東亜国際航空
| 正式名称 | 東亜国際航空株式会社 |
|---|---|
| 英名 | Toa International Air Co., Ltd. |
| 略称 | TIA |
| 設立 | 1938年(再編: 1956年、1974年) |
| 本社所在地 | 東京都港区芝浦 |
| 拠点空港 | 羽田空港、成田空港、関西国際空港 |
| 運航路線 | アジア域内国際線、貨客混載線 |
| 主要機材 | T-21型、DC-9改、A310-800E |
| 社是 | 「航路は国境に先んず」 |
| 公式機関誌 | 『東亜航路月報』 |
東亜国際航空(とうあこくさいこうくう、英: Toa International Air)は、ので、主に・方面の国際線を運航する企業として知られている[1]。その起源は初期に方面の郵便輸送をめぐって生じた「空路の塩害問題」にあるとされ、後年の旅客航空網の整備にも大きな影響を与えたとされる[2]。
概要[編集]
東亜国際航空は、期の郵便飛行隊を母体として成立したとされる日本の航空会社である。設立当初は・・を結ぶ小規模な貨客混載路線を中心としていたが、のちにの前身にあたる内の「亜細亜航路調整班」と密接な関係を持つ企業として知られるようになった[3]。
同社は、単なる運輸業者というよりも、気象観測、郵便制度、外貨決済、さらには機内茶菓の規格化にまで関与した「準行政的航空組織」であったとする見方が有力である。また、客室乗務員の訓練にとを同時に取り入れたことで、後の国内大手各社の接客標準に影響を与えたとされる。
歴史[編集]
創業と塩害対策の時代[編集]
同社の起源は、にとの間で試験運航された「第七塩防便」に求められることが多い。この便では、貨物室に積まれた郵便袋の金属留め具が上空の塩分濃度で急速に腐食し、到着後に封緘印が自然に崩落する事故が続発したため、社内の化学係であったが蜜蝋と海苔粉を混ぜた防食塗料を考案したとされる[4]。
この対策は成功したが、塗料が独特の磯香を発したため、乗客から「機内で弁当が配られていないのに腹が鳴る」と苦情が出たという逸話が残る。なお、社史によれば、この時期に作成された飛行計画表の一部には、天候欄の代わりに潮の満ち引きが記載されていた。
再編と高度成長期[編集]
、同社はやに対抗する形で再編され、社名に「国際」を正式採用した。これは実際の国際線拡大を示すというより、当時の経営陣が「国際」と書くと税関職員の扱いが柔らかくなると誤信していたためであるという説がある[5]。
このころ、東亜国際航空は造成以前の暫定発着場として沿岸の干潟を整備し、干潮時にのみ滑走路が現れる「可逆式エプロン」を運用した。雨季には発着が3時間遅れることが常態化したが、逆に時間に余裕ができるとして、待合室で研究会や漢詩の朗読会が開かれたという。
国際線拡張と機内文化[編集]
に入ると、同社は・・・を結ぶ路線網を整備し、特に「夜間に出発し、翌朝には必ず言語感覚が半歩ずれる」と評された機内案内放送で注目された。これは乗客の時差順応を促すために、アナウンスをあえてとの間で揺らす実験であったとされる[6]。
また、機内食においてはが「東亜式ハーフポーション」として独自進化し、米飯の上に薄いソース層を重ね、その上に福神漬けではなく干し梅を置く方式が採用された。社内文書ではこれを「味覚の国際通貨化」と称していたが、実際にはスプーンの洗浄回数を減らすための苦肉の策であったと指摘されている。
機材と運航思想[編集]
東亜国際航空の機材選定は、単純な航続距離よりも「空港周辺で部品が調達できるか」を重視した点に特徴がある。たとえばは、胴体パネルの一部が内の船舶板金業者でも修理可能な規格で設計され、結果として「航空機なのに漁港で整備できる」と評された[7]。
同社の運航思想の中心には、「遅延をなくすのではなく、遅延を社会に溶け込ませる」という独特の発想があった。これに基づき、搭乗口には常に新聞売店と公衆電話が置かれ、欠航時には地元商店街の抽選券が自動配布された。利用者調査では、実際の定時到着率よりも「待ち時間の納得率」が高かったとされ、後年のサービス工学の先駆例として引用されている。
社会的影響[編集]
東亜国際航空は、戦後アジアにおける人的移動の加速に寄与しただけでなく、空港周辺の食文化や方言分布にも影響を与えたとされる。特に開港後には、同社の乗員が持ち込んだ独自の業務用語がターミナル内で流行し、「タラップを下げる」を「舞台を出す」と呼ぶ慣習が一部の清掃委託会社にまで広がった[8]。
一方で、社内で制定された「機内茶菓三原則」——熱さ、軽さ、匂いの残留時間——は、後にの菓子試験基準にまで影響したとする説がある。もっとも、この点については当時の会議録が一部しか残っておらず、研究者の間では要出典とされることが多い。
批判と論争[編集]
同社に対する批判として最も有名なのは、の「缶詰座席事件」である。これは、冬季の北路線において保温のために座席下へ温水缶を配置したところ、客室内の湿度が急上昇し、客が座るたびに微弱な蒸気が発生したというものである。会社側は「空飛ぶ温泉として快適性を高めた」と説明したが、労働組合は「乗員の制服が半日で煮えてしまう」と反発した。
また、後半には、国際線で配布された機内時刻表にの都市名が誤ってすべて野菜名で印刷されていたことから、外交儀礼上の軽視ではないかとの抗議が出た。これについて同社は、翻訳担当者が「ダバオ」を「ダイコン」と聞き違えたためであり、意図的なものではないとしているが、当該版の時刻表は現在でも収集家の間で高値で取引されている。
歴代の社内改革[編集]
礼法改革[編集]
に実施された礼法改革では、客室乗務員の会釈角度をからへ変更するという微細な改定が行われた。改定理由は「外国人旅客に対し、過度に日本的でも過度に簡略でもない印象を与えるため」と説明されたが、実際には制服の襟がその角度で最も皺になりにくかったためだとされる。
時刻表改革[編集]
の時刻表改革では、到着予定時刻のほかに「到着気分時刻」を併記する方式が試験導入された。これは乗客の体感を可視化する目的であったが、利用者アンケートでは「遅れたが気分は早かった」といった自由記述が増え、統計処理が困難になったため、翌年には廃止された。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『空路塩害論序説』東亜航空資料出版, 1941, pp. 17-43.
- ^ 佐伯みどり『戦後アジア航路の再編』港湾経済研究社, 1962, pp. 88-119.
- ^ H. K. Morrison, "Standardization of In-Flight Etiquette in East Asian Carriers," Journal of Comparative Aviation, Vol. 14, No. 2, 1978, pp. 201-229.
- ^ 東亜国際航空社史編纂室『東亜国際航空五十年史』東亜国際航空, 1989, pp. 5-312.
- ^ 小川俊介『空港と方言の社会史』新潮学術選書, 1994, pp. 74-101.
- ^ Margaret A. Thornton, "Salinity Resistance in Early Postal Aircraft," Aeronautical History Review, Vol. 9, No. 4, 2001, pp. 55-79.
- ^ 高山和夫『可逆式エプロンの設計思想』土木航法出版社, 2008, pp. 33-66.
- ^ E. P. Lin, "Tea, Curry, and the Politics of Cabin Service," Asian Transport Quarterly, Vol. 21, No. 1, 2013, pp. 12-38.
- ^ 藤井綾子『機内時刻表の文化人類学』みすず空港文庫, 2016, pp. 141-167.
- ^ Jonathan Reed, "The Unscheduled Nation: Delay Management in Japanese International Carriers," Pacific Mobility Studies, Vol. 7, No. 3, 2020, pp. 90-118.
外部リンク
- 東亜国際航空資料アーカイブ
- 東亜航路月報デジタル版
- 東亜航空史研究会
- 機内文化保存協会
- アジア貨客混載研究センター