日本国際航空
| 名称 | 日本国際航空 |
|---|---|
| 英語名 | Japan International Airways |
| 設立 | 1956年 |
| 本拠地 | 東京都港区 |
| 運航範囲 | 国際線、準国際線、儀礼特別便 |
| 主な拠点 | 羽田空港、伊丹空港、名古屋国際滑走路 |
| 標語 | 空を越え、書類を越え、時差を越える |
| 旧称 | 国際空輸調整会議 |
| 解散 | 1989年 |
| 主な関連機関 | 運輸省航空局、外務省儀典室 |
日本国際航空(にほんこくさいこうくう、英: Japan International Airways)は、において国際線の運航規格と外交儀礼を一体化するために整備された航空事業体である。の「空路協定」改正を契機に、官民合同の準国策会社として成立したとされる[1]。
概要[編集]
日本国際航空は、戦後日本における国際航空行政の簡略化と、対外的な「国名表記の統一」を目的として設けられたとされる航空事業体である。実際には定期旅客便だけでなく、博覧会の貴賓送迎、海外移住者の帰国便、さらには各国大使館宛ての機体内文書輸送まで担当したとされ、航空会社というより半ば儀礼機関に近い性格を持っていた[2]。
その成立には航空局のと、儀典室のが深く関わったとされる。両者は「国際線を飛ばすには、まず国際的に見える制服が必要である」と主張し、春の省庁協議で、機体塗装・機内英訳・到着地での握手の角度までを含む運航要綱をまとめたという。なお、この要綱はのちに「空港外交六法」と俗称され、現場ではかなり嫌われたとの指摘がある[3]。
設立の背景[編集]
末の周辺では、複数の小規模な国際便調整会社が乱立し、同じ行きの便が三つの名義で申請される事態が続いていた。これを解消するため、日本国際航空は「航空券の国際的体裁を整えるための統合名義」として創設されたとされる。
事業の特色[編集]
同社の特徴は、到着時刻の正確さよりも「到着したように見せる技術」を重視した点にある。機内アナウンスには・・のほか、行先によってはの決まり文句が挿入され、これは外交官から好評であった一方、一般客には意味不明であった。
歴史[編集]
創設期[編集]
、・の旧別室で最初の設立会合が開かれたとされる。出席者は省庁職員、商社の空輸担当、そして旅客案内文の英訳監修を依頼された出身者ら計14名で、会議は12時間に及んだ。その末に、機体に国旗を描くかどうかで激論となり、最終的には「国旗は描くが、雨天時には見えにくいので二重に描く」という案が採用された[4]。
黄金期[編集]
の前後には、同社は年間約3,200便を運航し、そのうち約18%が「儀礼便」であったとされる。特に各国の代表団を乗せた「桜号」は、機内に畳敷きの一角と、温度管理された区画を備えていたため、外国要人の間で伝説化した。もっとも、この畳は実際には滑り止めのために敷かれたゴム床材だったともいわれる。
転換期と終焉[編集]
に入ると、国際線市場の自由化が進み、同社の「書類上の国際性」だけでは競争できなくなった。さらにの開港に際して、儀礼便の搭乗列が通常便の保安検査列と交差し、現場は数か月にわたり混乱したとされる。最終的に、日本国際航空は事業再編により消滅し、その資産の多くは複数の民間航空会社と外務省の記念保管庫に分割された。
機材と運航体制[編集]
日本国際航空の機材は、主として改修機との特別仕様で構成されていたとされる。特別仕様機では、座席番号の偶数列が「外交席」、奇数列が「一般席」とされ、外交席には読めない言語の新聞が常備された[5]。
運航体制はきわめて独特で、機長のほかに「儀典副機長」が同乗する場合があった。儀典副機長は航法には口を出さないが、入国カードの記入順序、到着時の拍手の開始位置、降機時の手荷物の持ち方を指示したという。なお、にはこの役職をめぐり、管制塔から「航空機は飛ぶが、儀式は飛ばない」との苦情が寄せられたとされる。
制服[編集]
制服はの外商部が監修したとされ、夏服には紫の縁取り、冬服には金糸の袖章が施された。とくに客室乗務員の帽子は「遠目にだけ信頼感が出る」よう設計されていたという。
路線網[編集]
路線は、、、、を中心に、需要が不明なままやへも設定された。これらは実際の搭乗率よりも、外交文書に記載した際の見栄えを優先していたとされる。
人物[編集]
同社に関わった人物として最も有名なのは、初代総裁のである。佐伯は出身の官僚で、航空行政に「詩心が必要である」と説いた珍しい人物として知られる。また、機内英語の監修を担ったは生まれの翻訳家で、搭乗案内を直訳しすぎて「非常口」を「Emergency Exit of Moral Responsibility」と訳した逸話が残る。
一方、現場では整備主任のが圧倒的な存在感を示した。高木はの工場で機体の振動を「茶筒の鳴り」に喩えて整備を判断したといい、これが後の「音響整備法」の原型になったともされる。なお、彼が記した整備日誌は現在もに保管されているが、ページの半数が湿気で波打っているため判読困難である。
客室乗務員の証言[編集]
1960年代後半に勤務した客室乗務員の回想録によれば、同社では乗客に配る飴が「航続距離に応じて味が変わる」と信じられていたという。実際には倉庫の都合で混在しただけである可能性が高いが、当時の利用者はそれを高級サービスと受け取った。
批判の中心人物[編集]
批判者としては、航空経済学者のが挙げられる。彼は日本国際航空を「空の上に役所を持ち込んだ組織」と評し、1974年の論文で、同社の書類作成時間が平均飛行時間の1.4倍であったと指摘した[6]。
社会的影響[編集]
日本国際航空は、単なる航空会社ではなく、日本の対外イメージそのものを形成する装置として機能したとされる。海外では、同社の到着便があると「日本の時間はきちんとしているが、書類はやや遅れる」という印象が広まり、これが後年のビジネスマナー本に影響したという。
また、同社の機内食は国際比較の対象となり、に供された「白味噌ポタージュ」と「冷やし羊羹のサンドイッチ」は、のちに一部の高級ホテルで復刻された。もっとも、旅客からの評価は割れ、特に後者については「食事というより交渉材料」と表現されたことがある。
批判と論争[編集]
同社には当初から、国際線運営の実効性よりも官僚的演出が優先されているとの批判があった。とりわけのでは、ある議員が「搭乗手続きに要する判子の数が多すぎる」と追及し、これに対して担当者は「判子の多さこそ国際信用の証左である」と答弁したとされる[7]。
一方で、機材整備の精度自体は高く、重大事故はほとんど報告されなかったとされる。ただしの行き便で、到着時に式典用の赤絨毯が滑走路の半分を覆い、着陸後の車輪が絨毯の端を巻き込んだ事件は、いまなお社内で「赤の一件」と呼ばれている。この件により、同社の式典担当は一時的に滑走路への布地持ち込みを禁じられた[8]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐々木博之『戦後日本の空路統合と儀典行政』霞ヶ関出版, 1987.
- ^ Margaret A. Thornton, "Ceremonial Aviation in East Asia", Journal of Comparative Transport Studies, Vol. 12, No. 3, pp. 144-171, 1991.
- ^ 長谷川リュシア『機内英語の成立と崩壊』国際空輸研究会, 1972.
- ^ 平尾俊文「空の官僚制と旅客体験」『交通政策研究』第8巻第2号, pp. 33-49, 1974.
- ^ 佐伯正一『空港外交六法草案』運輸省内部資料, 1957.
- ^ Akira M. Fujita, "The Double-Nation Mark on Aircraft Livery", Air History Quarterly, Vol. 4, No. 1, pp. 9-26, 1968.
- ^ 村上澄江『雲の上の接遇録』港南書房, 1994.
- ^ 山本和弘『儀式便の経済学』日本交通経済社, 2001.
- ^ 外務省儀典研究班「赤絨毯と滑走路摩擦の相関について」『外交施設年報』第19号, pp. 88-103, 1972.
- ^ Jonathan K. Reed, "Why Airports Needed Better Hats", Pacific Aviation Review, Vol. 7, No. 4, pp. 201-219, 1980.
外部リンク
- 国際空路史料アーカイブ
- 日本儀典航空研究所
- 昭和空港文化資料室
- 航空便名考証センター
- 東洋機内食博物誌