巻第2号, 1956, pp. 112-138.
- ^ Harold M. Fenwick, "Recycling Battleships in Postwar Japan," Journal of Maritime Administration, Vol. 7, No. 1, 1958, pp. 9-33.
- ^ 『神奈川県港湾史資料集 第4輯 長門関係綴』神奈川県史料編纂室, 1961.
- ^ 小田切直樹『戦後鋼材規格と艦体転用』造船工学評論, 第9巻第6号, 1954, pp. 201-227.
- ^ Eleanor S. Price, "The Silent Cutting Method and Its Discontents," Pacific Engineering Review, Vol. 3, No. 2, 1957, pp. 55-66.
- ^ 『横須賀市臨時解体委員会議事録』横須賀市公文書館, 1952.
- ^ 藤村清『長門ショック後の港湾経済』地域経済研究, 第5巻第1号, 1959, pp. 1-29.
- ^ Daniel K. Hargrove, "Inventory Errors in Shipbreaking Yards," International Journal of Scrap Studies, Vol. 2, No. 3, 1960, pp. 88-104.
- ^ 『長門解体騒動写真帖 港内の79日』南関東写真社, 1954.
- ^ 中村良平『大型構造物の記録保存と行政実務』都市政策ジャーナル, 第11巻第8号, 1962, pp. 143-170.
外部リンク
- 横須賀港湾史デジタルアーカイブ
- 旧軍艦保存研究会
- 港湾解体記録館
- 神奈川近代産業遺産ネット
- 長門解体騒動年表室