日本資本党
| 正式名称 | 日本資本党 |
|---|---|
| 略称 | 資本党 |
| 英語名称 | Japan Capital Party |
| 成立 | 1898年頃 |
| 解散 | 1932年 |
| 本部所在地 | 大阪府大阪市北区中之島 |
| 機関紙 | 『資本時報』 |
| 党首公選 | 原則として年1回 |
| 主要思想 | 資本循環主義・配当国民主義 |
| 象徴色 | 濃紺と金 |
日本資本党(にほんしほんとう、英: Japan Capital Party)は、ので誕生したとされる、資本の流動性を政治参加の単位として再編することを目的とした日本の政党である。企業・銀行・地主の三者均衡を理念に掲げた点で知られる[1]。
概要[編集]
日本資本党は、後期から初期にかけて活動したとされる政党である。普通選挙の拡大以前に、株券・手形・倉荷証券を「準有権証憑」と見なし、経済的寄与に応じて政治参加の階層を定めた独特の制度で知られている。
党員はの証券仲買人、の銀行家、の織物商、さらにはの製糖業者など、地域の資本保有者を中心に構成されたとされる。また、入党時には会費の代わりに「流動資産残高証明」を提出させる慣例があり、当時の官僚からは「政治団体というより信用調査機関に近い」と評されたという。
一方で、地方の中小商人や農村部の有力者を吸収する柔軟性も持っており、地方支部では米俵、蚕種、木炭などの現物を評価単位に換算した「地域準資本票」が用いられた。これが後の周辺の一部研究者によって「地域信用の民主化実験」と呼ばれたとされる[2]。
歴史[編集]
創設[編集]
党の創設は、の堂島米会所跡近くにあった小会議室で行われたとされる。中心人物は実業家の、新聞人の、それに出身の会計学者であり、三者は「資本の総量ではなく回転速度を政治に反映させるべきである」とする覚書を起草した。
党名の「資本」は当時の金融資本に限らず、船舶、在庫、労働者の技能証書まで含む広義の概念として使われた。なお、創設総会では議事録が8時間に及び、途中でから届いた生鮮果物の仕分けが優先され、これが党規約第14条「議事より鮮度を尊ぶ」の由来になったとされる。
拡大と制度化[編集]
の日露戦争期には、軍需景気の波に乗って党勢が急拡大した。とくにの機械工業、の港湾金融、の倉庫業者の支持が厚く、同年の内部調査では「党員数12,480名、準党員31,902名、名誉担保人4,113名」と報告されている。
党はこの時期、「一票一人」ではなく「一票一信用単位」を原則とする選挙方式を提唱した。これはとの交渉材料として利用され、実際には採用されなかったが、党内では模擬投票が毎月実施され、投票用紙に金額欄と満期欄が印刷されていた。こうした制度は一部の会計士から支持を受けた一方、労働組合側からは強い反発を受けた。
衰退[編集]
後半になると、都市金融の集中化と地方支部の分裂により、党は急速に求心力を失った。特にの金融恐慌では、党本部の金庫から予備印鑑が三つ行方不明になり、これが「象徴的破綻」として党史に記録されている。
さらに初期の政界再編の中で、党内の保守派はとの連携を志向し、改革派は「無配当自治連盟」への接近を模索した。最終的に、第19回臨時大会で自然解党が決議され、残余資産はの倉庫との一部酒造組合に分配されたとされる。
理念[編集]
日本資本党の理念は「資本の自由な移動こそ国家の安定である」とするに要約される。これは、土地や戸籍ではなく、可視化された資産の流れをもって国民の参加資格を測るべきだという思想であり、党綱領では「沈滞する富は政治的沈黙に等しい」とまで宣言している。
また、同党は労働を敵視したわけではなく、むしろ職能資格や勤続年数を資本化することで、熟練工を準出資者として遇した。党内理論誌『資本時報』には、の西陣織職人が保有する織機稼働履歴を「無形資本」として評価した論考が掲載され、当時としては異例の注目を集めたという[3]。
ただし、理念の実装は一貫しておらず、ある時期の党大会では「資本の民主化」と「資本家の統治権保護」が同じ決議文に併記され、編集者からは「一読して何を守りたいのか不明」と注記された記録が残る。
組織と運営[編集]
党組織は、中央常任評議会、地方信用局、産業別分科会の三層構造を取っていた。中央常任評議会はの霞が関ではなくの中之島に置かれ、会議室には当日の相場表が必ず掲示された。相場表の更新は秘書ではなく簿記係が担当し、誤記があると議長が鐘を鳴らして訂正を求めたとされる。
資金源は党費よりも寄付金、特に「準寄付」と呼ばれる無利子短期貸付が中心であった。これにより党は、表向きは政治団体でありながら、実態としては小規模な信用組合に近い運営をしていた。党員証には会員番号のほか、担保評価額、回収見込み月、そして稀に「心理的信用」が記載されていたという。
なお、地方支部の中には独自に「配当祭」を開催するものもあった。これは年に一度、配当金の出た事業体を神輿に見立てて町内を練り歩く行事で、の一部港町では1960年代まで断片的に続いたとする証言があるが、確認は難しい[4]。
社会的影響[編集]
日本資本党は、議会政治における金権主義の先駆けとして批判される一方、地方金融の可視化を促した功績があると評価されることもある。党が広めた「資本台帳」という概念は、後の企業合併審査や商工名鑑の記載様式に影響したとされ、の一部文書には党式の評価欄が模倣された痕跡が残る。
また、党の演説会は実務家向けの情報交換会として機能し、港湾税、倉庫保険、為替手形の遅延など、具体的な経済問題が政治討議の俎上に載せられる契機となった。とくにの船場では、党員が共同で紙幣ではなく「約束書」による決済を普及させたため、地域の商慣行が一時的に高度化したという。
一方で、富の保有量に応じて党内発言権を変える仕組みは、貧困層の排除を制度化したとして激しく批判された。大衆紙『晨報』は同党を「金庫に選挙権を与える政治」と書き、労働者団体は街頭で金庫に黒布をかける抗議行動を行ったとされる。
批判と論争[編集]
日本資本党をめぐる最大の論争は、党の実態が「政党」だったのか「利益調整機構」だったのかという点にある。党史研究の一部では、党大会の議事録が欠落している年が多く、都合の悪い採決は帳簿に吸収された可能性が指摘されている。
また、の党首選では、得票が同数になったため、最終的に所有株数ではなく「机の引き出し数」で決着したとする逸話が残る。これが事実であれば極めて特異であるが、当事者の証言は互いに矛盾しており、現在でも要出典とされる箇所の代表例である。
さらに、党が推進した準有権証憑制度は、戸籍や納税とは別の軸で政治参加を認める点で革新的だったが、その一方で、名義貸しや架空担保の横行を招いた。とりわけのある支部では、猫に担保評価を付した事例まで報告されたが、党本部はこれを「地域慣習の逸脱」として処理したという。
評価[編集]
現代の研究者の間では、日本資本党は近代日本における「経済代表制」の極端な実験として位置づけられている。政治学者は、同党が普通選挙制度の外部で、資本を媒介とする代議制を先取りしたと見る一方、経済史家は、地方信用の統合を試みた現場感覚に注目している。
のある研究グループは、党の地方支部文書をもとに、当時の商人がどの程度まで政治を信用スコアで理解していたかを分析した。その結果、党員の約37.4%が「政治は配当である」と回答したとされ、残る大半も「少なくとも赤字では困る」と答えたという[5]。
このように日本資本党は、制度としては短命であったが、政治・金融・地域経済の境界を曖昧にした思想実験として、今なお奇妙な関心を集めている。なお、党旗の金色の縁取りが、実際には経費削減のために金箔ではなく麦芽粉で代用されていたという話もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『資本と票のあいだ』中之島出版、1906年.
- ^ 三枝宗一『配当国民論序説』日本経済評論社、1911年.
- ^ 久保田玄蔵『資本時報論集 第3巻』資本時報社、1914年.
- ^ Margaret A. Thornton, “Dividend Suffrage and Meiji Electoral Experiments,” Journal of Asian Political Economy, Vol. 12, No. 2, 1987.
- ^ 青木三郎『近代大阪の準信用制度』大阪地方史研究会、1929年.
- ^ Hiroshi Kanda, “The Capital Party and the Politics of Collateral,” The Kobe Review of History, Vol. 8, No. 1, 1994.
- ^ 高橋義明『商人政治の誕生と終焉』東洋史料館、1958年.
- ^ Elizabeth R. Morrow, “From Merchant Seats to Balance Sheets,” Transactions of the Pacific Historical Society, Vol. 41, No. 4, 2003.
- ^ 『日本資本党党規約集』大阪近代政治資料刊行会、1933年.
- ^ 藤本栄一『金庫に選挙権を与える政治』晨報社、1910年.
- ^ 佐伯忠雄『資本党地方支部史 兵庫篇』神戸港文庫、1967年.
外部リンク
- 中之島近代政党アーカイブ
- 資本党資料デジタル庫
- 堂島経済史研究センター
- 大阪信用政治博物館
- 近代準資本制度研究会