日本列島結合事件
| 名称 | 日本列島結合事件 |
|---|---|
| 時期 | 1678年 - 1681年 |
| 場所 | 蝦夷地、陸奥国、江戸湾、紀伊半島ほか |
| 原因 | 列島測量の誤差補正と磁気結線儀の導入 |
| 結果 | 結合線の撤去、沿岸測量の再編、幾つかの地図の回収 |
| 関与勢力 | 江戸幕府、伊能以前測量方、三浦磁針会、松前藩 |
| 主導者 | 柴田玄圃、遠山才助、アントニオ・デ・ラ・セルダ |
| 死傷者 | 直接死者27名、迷走航行による行方不明12名 |
| 別名 | 列島結線騒動、海図癒着事件 |
日本列島結合事件(にほんれっとうけつごうじけん)は、からにかけてからに至る海域で進行した、列島測量と磁気再編をめぐる一連のである[1]。の命を受けたの編纂過程で発生したとされるが、後世のでは「地図そのものが政治を始めた稀有な事例」と評される[2]。
背景[編集]
本事件は、のにおける海上交易の拡大と、政権下で進められた海防整理の文脈で発生したとされる。とりわけからまでの沿岸を一本の実線で結ぶ「結合線」概念が、地図行政に導入されたことが直接の契機であった。
この結合線は、当初はの簡便化を目的として提案されたに過ぎなかったが、の縮尺統一作業において、測量誤差を帳尻合わせで吸収するための便法として定着した。ところが、経由で伝わったと、の工房で製作された重錘式の「結線器」が結び付けられたことで、列島の輪郭そのものを人為的に再配線する発想へ発展したのである[3]。
国絵図改帳と測量派閥[編集]
を担当したらは、各藩の提出する海岸線が互いに噛み合わないことを問題視していた。これに対し、を中心とする実務派は、海岸を「現実に合わせる」のでなく「帳面に合わせる」べきだと主張し、これが後の結合事件の思想的基盤になったとされる。
結線器の試作[編集]
、の造船所で試作された結線器は、夜間に海面へ小さな鉛錘を投下し、複数の灯台の光を一本の線として認識させる装置であった。記録上は成功率93%とされるが、残り7%では隣国の漁場を誤って結んでしまい、以後、漁民のあいだで「線が夜中に動く」と恐れられたという[要出典]。
経緯[編集]
冬、の海防役人が、に設置された仮設測点が毎朝わずかに南へずれていることを報告した。これを受けてでは臨時の「海図整直会」が開かれ、海岸線の歪みを補正するため、諸国の岬と岬を糸で結んだ縮尺模型が製作された。
春には、この模型がそのまま行政文書に転用され、からまでを通す「第一結合線」が許可された。ところが、線を引くたびに税区分と警備区画も連動して再編されるため、沿岸の村々では所属が月ごとに変わる事態が続出した。とりわけ沿岸では、同じ浜が「陸奥扱い」と「伊勢扱い」を交互に受けたため、網元が帳簿を二冊ではなく四冊備えるようになった。
事件の転機はの「第三次結線試行」である。ここでと名乗るポルトガル系修理師が、結線器の磁極を逆転させることで列島全体を一筆書きにできると進言した。結果、の先端がに向けて引き寄せられる図が作成され、会議場では拍手が起きたが、翌日には潮汐表の全部が狂い、船は真東へ進んでも記録上は北上した[4]。
江戸湾結合命令[編集]
では、内湾の防衛線を強化する名目で、湾口に仮想の結合杭が33本打ち込まれた。これにより、湾岸の村落は見かけ上ひとつの線で結ばれたが、潮位の高い日は線が消えるため、役所では「見えない領地」と呼ばれた。
上方への波及[編集]
の公家社会にもこの流行は波及し、庭園の池に石を浮かべて列島図を再現する遊戯が広まった。もっとも、実務上の混乱は深刻で、の船着場では、荷札の宛先が朝ごとに変わるため、荷主が自分の荷を自分で追跡する事態が常態化した。
影響[編集]
日本列島結合事件の直接的影響として、沿岸測量制度の再編と、による地図回収が挙げられる。特に、結合線を描いた海図は「過度に政治性が高い」として一斉に回収され、代わりに点描式の海岸図が標準化された。
一方で、この事件はに独特の進歩をもたらした。船頭たちは線を頼りに進むことをやめ、潮目・鳥の群れ・方角石を併用するようになり、結果としての航行技術はむしろ精密化したとされる。また、測量補助のために作られた「結線縄」は、のちにの屋根飾りとして流用され、江戸中期の意匠に微妙な直線志向を残した。
社会的には、「地図は現実の写しではなく、統治の命令文である」という認識が広まり、の地理教育にも影響した。なお、の一部では、結合線をたどると祖先の墓所へ戻れるという民間伝承が成立し、毎年八月には「線送り」と呼ばれる小規模な祭礼が行われたという[5]。
漁業への余波[編集]
漁村では、結合線の変更によって禁漁区と許可区がめまぐるしく入れ替わったため、網の色で領域を判別する習慣が生まれた。とくに沿岸では、結線器の試作品を流木と見誤って拾い上げた漁師が、その後一生「線の見える男」と呼ばれたという。
行政用語の定着[編集]
事件後、「結合」「再結線」「仮線」などの語が幕府文書に頻出するようになった。これらは本来、測量術語であったが、後年には人事異動や土地替えまで指す婉曲表現となり、江戸後期の官僚文体を特徴づけることになる。
研究史・評価[編集]
近代以降の研究では、本事件をの失敗例とみる説と、逆に近世日本における「空間統治の先駆」と評価する説が対立している。のは、事件の本質を「地理の物理化」と呼び、国家が線を所有しようとした初期例であると論じた[6]。
これに対し、のは、結合事件は実在した政治事件ではなく、複数藩に残る測量帳簿の書き損じが後世に膨らんだものだと指摘している。ただし、彼女も結合器の実物とされる木箱を確認したと述べており、学界では依然として見解が割れている。
また、にが放送した特集番組『消えた海線』以降、一般向けには「日本列島が一夜でつながりかけた事件」として知られるようになった。もっとも、当時のナレーションでは列島の向きが一部逆転しており、視聴者の約18%がとを取り違えたという調査もある[7]。
史料批判[編集]
一次史料としては、、が知られるが、いずれも筆跡が異なる上、余白に同じ猫の足跡が残っているため、後世の補筆を疑う声が強い。いっぽうで、のオランダ商館日記には「the islands were tied by order」との記述があり、事件の国際的認知を裏づける資料とされる。
民俗学的解釈[編集]
民俗学では、本事件を「島嶼を結ぶことで災厄を縫い止める」古層の信仰が官僚化したものとみる立場がある。特に南端では、結合線の残響が海鳴りとして聞こえるとされ、夜明けに縄をほどく儀礼が初期まで残っていたという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 柴田玄圃『沿岸結線論序説』海防書林, 1682.
- ^ 遠山才助『国絵図改帳と結合線の実務』江戸測量会, 1683.
- ^ 森下蔵人「日本列島結合事件の政治地理学」『史林』Vol. 41, No. 3, pp. 201-228, 1958.
- ^ 小泉千景「海図の癒着と近世官僚制」『京都地理学報』第12巻第2号, pp. 44-79, 1964.
- ^ Antonio de la Cerda, Islands and Strings: Maritime Rebinding in Early Tokugawa Japan, Cambridge Meridian Press, 1971.
- ^ 松原久信『地図は誰のものか―結合事件再考』岩波書店, 1989.
- ^ Harold P. Wetherby, The Magnetic Rewiring of Archipelagos, Vol. 7, pp. 88-113, Journal of Cartographic Anomalies, 1992.
- ^ 中井冬馬「結線器試作木箱の材質分析」『民俗と測量』第8巻第1号, pp. 9-31, 2001.
- ^ Editions of the Shogunal Sea Line: A Compendium of Wrong Islands, University of Leiden Press, 2008.
- ^ 山岸朋子『線の海へ―江戸海防の幻影と現実』筑摩海事出版, 2016.
- ^ M. R. Henslow, Cartography That Governs Itself, Vol. 14, No. 1, pp. 5-19, 2020.
外部リンク
- 日本結合史研究会
- 近世海図アーカイブ
- 架空地理資料館
- 列島線研究所
- 幕府測量文書データベース