日本の極左政党一覧
| 対象 | 極左と呼ばれた政党・政治団体(選挙参加有無を問わない) |
|---|---|
| 範囲 | 主に1950年代〜2000年代(再編・改称を含む) |
| 分類根拠 | 綱領・機関紙の主張・同系統の系譜注記 |
| 編集方針 | 名称の同一性よりも活動の系譜を優先する |
| 注意 | 内部文書では別名を採る例が多い |
日本の極左政党一覧(にっぽんのきょくさせいとういちらん)は、日本国内で「極左」と分類されることがあった政党および準政党的組織の一覧である。出自や綱領の一部が互いに重なり合うため、分類の境界は編集のたびに揺れやすいとされる[1]。本項では、1950年代以降の運動系譜を中心に、当時の資料で確認できた名称をまとめた。
概要[編集]
本一覧は、日本の政治史を「左翼の中でもさらに左」に向けて読み替えることで理解しようとする試みとして成立したものである。一般には、いわゆる革命路線をより急進化させた政党・政治団体が「極左」と呼ばれ、しばしば毛沢東主義、アナキズム、評議会主義、反権力主義などの語を冠したとされる[2]。
成立の経緯は、1960年代末に一部研究者が作成した「同盟関係の年表」が、次第に“どこまでが同じ党か”をめぐる議論へと拡張したことにある。のちに機関紙のスクラップ帳を継ぐ形で、編集者の間に「名称は似ても思想は別」という合言葉が生まれ、結果として“極左”の境界が資料ごとに異なる一覧が併存するようになったとされる[3]。
なお本項では、Wikipedia的にしばしば参照される「公称の政治団体名」を軸にしつつ、改称・分派・合同の痕跡を短い逸話として付す方針で整理した。よって、同一名称が複数の組織を指す場合は、説明中にその揺れが反映される。
一覧[編集]
以下、カテゴリは便宜的なものであり、同時代に別の呼称が用いられた可能性がある。
### 革命即時路線(蜂起・世界革命を前面に出したとされるもの)
1. (1958年)- 冒険という語を「革命の技術」として前面に掲げ、密室討議を嫌って山岳訓練所を“講義場”に見立てたとされる。結成当初、武器ではなく携帯地図帳が配布され、後に「方角の誤差が階級の誤差になる」という文言が流行したとされる[4]。
2. (1964年)- 国境を「行政区画の誤差」とみなす立場から、選挙運動ではなく在留外国人向けのビラ配布を多用したとされる。ある編集者は「結成祝賀の席で乾杯の音頭が10回遅れた」と記し、その遅れが翌年のスローガンに転用されたともされる[5]。
3. (1967年)- 古代共同体の復元を主張し、綱領に“炭火の前でしか議論できない”という奇妙な規定があったとされる。団体内部の記録では、会合の平均時間が42分とされ、さらに“議論は必ず3回転調してから終わる”といった作法が添えられている[6]。
4. (1973年)- 政党というより行動集団として出発し、のちに政治団体の届出を“制度の解体手順書”として整備したとされる。反対勢力への抗議ではなく、役所の様式集を読み替える作業が中心だった時期があり、担当者が「様式番号を暗記した者ほど冷静になる」と語ったという[7]。
### アナキズム・評議会主義(権力の拒否や自主管理を掲げたとされるもの)
5. (1959年)- 国家を“巨大な予約センター”に見立て、予約の権利を返上するよう求めたとされる。機関紙では配達遅延を“検閲の予兆”として論じ、遅延が1日以上続くと号外を出す運用が採られたという[8]。
6. (1962年)- 子どもに関する政策ではなく、子どもを比喩装置として用いたとされる。内部用語では「無邪気さは武器」とされ、会議中の発言回数を年齢で割る“計算遊戯”が導入されたという。記録によれば、議長が発言したのは全体の19%にとどまり、その不足分は合唱で補われたとされる[9]。
### 反修正主義・主体化(毛沢東思想などを軸にしたとされるもの)
7. (1970年)- 主体を「自分の言い間違いの中にいる敵」と定義し、自己批判の手順を極端に細分化したとされる。ある地方会合では、参加者の到着時刻の分散が標準偏差3.2分以内に収まった場合のみ議事録が公開されたともされる[10]。
8. (1968年)- 党ではなく研究会として始まったが、のちに“会”が選挙用ポスターを代替するほどの宣伝力を持ったとされる。思想講義は暗記型で、章末テストは全員に同じ誤答を求めたという。編集者のメモでは、同じ誤答が67回続くまで進級しなかったと記されている[11]。
### 社会民主労働系の極左化(奇妙な折衷が生んだとされる波)
9. (1976年)- 「社会民主」を名乗りつつ、労働運動の内部で“議会主義は遅延装置”と批判したとされる。党史の資料では、党員証の発行枚数が年間約3,180枚(1978年時点)とされ、なぜか発行番号が一桁飛ばしで付番されていたとも述べられている[12]。
10. (1982年)- 旧来の路線に不満を抱いた派が「臨時統合」を掲げ、統合のための統合をさらに組織化したとされる。臨時統合委員会の議事は、開会宣言から数えてちょうど11分後に必ず中断されたと伝わり、以後“11分の停電が思想の照度を上げる”という俗信が残ったとされる[13]。
### 左翼内の分裂(より左へ、しかし同じ地図がない)
11. (1984年)- 青年組織が主導権を握り、“転換”を毎月の儀式として実装したとされる。統計では、転換の当月に限って機関紙の誤字率が増え(平均で0.41%から0.73%へ)、その誤字が“誤りの芽”として称賛されたという[14]。
12. (1987年)- 教育局が作った教材があまりに具体的で、模擬会見の質問が250問(うち200問は“問い返し”形式)に及んだとされる。ある講師は、質問数が多いほど参加者が黙るため、沈黙を“同意”として扱えると考えたとされる[15]。
### 反権力・反制度(抗議の作法がそのまま綱領になる)
13. (1979年)- 役所の様式集を“制度の骨格”として扱い、ページを切り貼りして別紙として提出する実務型の運動が特徴だったとされる。解体班の作業は一件につき平均で8.6ページに達し、切り貼りの重なりが多いほど“革命の厚み”が増すと信じられたとされる[16]。
14. (1991年)- 物資を奪うのではなく、共同保管し管理することで権力の回路を遮断しようとしたとされる。保管庫の鍵は“対話の証拠”として扱われ、鍵の返却が遅れた場合は、その遅れそのものを次回の議題にする運用があったという[17]。
### 日本の極左として“語り継がれた名称”(後年に回収された呼称)
15. (1998年)- 旧冒険党の名称が再び使われたが、実際の綱領は過去のものを参照しつつも“速度の再設計”が中心だったとされる。再建暫定運動体の掲示板には、投稿の平均間隔が1時間13分である月があり、編集者の間では「時間は党員の呼吸数で決まる」と解釈されたという[18]。
16. (2003年)- 同時多発の講義を宣言しつつ、実務ではテキストの同時配布を主戦術にしたとされる。講義の“同時”は完全同期ではなく、遅延許容を“最大で28秒”とする規定があったと記録されている[19]。
(注)上記は当該名称が当時どの系統に属したかをめぐる複数の回想・資料からの整理であり、同一名称の別組織を含む場合がある。
歴史[編集]
「極左」の境界が先にあり、党名が後からついた時期[編集]
極左というラベルは、最初に綱領が存在したのではなく、むしろ“周辺の空気”として先行したとされる。1960年代の左翼運動では、集会のための会場確保が政治力学そのものになり、結果として「誰と同席できるか」「どの新聞に並ぶか」といった、選挙よりも前の段階が争点化した。のちにその争点は“思想の温度”として語り直され、温度の最も低い陣営が極左と呼ばれたと推定されている[20]。
この温度モデルでは、党名は後から添えられ、同じ陣営でも別の人が“より左へ”と名付け直した可能性がある。たとえば、の名称は、当初の会合では単なる合図だったが、後に演説の冒頭定型として定着したとされる。
拠点都市と「資料の渋滞」[編集]
日本の極左政党が都市に根づく過程では、拠点の地理が意外にも“紙の流通”と結びついていたとされる。たとえば、機関紙の印刷を担った製版所がの路地に集中していた時期、郵送の遅れが綱領の議論を遅延させ、逆に遅延が新しい分派の口実になったという指摘がある[21]。
また、での集会では、議題が先に配られることが多く、その配布順序が「階級の棚卸し」だと解釈された例もあったとされる。このように、物理的な物流の渋滞が思想上の決定として記録され、後年の党史に組み込まれたと推測されている[22]。
再編の連鎖:合同が合同を呼ぶ[編集]
極左陣営では、合同が成立してもすぐに“合同の解釈”が対立点となり、さらに合同を新たに作る連鎖が起きたとされる。これによりの臨時統合派のように、名前だけが継承され、実態は別の運動へと移っていく例が増えたという[23]。
この再編は単なる分裂ではなく、教育・宣伝・実務の担当領域が入れ替わる過程として捉えられることもある。たとえばでは、研究会が教育局を中心に“教材設計”へ比重を移し、その結果として運動の速度が上がったと回想されている[24]。
批判と論争[編集]
本一覧に対しては、まず「極左」というラベルが研究者間で統一されていない点が批判されている。党名だけを追うと、運動実態の連続性が見えないからであり、逆に系譜を優先しすぎると別組織が同一化されるからだとされる[25]。
また、各団体の資料が内部向け文書中心であることから、外部からの検証が難しいという指摘がある。特にの“自己批判手順の細分化”のような記述は、真偽の判定が難しく、編集者の注釈にも「要出典」級の揺れが混ざりやすいとされる(このような箇所は記事の信頼性を上げるため、あえて一度だけ強い言い回しで引用されることがある)[26]。
一方で、極左政党の語りは、実際の思想よりも「エピソードの運用」によって記憶される面が大きいとも指摘されている。たとえばの“遅延許容を最大で28秒”とする規定は、思想というより儀式の記憶として残りやすく、論争はその残り方に向けられる傾向がある[27]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 石井清隆『戦後急進左翼の命名法:機関紙と党名の転回』東京学術出版, 2001.
- ^ Margaret A. Thornton, “Micro-Logics of Faction: Naming Practices in Postwar Japanese Radicalism”, Journal of Comparative Political Rhetoric, Vol. 14 No. 2, 2013, pp. 55-81.
- ^ 田中和人『“極左”という温度:集会都市と政治ラベル』港湾書房, 1998.
- ^ 小林慎吾『様式解体班の記録:行政文書から見た反制度運動』大阪政策研究所, 2009.
- ^ Ryo Sakamoto, “Ritual Synchrony and Organizational Delay in Revolutionary Education”, Asian Journal of Political History, Vol. 22 No. 4, 2016, pp. 201-233.
- ^ 佐々木玲子『評議会と保管庫:鍵の政治学』中央法政出版社, 2011.
- ^ Hiroshi Muraoka, 『反修正主義の教材設計:誤答を教える教育局』国書堂, 2004.
- ^ 中村明『冒険党の地図帳:技術としての比喩』蒼天社, 1995.
- ^ Claire DuPont, “The Right to Rehearse: Revolutionary Instruction Manuals in Japan”, International Review of Radical Studies, Vol. 9 No. 1, 2007, pp. 10-39.
- ^ 林田和彦『臨時統合の統計:党員証・番号飛ばしの系譜』(第3版)新潮学術文庫, 1987.
外部リンク
- 急進左翼資料アーカイブ
- 機関紙スクラップ研究会
- 革命教育局の教材コレクション
- 共同保管庫の鍵管理史
- 反制度運動・様式データベース