日本三大道
| 名称 | 日本三大道 |
|---|---|
| 読み | にほんさんだいどう |
| 英語名 | Three Great Roads of Japan |
| 成立 | 18世紀末〜19世紀初頭と推定 |
| 提唱者 | 河岸測量派の諸藩士と江戸の地誌家 |
| 主な論拠 | 道幅、勾配、宿駅数、霊験伝承 |
| 関連制度 | 街道改修願、里程標、巡礼札 |
| 影響 | 観光案内、地図出版、地方名物化 |
日本三大道(にほんさんだいどう)は、各地に伝わる「三本の特別な」を総称した概念である。一般には後期の思想と文化が結びついて成立したとされ、のちにの道路台帳整備で半ば制度化されたといわれる[1]。
概要[編集]
日本三大道とは、近世日本において「最も道らしい道」とされた三つの幹線を束ねる便宜上の呼称である。対象となる道は時代や地域によって揺れがあるが、系の海沿い道路、系の内陸道路、そして系の雪国道路が三本柱とされることが多い[2]。
この概念は単なる旅行案内ではなく、の安全性、の安定度、そして「曲がりくねり具合の美しさ」を数値化しようとした江戸後期の道学者たちの遊びから生まれたとされる。なお、道の格付けをめぐってはの版元との旅籠組合の利害が絡み、のちに半官半民の標準語のような地位を得たとの指摘がある。
定義の揺れ[編集]
最古の用例は11年(1814年)頃の地誌草稿『道格三品考』に見られるとされるが、原本はの古書店火災で焼失したため、現在は写しを根拠に議論されている[3]。もっとも、写本には明らかに別筆の追記が混じっており、三大道のうち一つをからへ差し替える案も存在した。
選定基準[編集]
選定には、宿駅数が30前後であること、主要河川を少なくとも4回横断すること、そして「雨の日に旅人が愚痴を言いやすいこと」が含まれたとする説が有力である。とくに最後の基準はの茶屋で広まった俗説であり、統計学の先駆として評価する研究者もいる一方、単なる冗談とする見解も根強い。
成立の経緯[編集]
日本三大道の成立は、年間の道路改修と地図出版ブームが結びついた結果と説明されることが多い。とりわけの杉浦敬庵と、の普請方にいた田沼源左衛門が、旅人向けの「三道比較表」を共同で作ったことが大きいとされる[4]。
二人はもともと対立関係にあり、敬庵が「道の霊性」を重視したのに対し、源左衛門は「勾配の平均値」を重視した。しかし、の宿場で大雪に足止めされた際、同じ囲炉裏端で三夜を過ごし、その間に「霊性も数字も、結局は同じ旅費に還元される」という妥協に達したという。以後、三大道は情緒と実務の折衷物として広まった。
この時期に刊行された木版図『三都道程新案図』では、各道に対して「曲折指数」「茶屋密度」「馬の機嫌係数」が併記され、現代の交通工学に先駆ける試みとして再評価されている。ただし、係数の算出法は版元ごとに異なり、同じ道でも版によって評価が3割ほど変動した。
江戸の地誌家と版元[編集]
江戸の系版元は、三大道を売り物にした往来物を年間約2万7,000部刷ったとされる。これは当時としては異例の部数であり、旅好きの町人だけでなく、実際には一度も遠出をしない武家奉公人にも人気があったという。
幕末の再編[編集]
には、外国船来航の影響で道路の「見栄え」が重視され、三大道のうち一部区間が直線化の対象となった。これに対し、老舗旅籠の主人たちは「道がまっすぐになると話題が減る」と抗議し、の茶屋では半日で34通の嘆願書が集まったと記録されている。
三大道の構成[編集]
通説では、日本三大道は、、の三本で構成される。もっとも、地方の保存会や観光連盟の間では、時期によってやを加えた「準三大道」を唱える例もあり、完全に固定した概念ではない[5]。
三本の道はそれぞれ性格が異なり、東海道は潮風による錆びやすさ、中山道は峠越えによる根性試験、北国街道は積雪と温泉の多さが特徴とされた。この差異を好んだのが江戸後期の俳諧師たちで、彼らは各道を「青・土・白」の三色に見立て、旅日記に盛んに書き残した。
東海道[編集]
東海道は最も人通りが多く、宿場ごとの饅頭の味が比較されやすかったため、早くから「標準道」と見なされた。とくに関所周辺では、坂を登るための休憩回数が平均6.4回とされ、旅籠の湯沸かし技術が異常に発達したという。
中山道[編集]
中山道は「景観の変化が激しすぎて道が一冊の本になる」と評され、絵師の系統の弟子たちに人気であった。峠ごとに気圧が違うため、鼻血が出やすい道としても知られ、道中記には「半紙が一枚余計に要る」との記述が残る。
北国街道[編集]
北国街道は雪解け期のぬかるみが問題であったが、そのぶん湯治場と酒蔵が密集し、旅人の滞在時間が最も長かった。ある調査では、同街道を通った商人のうち17%が予定より2泊以上延泊し、その理由の半数以上が「道が悪いが飯がうまい」であったとされる。
社会的影響[編集]
日本三大道は、単なる交通の比喩を超えて、、、に影響を与えた概念である。各地のはこれを利用して「三大道土産」を名乗る商品を売り出し、明治30年代には道中絵図の売上の約18%を占めたという。
また、学校教育にも波及し、の地理補習では三大道を暗記させる唱歌が用いられた。その歌詞は「ひとつは海、ひとつは山、ひとつは雪」と始まるが、地域によって四番まで存在し、しかも三大道なのに四拍子で歌うため、児童が混乱したと記録されている。
観光と土産[編集]
のある土産店では、三大道にちなんだ「三色往来せんべい」が1928年に発売された。袋の裏には道幅の目安が印刷されていたが、消費者の多くはそれを賞味期限と勘違いしたという。
教育への影響[編集]
の旧地理教科書草案には、日本三大道を「道路文化の三位一体」とする記述が残っている。もっとも、最終版では検閲により宗教色が薄められ、代わりに測量単位の説明が1ページ追加された。
批判と論争[編集]
日本三大道の概念には、当初から「恣意的である」との批判があった。とくに期の地理学者・小野寺晴峰は、宿場の数え方が版元ごとに違う以上、三本に固定する意味は薄いと論じた[6]。
一方で、民間伝承の側からは「道の格付けは旅人の記憶に由来するため、統計では測れない」との反論があり、両者はの講堂で3時間40分にわたり論争した。結局、廊下で待っていた学生が全員帰宅したため討論は自然終了したとされる。
保存会問題[編集]
戦後になると、各地の保存会が独自に「うちこそ真の三大道」であると主張し始めた。これに対しは公式認定を避け、代わりに「準公式道路景観モデル地区」という長い名称を作ったが、現場ではほとんど使われなかった。
学術的再評価[編集]
以降、道路史研究の進展により、三大道は実際の道路体系というより「旅の記憶を整理するための文化装置」として評価されるようになった。なお、近年の研究では、三大道の概念形成において一人の無名の旅絵師が大きな役割を果たした可能性が指摘されているが、名前はまだ特定されていない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 杉浦敬庵『道格三品考』江戸地誌社, 1814.
- ^ 田沼源左衛門『三都道程新案図』須原屋書店, 1832.
- ^ 小野寺晴峰「三大道概念の恣意性について」『交通史研究』Vol. 12, No. 3, pp. 44-61, 1919.
- ^ Margaret A. Thornton, “Road Personality and Travel Memory in Early Modern Japan,” Journal of Pseudo-Asian Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 113-149, 1978.
- ^ 渡辺精一郎『近世往来物における道の分類』日本測量文化協会, 1964.
- ^ 河合里奈「北国街道の停滞時間と温泉経済」『地方史論壇』第27巻第1号, pp. 9-28, 1988.
- ^ 佐々木玄堂『旅籠と曲折指数』みちのく出版, 1959.
- ^ Hiroshi Kanda, “The Three Great Roads and the Making of Civic Memory,” Transactions of the Tokyo Historical Society, Vol. 41, No. 1, pp. 1-22, 2003.
- ^ 『三道比較表総覧』日本道路文化研究会, 1976.
- ^ 中井由紀子『図会に見る日本三大道』青雲社, 1991.
- ^ “A Comparative Atlas of Three Famous Roads in Japan”『The Journal of Cartographic Folklore』Vol. 5, No. 4, pp. 201-219, 2010.
外部リンク
- 日本道路文化研究所
- 三大道保存会連絡協議会
- 道中絵図アーカイブ
- 近世街道比較データベース
- 旅と宿の民俗博物館