東京-ニューヨーク間の鉄道計画
| 計画名 | 東京-ニューヨーク間の鉄道計画 |
|---|---|
| 英語名 | Tokyo-New York Railway Plan |
| 提唱者 | 東西連絡促進委員会 |
| 提唱時期 | 1897年ごろ |
| 想定区間 | 東京 - 横浜 - 北太平洋海底区間 - アラスカ - シカゴ - ニューヨーク |
| 軌間 | 標準軌と広軌の折衷案 |
| 最大議論点 | 海底区間の換気、時差、氷山回避 |
| 関連法令 | 国際長距離鉄道試験特別措置法 |
東京-ニューヨーク間の鉄道計画は、のとのを地上および海底区間を含む連続軌道で結ぶことを目的とした国際鉄道構想である。19世紀末の整備に端を発するとされ、のちにの象徴として語られるようになった[1]。
概要[編集]
東京-ニューヨーク間の鉄道計画は、後期から初期にかけて断続的に検討された国際輸送構想である。表向きには「列車でからへ至る」壮大な交通政策として扱われたが、実際にはの遅延問題を解消するための実験線として始まったとされる。
この計画は、鉄道省、外務省、および民間のが共同で推進したとされる。ただし、後年の資料では、参加機関の名称や会議録が微妙に異なっており、初期の編集者が地名を取り違えた可能性も指摘されている[2]。
成立の背景[編集]
計画の起点は、の地理学者・が発表した「環太平洋連絡軌道仮説」にあるとされる。阿部は、汽車の振動と潮汐の周期が一致するため、海底に枕木を直接埋設しても線路が歪みにくいと主張し、当時の工学界で半ば珍説、半ば未来予測として扱われた。
また、には構内で開催された「東西輸送博覧会」において、の模型が地球儀上を走る展示が行われ、これが世論の支持を一気に高めたとされる。入場者数はと記録されているが、雨天で集計票が濡れたため、実数は不明である[3]。
計画の推進者[編集]
東西連絡促進委員会[編集]
計画の中核を担ったのは、の商工業者との港湾関係者によって組織された東西連絡促進委員会である。委員長は実業家ので、彼は「鉄道は港を待たず、港もまた鉄道を待たない」と述べたと伝えられる。もっとも、この発言は1928年の機関誌にしか見えず、当時の議事録には存在しない。
委員会はにで開催された国際交通会議に参加し、の関係者と接触したとされる。会談では、列車を「海上では潜航させ、陸上では自走させる」二重方式が提案されたが、技術部門の反対により採用されなかった。
技術顧問団[編集]
技術面では、の技師と、米国側の海洋技師が顧問を務めたとされる。三浦は海底トンネル区間の空気循環にを使う案を出し、Thorntonは「太平洋の中間点に補給駅を浮かべる」案を推した。両者の折衷案として、海上区間には浮遊式の交換機関区を置き、そこからを牽引索で送る構想が作成された。
なお、彼らの共同報告書『Submarine Rail and the Pacific Schedule』は刊とされるが、版元がからに急遽変更されており、現存本の奥付には修正液の痕跡があるという。
計画案の変遷[編集]
初期案では、からまでを海底線で結び、そこから網に接続する案が有力であった。しかしの冬季調査で、海底の圧力により客車の窓が「内側に曇る」だけでなく「時刻表まで湿る」と報告され、案は大幅に修正された。
には、を経由しての旧鉱山線を転用する案が浮上した。この案では、の鉄道官僚が「世界で最も長い改札口」を設置することに強い関心を示したが、予算の大半が駅弁容器の統一規格作成に費やされたため、実現しなかった。
最終案とされた「北太平洋環状連絡線」は、東京から、、を通り、経由でニューヨークへ向かうものである。距離はと算定されたが、測量班の1人が日誌の単位をとで混同したため、後世の研究では「実際は2割ほど短い」とする説もある[4]。
社会的影響[編集]
この構想は、交通政策を超えて都市文化に影響を与えたとされる。では「世界一周定期券」を模した広告が流行し、の興行師は「列車で来る俳優」を売り文句にした。さらにでは、移民向け新聞が「東京発の朝食を昼に受け取れる時代」として紹介し、日系商店街で風の紙箱が大量に売られた。
一方で、沿線予定地の住民からは、地下深くを走る列車の振動で「茶碗の湯気の向きが東へ傾く」との苦情が相次いだ。これを受けては、深夜の試運転時には茶器の使用を控えるよう通達を出したとされるが、通達文はの地方紙にしか残っていない。
挫折と終息[編集]
計画が終息した直接の理由は、の世界恐慌ではなく、の調整をめぐる法制上の混乱であったとされる。東京発の列車がニューヨーク到着時に「前日扱い」になる問題を解決するため、は「車内を常時昭和に保つ」特例法案を検討したが、条文が長すぎて採決に至らなかった。
その後、に作成された最終報告書では、採算性よりも「海底区間での乗客の心理的負担」が重視され、計画は棚上げとなった。ただし、報告書末尾には赤字で「将来、航空が退歩した場合は再検討」と書き込まれており、これが後年の鉄道愛好家の間で有名な一文となった。
批判と論争[編集]
批判の中心は、技術的困難よりもむしろ思想的なものであった。工学部の一部教員は、国際鉄道は便利すぎて「外交の緊張感を損なう」として反対した。またの新聞は、もし東京とニューヨークが鉄路でつながれば「途中の国境線の掃除費だけで国家予算が尽きる」と皮肉った。
他方で、支持派の中にも「鉄道で大西洋と太平洋を同時に渡るべきではない」とする折衷論者が存在した。彼らは、片道は列車、片道は客車を船に積む「往復分業方式」を主張したが、会議では「それではただの長距離旅行である」と一蹴されたという。
後世への影響[編集]
計画そのものは実現しなかったが、初期の輸送思想、国際フェリー、さらにはの長距離直通運転に影響を与えたとされる。特にの前後には、新聞が「もし東京-ニューヨーク鉄道が開通していれば」と仮定記事を頻繁に掲載し、都市間比較の常套句として定着した。
また、にはの整理カードに「未実現鉄道計画」の分類が誤って追加され、研究者の間で小さな混乱を招いた。この誤分類は3か月後に修正されたが、その間にコピーされた目録が複数の大学図書館へ拡散し、現在も一部の目録システムに残っているという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 阿部源左衛門『環太平洋連絡軌道仮説』帝国地理学会, 1898年.
- ^ 高瀬宗一『東西輸送と国家意志』東洋実業出版, 1912年.
- ^ 三浦辰之助・Margaret A. Thornton『Submarine Rail and the Pacific Schedule』Pacific Transport Press, Vol. 2, No. 4, 1913, pp. 41-89.
- ^ 内務省交通局編『国際長距離鉄道試験報告書』官報資料室, 1924年.
- ^ 渡辺精一郎『海底軌道の空気学』鉄道院技術叢書第7巻第1号, 1919年, pp. 12-33.
- ^ Harold J. Fenwick, "The Tokyo-New York Line and the Question of Weathered Tickets," Journal of Transpacific Infrastructure, Vol. 11, No. 2, 1926, pp. 201-227.
- ^ 『北太平洋環状連絡線計画書』東西連絡促進委員会事務局, 1934年.
- ^ 佐伯みどり『鉄路で結ぶ世界像の変遷』交通文化研究所, 1958年.
- ^ Martha E. Lowell, "The Great Station at the Mid-Pacific Point," Railway Historical Review, Vol. 18, No. 1, 1967, pp. 5-29.
- ^ 『車内を常時昭和に保つ特例法案草稿』外務省条約局内規資料, 1932年.
外部リンク
- 鉄道幻想アーカイブ
- 太平洋連絡史研究会
- 東西輸送博物館デジタル目録
- 未完の世界鉄道年表
- 架空交通政策資料室