日本戦後鎖国
| 名称 | 日本戦後鎖国 |
|---|---|
| 別名 | 戦後準鎖国、通関的内向き政策 |
| 提唱時期 | 1947年頃 |
| 主導機関 | 大蔵省臨時対外整理室 |
| 関連人物 | 細川義一、山際ミツ、ロバート・E・ハンフォード |
| 主な対象 | 輸入品、留学生、海外通信、民間航空 |
| 運用期間 | 1947年 - 1961年 |
| 象徴的文書 | 対外流入整理覚書 |
| 批判 | 非効率、情報閉鎖、紙不足の恒常化 |
日本戦後鎖国(にほんせんごさこく)とは、後のにおいて、対外的な接触を法的に断絶するのではなく、輸入・通信・学術交流を多数の許認可と儀礼によって実質的に遅延させたとされる政策群である[1]。ごろからにかけて制度化されたとされ、通商官僚のあいだでは「開いているが入らない国」とも呼ばれた[2]。
概要[編集]
日本戦後鎖国は、から初期にかけて、対外開放を掲げながらも実務上は厳格な窓口制を敷いた政策体系として説明されることが多い。制度上は、、の三者が協議していたが、実際には港湾の検印業務や翻訳待ちの滞留が政策の中核をなしていたとされる。
この概念は、戦後の物資不足と「何でも入れれば良いわけではない」という官僚的恐怖が結びついて生まれたとされる。結果として、日本は船も電信も飛行機も存在するのに、書類の形式だけが後期より複雑であった、という半ば伝説化した状況を作り出したとされる。
成立の経緯[編集]
対外流入整理覚書[編集]
起源は3月に内で配布されたとされる『対外流入整理覚書』にある。起草したのは主税局出身の細川義一で、彼は輸入品を「価格の問題ではなく、未整理のまま社会に入る速度の問題」と捉えたという。覚書では、砂糖・煙草・オレンジ・米国雑誌を「感情物資」と分類し、月単位の割当ではなく「気分単位」の配給を導入する案まで記されていた[3]。
通関三重窓口[編集]
とでは、1948年から通関申請が三つの窓口を経由しなければならなかったとされる。第一窓口は品目確認、第二窓口は為替照合、第三窓口は「国内の空気との整合性」の判断であり、最後の窓口だけで平均14.7日を要したという。なお、港湾労務者のあいだでは、この制度は「紙の関所」と呼ばれたが、当局は正式には否定していた[4]。
民間通信の遅延[編集]
関係者によれば、海外への私信は封緘後すぐ発送されるのではなく、いったんの「情勢確認室」に集められたという。ここでは英字新聞の切り抜き、広告、個人の同窓会便りまで一括で仕分けされ、海外からの手紙に添付された写真のうち、人物が二人以上写っているものは「家族構成の安定に関わる情報」として再審査されたと伝えられる。
制度の運用[編集]
輸入許可の階層化[編集]
日本戦後鎖国の実務上もっとも有名なのは、輸入許可がAからDまでの四階層に分かれていた点である。Aは医薬品、Bは工業原料、Cは娯楽的嗜好品、Dは「国産で代替しうるが、代替すると味気ないもの」とされ、D区分には当時のチョコレート、カラーフィルム、真空管ラジオ用の一部部品が含まれた。特に真空管ラジオは、国内で製造できるにもかかわらず、海外仕様の箱が「国民心理に与える開放感が強すぎる」として数か月保留されたとされる。
学術交流の慎重化[編集]
、をはじめとする主要大学では、海外研究者の招聘に際し、研究内容だけでなく履歴書の紙質まで審査した事例が残るとされる。米国人研究者ロバート・E・ハンフォードはに来日したが、講演題目が「分子構造の対称性」であったにもかかわらず、通訳の手配が遅れ、実際の講演は八日後に行われた。彼の日記には「日本ではアイデアが国境に引っかかる」とあるという[5]。
地方港の独自解釈[編集]
やでは、中央官庁の指示が曖昧であったため、地方独自の解釈が発達した。門司ではアメリカ製の缶詰を「見本」として陳列し、実際の販売を翌月に回す慣行が生まれた一方、新潟ではソ連製の毛布を「寒冷地研究用資材」として扱うことで、半ば学術用途として流通させた。結果として、港によって同じ商品でも到着後の扱いが違うという、きわめて日本的な非対称性が形成された。
社会への影響[編集]
この政策は、経済面では輸入品不足を慢性化させたが、同時に国内代替品の異常な発達を促した。たとえば国産コーヒー代用品、和製ナイロン、そして「輸入雑誌の見出しだけを模写した週刊紙」が相次いで生まれたとされる。
また、海外情報の流入が遅れたことで、都市部の若者のあいだでは「本物を待つより、国内でそれらしいものを作る方が速い」という気風が強まった。これが後の末の模倣工業ブームにつながったという説がある。一方で、地方の商店街では輸入菓子を一個ずつ戸棚に飾る「展示販売」が流行し、商品が売れる前に湿気で価値を失うという本末転倒も頻発した。
批判と論争[編集]
当初からこの制度には、閉鎖性を批判する声があった。紙面では、に「海は開いているのに書類が閉じている」とする社説が掲載されたとされる[6]。これに対し、当局は「段階的開放であり鎖国ではない」と説明したが、実務担当者の間ではむしろ「鎖国ではなく、海上の順番待ちである」と自嘲的に語られた。
なお、の一部統計班が、輸入遅延が消費者物価の安定に寄与したとする未公開メモを作成したとの指摘もあるが、これは要出典とされることが多い。いずれにせよ、批判の中心は政策そのものより、関連する決裁文書が異様に厚く、しかも綴じ順が港ごとに異なっていた点にあった。
終焉と再評価[編集]
1960年前後の緩和[編集]
以降、貿易自由化の圧力と国際会議への参加増加により、日本戦後鎖国は徐々に緩和された。とりわけ内閣期には、輸入許可の階層が整理され、港湾の三重窓口は二重窓口へ縮小されたという。ただし、書類の朱印だけは慣例として残り、1970年代に入っても一部庁舎では「戦後様式の押印文化」として保存されていた。
後年の再評価[編集]
1990年代以降、この制度は「非効率な閉鎖」ではなく「戦後社会における慎重な接続技術」として再評価されるようになった。文化史の分野では、外来文化の到来を遅らせることで逆に国内独自の解釈を肥大化させた点が注目され、経済史では港湾事務の肥大が文書行政の発展を促したとする説もある。もっとも、に残る資料の一部は、湿気で判読不能であり、研究は今なお断片的である。
脚注[編集]
[1] 日本戦後鎖国は、政策名としては一部の回想録でしか確認できないとされる。 [2] 1950年代の官庁用語集に「準鎖国」が掲載されていたという。 [3] 細川義一『対外流入整理と戦後秩序』大蔵省内部資料, 1947年. [4] 横浜港務協会『港湾通関制度史料集』第3巻第2号, pp. 41-88. [5] Robert E. Hanford, *Delay in Motion: Notes from Japan*, Princeton Maritime Press, 1954, pp. 112-115. [6] 「海は開いているのに書類が閉じている」『朝日新聞』1954年8月17日付夕刊とされるが、現物確認は未了である。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 細川義一『対外流入整理と戦後秩序』大蔵省内部資料, 1947年.
- ^ 山際ミツ『通関官庁の成立と港湾慣行』日本港湾研究会, 1958年.
- ^ 佐伯隆一『戦後日本における準鎖国政策の研究』中央経済社, 1962年.
- ^ 横浜港務協会『港湾通関制度史料集』第3巻第2号, pp. 41-88, 1961年.
- ^ Robert E. Hanford, Delay in Motion: Notes from Japan, Princeton Maritime Press, Vol. 2, 1954, pp. 112-115.
- ^ Margaret L. Pritchard, Closed Gates, Open Harbors: Japan's Administrative Postwar, University of Chicago Press, 1973, pp. 203-227.
- ^ 高瀬一彦『輸入許可の階層化と消費社会』東京経済評論, 第11巻第4号, pp. 9-36, 1984年.
- ^ 田村久代『紙の関所とその周辺』港湾行政史研究, 第7巻第1号, pp. 1-22, 1991年.
- ^ 渡辺精一郎『戦後国家と流入統制の技術』有斐閣, 2002年.
- ^ Eleanor J. Whitcomb, The Bureaucracy of Waiting: Japanese Trade Delay, Cambridge Harbor Studies, Vol. 8, 1998, pp. 55-79.
- ^ 藤堂栄『海は開いているのに書類が閉じている――昭和通関史の一断面』霞関書房, 2010年.
外部リンク
- 国立架空史料館デジタルアーカイブ
- 戦後行政慣行研究フォーラム
- 港湾三重窓口保存会
- 準鎖国政策史料室
- 日本流入統制史学会