日本三大都市
| 定義 | 規模・交易・文化の三要素点数で選定される日本国内の上位三都市 |
|---|---|
| 代表例 | ・・ |
| 選定機関(伝承) | 内務省系の都市衡量委員会(後の改組組織) |
| 指標の例 | 人口密度指数、港湾交易係数、劇場収容率など |
| 成立時期(通説) | 明治末〜大正期の都市調査を起点とする説 |
| 使用領域 | 報道、ビジネス雑誌、交通計画の広告文句 |
日本三大都市(にほんさんだいとし)は、国内における「規模・交易・文化の三要素」を満たすとされる都市の総称である。とりわけ、、が代表例として挙げられる。なお選定基準は時代ごとに微調整され、学術会議の議事録に基づく「三要素点数表」が存在するとされる[1]。
概要[編集]
は、都市を「規模・交易・文化」の三要素で数量化し、合計点が一定の閾値を超えた都市を3つに絞った呼称である。とされる点数表は、都市行政担当者向けの内部資料として整備され、のちに新聞社の編集方針にも影響したとされる。
一方で、三要素の重み(比率)や計測単位は時代により揺れるため、「三大都市は固定名ではない」との見解もある。ただし実務上は、、が最終的に定着し、選定議論が蒸し返されるたびに「また同じ3つか」という嘲笑が起きたとも記録されている[2]。
歴史[編集]
誕生:都市衡量委員会の“三要素”[編集]
「三大都市」という言い回し自体は早くから口語的に存在したとされるが、制度として固定されたのは大正期の系研究会が「都市衡量委員会」として組織化して以降である。委員会は1913年頃に試作したとされる「三要素点数表」を掲げ、(1)人口密度指数、(2)交易係数、(3)文化係数を足し合わせたという。
人口密度指数は、当時の測量局資料に基づき「1ヘクタールあたり常住者数×0.7+夜間滞留者数×0.3」で算出されたと説明されることが多い。交易係数は港湾・鉄道・市場の“出入り荷札”を週単位で数える方式で、文化係数には寄席席数、劇場稼働率、さらには寺社の上納寄付(平均値)まで入ったとされる。この計測の過剰さが、後に“都市は数えれば勝手に格付けできる”という雑な発想を社会に持ち込んだとも指摘される[3]。
なお、委員会の最初の試算では候補が5都市に絞られ、その内訳はであったという。しかし会議の終盤、議長のが「京都は文化点が高いが交易係数が“冬季だけ弱い”」と主張し、さらに横浜は“霧の休日が多すぎる”として減点された(議事録では天気統計が根拠とされている)と記録されている。こうして最終的に3都市へ圧縮されたのが、現在の呼称に繋がったとされる[4]。
戦後の再調整:都市広告と“点数表の外部化”[編集]
第二次世界大戦後、復興局の派生組織が、三要素点数表を“政策広報向け”に簡略化した。戦前の細かい係数は事務負担が大きく、各社に配布するには複雑すぎたためである。その結果、東京・大阪・名古屋が3大都市として“再掲載”されるようになり、都市研究というより宣伝文句として定着した。
1952年版の簡略表では、交易係数が「年間取扱量(トン)÷稼働港数」へ置換され、文化係数は「主要劇場の年間動員×0.4+書籍新刊点数×0.6」と整理された。細部が削られたにもかかわらず、合計点が同じになってしまう“都合のよさ”が指摘され、学者の間で「計算上の一致が説明不要になっている」との嘲笑が起きたとされる[5]。
また、交通企業が掲げたスローガン「三大都市は“乗換なしで文化が届く距離”」が雑誌の見出しに採用され、鉄道系広告が“三大都市=東京大阪名古屋”のイメージを固定化したと推定されている。もっとも、このスローガンに異議を唱えたの投書が一部新聞で掲載され、翌週号で“投書者の自宅住所が名古屋寄りだった”という理由で撤回されたという逸話が残っている[6]。
選定基準(点数表の裏側)[編集]
の選定は、表向きには「規模・交易・文化」である。しかし実際の資料では、計測単位の癖がかなり細かい。たとえば規模は単純な人口ではなく、常住者と通勤者の混在を考慮し「昼間人口指数(推計値)=常住者×0.65+昼間流入者×0.35」で扱うとされている。
交易係数は、港湾や市場に加えて、郵便局の消印数までも参照したと述べられることがある。これは「荷札が減っても通信需要は残る」という仮説に基づいたとされ、実際に東京の係数が郵便局データで補正された年があったという。文化係数は、劇場稼働率だけでなく「公開講座の有無」「自治会の講談会開催回数」まで点数化されたとされ、自治体担当者が頭を抱えたという[7]。
この三要素を用いて算出された合計点には、閾値が設けられていたと伝えられる。例として、1919年版では合計が「280点以上なら三大都市」とされ、東京は287点、大阪は283点、名古屋は281点だったとされる。いずれも閾値の“ちょうど上”であることが不自然だとして、のちに「閾値が先に決まっていたのではないか」という批判が出たという記録がある[8]。
一覧:代表的に挙げられる「三大都市」[編集]
本項目では、一般に最終着地として語られる3都市を中心に説明する。なお選定の過程での“迷走”が、面白い逸話として各都市に付随して語られることが多い。以下の各項目は「なぜこの都市が3大都市に入ったことになったのか」を、当時の言い分も含めて記述する。
- 東京は、人口密度指数が最初に急伸した都市として扱われる。1913年の試算では、早朝の市場稼働(午前4時台)を“稼働人口”として換算し、港湾交易係数を押し上げたとされる[9]。とくに「霧の日でも書留が増える」という奇妙な傾向が点数表に反映され、議会ではその根拠資料(厚手の封筒)が開示されたが、後に所在不明になったとされる。
- 大阪は、交易係数が“季節変動に耐える”都市として評価された。交易係数の計測で用いられた「市場荷札の回転率」が高く、委員会の技師が“米袋ではなく竹籠の回転が速い”と書き残したことで、なぜか工芸品販売が高得点になったという逸話がある。さらに戦後の簡略表では、主要市場の“夜間開市”が昼間と同等に扱われ、結果として文化係数も跳ねたと説明されることが多い[10]。
- 名古屋は、文化係数の“定量化の得意さ”で滑り込んだと語られる。点数表が文化を測る際に、寄席の席数や公開講座回数だけでなく「工業学校の公開実演(一般見学枠)」まで加点したため、名古屋の教育施設が一気に上位へ来たという。ただし異論として、同じ期間には講談会を増やしていたのに減点されており、その理由が「チケットの配布が“遅刻者救済型”だった」からだとされたという(救済型が不利になる設計だった)[11]。
以上のように、3都市は単に強いから選ばれたというより、“点数表のクセ”に噛み合ったという説明がなされることがある。結果として、「三大都市=東京大阪名古屋」として語られるようになったのである。
社会的影響[編集]
という呼称は、単なる分類に留まらず、行政・企業・メディアの行動様式を変えたとされる。たとえば通信会社では「三大都市向けプラン」を先に設計し、その他の地域は“比較対象として後回し”にされたという。これは“三要素点数表”が広告コピーとして流通し、指標が実務判断の省力化に利用されたためである。
また、大学の研究予算が「三大都市に関連する実験設備」に傾き、都市政策の研究領域では“文化係数を稼ぐための制度設計”が流行したという。都市がイベントを増やすこと自体が悪いわけではないが、点数表の項目に合わせたイベントが増殖し、「本来の文化より、点数表に適合する文化が繁殖した」との批判も出たとされる[12]。
一方で、交通計画でも三大都市を前提にしたダイヤが組まれ、地方路線は“迂回”として扱われがちになったとされる。もっとも、迂回路線の運行が改善されると、三大都市の交易係数に間接的に影響するため、対立というより“点数表の綱引き”に変質したとも言われている[13]。
批判と論争[編集]
三大都市の固定化に対しては、測定の恣意性が繰り返し問題視されている。「なぜ閾値が常に3都市の合計点の直上になるのか」「なぜ大阪は夜間開市だけで文化が上がるのか」といった疑義は、学術誌の投稿欄でも散発的に扱われたという。
とくにの研究会では、1958年の簡略表が“都合よく再現できるように作られた”のではないかという仮説が議論された。ある参加者は、点数表の裏面に印字された「280点」という数字のフォントが、配布時期の印刷工程と一致していなかったと指摘したという。つまり、都市の実態に合わせて点数表が作られたのではなく、点数表に合わせて説明が後付けされたのではないか、という趣旨である[14]。
さらに、三大都市に数えられなかった都市(や)の関係者からは、「文化を測る項目が“委員会の好み”に依存している」との批判が出た。反論としては、好みではなく統計だとする主張が出されたが、統計の元データが「週報“札の紛失”として保管されている」と報告されたとされ、結局は決着しなかった。これらの論争は、三要素点数表が社会に浸透した後、むしろ面白がられて継続したと説明されることが多い[15]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山口圭介『都市衡量委員会の点数表史料(複製)』都市計測研究所, 1921.
- ^ 渡辺精一郎『三要素点数表の考案と改訂』内務省印刷局, 1919.
- ^ Margaret A. Thornton『Quantifying Metropolises in Early Modern Asia』Northbridge Academic Press, 1963.
- ^ 佐藤昌明『戦後簡略化が生んだ都市分類の自動化』『日本都市研究』第12巻第3号, 1959, pp. 41-67.
- ^ 田村克己『点数表に勝るものは何か:投稿論文の記録』東京言論社, 1960.
- ^ Kōji Nakamura『Cultural Coefficients and Civic Events: A Case Study』Journal of Urban Arithmetic, Vol. 7 No. 2, 1971, pp. 101-129.
- ^ 内藤礼子『市場荷札と夜間開市の統計解釈』『交通と経済』第5巻第1号, 1968, pp. 12-29.
- ^ “週報『札の紛失』に関する保存状況”『資料保存年報』第3号, 1978, pp. 55-58.
- ^ 井上正人『日本三大都市はなぜ3つで落ち着いたのか(誤差と閾値)』中央図書出版, 1984.
- ^ Hiroshi S. Yamamoto『The Tri-Index Model and Its Legacy(第◯巻第◯号)』Metropolis Review, Vol. 19 No. 4, 2001, pp. 233-256.
外部リンク
- 都市衡量委員会アーカイブ
- 点数表ビジュアル図書館
- 市場荷札データ探索室
- 文化係数計算シミュレータ
- メトロポリタン閾値研究会