資本共産主義
| 成立の契機 | 度量衡統一と保険制度の発達、及び商人共同体の分配規約 |
|---|---|
| 主な舞台 | イベリア半島の海運都市、レヴァント交易圏、北アフリカ沿岸 |
| 中心概念 | 資本の「公共口座化」と生産物の「共同配当化」 |
| 代表的な規約書 | 港湾分配規約『青錨令』、『口座寄進帳』 |
| 用語の初出 | 1469年頃の私家写本『合議商法断簡』 |
| 影響を受けた分野 | 都市法、保険会計、救貧制度、協同組合的会計 |
資本共産主義(しほんきょうさんしゅぎ)は、資本の運用と共同体的な分配を同時に成立させようとする政治思想である[1]。史料上は中世末の商人ギルド改革構想に端を発し、近世の港湾都市を経て現代に「運用原理」として再解釈されたとされる[2]。
概要[編集]
資本共産主義は、資本を「個人の利殖」から切り離し、共同体が管理する会計制度に組み込みながら、成果物を構成員へ配当する考え方として説明されることが多い。とくに港湾都市で発展した商人共同体の議事録には、投資額・労働配分・保険料の比率を細分化し、分配を自動化する試みが記録されている。
本思想の歴史は、単なる理念というより「運用ルールの発明史」として整理される。ここでは、資本を集める装置としての公共口座と、共同体が成果を配るための配当規約が対になって形成されたとする説が有力である。なお、同時代に似た制度が複数の地域で独立に成立したため、研究上は「資本共産主義的運用」の地域差が強調される傾向もある[3]。
古代〜中世末の淵源[編集]
商人の会計が“公共”になるまで[編集]
資本共産主義の淵源は、古代の王権徴税ではなく、船舶保険と度量衡の整備に求められることが多い。とくにアッバース朝の辺境航路で、沈没時に補填を行う“航海相互扶助”が早期に行われたとされる。そこでは、損失の見積りが「積荷の目方(1船=37.5俵)」のように標準化され、保険料が会計帳簿に固定されたという。
もっとも、これが思想としてまとまるには、商人ギルドの合議が必要だったとされる。15世紀半ば、イベリア半島の海運都市において、ギルドが保険料と投資額を統合して扱う“口座寄進”の仕組みを導入したことが契機になったと推定されている。口座寄進では、出資者が得る利回りを個別請求せず、一定割合を「救貧配当基金(年度配当率12/1000)」として留保することが規約化された[4]。
用語の発生と写本文化[編集]
「資本共産主義」という語がいつ成立したかについては、写本史から復元が試みられている。代表的には、1469年頃に作成された私家写本『合議商法断簡』が、のちの研究で「資本の共同管理」と「配当の共同実行」を結びつける語法を含むとして注目された[5]。
ただし当該写本の現存は限定的であり、同名の系統写本が年代をずらして伝わっているとの指摘がある。ある研究者は、言葉よりも運用の方が先にでき、言葉は後から整えられたとする説を唱えた。実際、同時代の港湾裁判記録には、「個人口座の拒否」「共同配当の優先」の判決文が断片的に現れるとされるが、そこに語としての統一が見られるわけではないという[6]。
近世:港湾都市での制度化[編集]
『青錨令』と“配当の自動化”[編集]
資本共産主義的運用が制度として形を取ったのは、近世初頭の港湾都市であったと説明される。とくに、ジェノヴァ風の海運慣行を取り入れたとされる架空の都市法『青錨令』が、規約書の代表として扱われることが多い。『青錨令』では、投資を「航海資本」「港湾整備資本」「備蓄資本」の3種類に分類し、配当も同じ3区分で並行して算出する仕組みが定められたとされる。
ここで重要なのが、配当計算の“自動化”である。たとえば、飢饉が起きた年には「備蓄資本の配当を増やす」だけでなく、出資者が引き出せる現金の上限を「当年総配当の65%」に制限し、残りは翌年の救貧帳に繰り越すとされたという。なお、これらの比率は後世の再編集で整えられた可能性があり、「数字のきれいさ」が論争点になると指摘されている[7]。
レヴァント交易圏での“相互承認”[編集]
『青錨令』が単独で完結したわけではなく、交易圏をまたぐ相互承認へと発展したとされる。具体的には、エーゲ海沿岸の会計事務所どうしが、互いの帳簿監査人の資格を認める“監査札”を発行し合ったという伝承がある。監査札の発行枚数は「年間2,416枚」と記録される資料が紹介されており、研究者はこの数字が当時の紙管理の現実と整合するかを検討した[8]。
また、一部の都市では、共同配当をめぐって「労働分をどう測るか」が争点になったとされる。港湾労働を“日”で数えるのか、“積荷の検品回数”で数えるのかが定まらず、結果として労働者側の反発が起きたと述べられる。これに対し、規約は「検品1回=半日相当」と換算する妥協案へと落ち着いた、とする説明がある[9]。
近代:国家ではなく“組合”が担った[編集]
19世紀に入ると、資本共産主義は国家のスローガンとしてではなく、むしろ組合の運営原理として再定義されたとされる。背景には、工業化により投資の規模が急増し、個人の裁量で会計を回すことが危険になった事情があると説明される。そこで、共同体が監督する口座に資金を集め、配当を“議決”に結びつけることで不正を抑える設計が採られた。
この再定義に関与したとされるのが、架空の官庁ではなく、都市の救貧監督局である。たとえば「救貧監督局補助会計(救補会計)」が、出資配当のうち一定比率を救貧施設へ振り替える制度を作ったと記録される[10]。一方で、この振替が強すぎると出資者が離れるため、救補会計の上限を巡って激しい議論が起きたという。そこでは「上限を70%にすると半年で出資が半減する」などの具体的試算が引用されるが、試算の根拠資料は失われているとされ、「要出典」とされることもある[11]。
現代への継承と再解釈[編集]
20世紀以降、資本共産主義は歴史的制度の記憶として扱われつつ、会計学・社会政策の比喩として再解釈された。とくに、現代の「公共口座」「共同配当」に相当する概念を、思想史の観点から体系化する試みがあるとされる。
また、データ中心の議論では、配当比率が一種の“制御パラメータ”として語られる。ある研究では、口座管理を導入した共同体で、債務不履行が「平均で年間0.42件(観測期間7年)」に抑えられた、とされる。ただし、この数値は比較対象の選び方に依存するため、再現性に疑問が呈されたともいう[12]。このように、資本共産主義は思想というより、制度設計のモデルとして参照され続けている。
批判と論争[編集]
資本共産主義は、理想的に聞こえる一方で、運用の透明性が不足すると途端に“管理の正当化”へ転化する危険があると批判された。特に、共同口座の監査人が実質的に強い権限を持つ場合、出資者と労働者の利害が一致しなくなる可能性があるという指摘がある。
また、語の起源をめぐる論争も続いた。写本断簡の年代を正しく読むかどうかで、成立時期が「15世紀後半に限定される」説と「さらに遡る」説に分かれるとされる。さらに、配当比率の数字があまりにも整っているため、後世の編集による“数字の美化”が疑われたという[13]。
そのほか、反対派は「共同配当は勤労意欲を壊す」と主張したとされるが、他方で賛成派は「勤労意欲は配当ではなく規約の予見可能性によって維持される」と反論したとされる。ここでも結論は一つではなく、地域ごとの運用差が強調されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ エリアス・カルヴァン『青錨令の成立過程:港湾都市法の会計史』海事出版, 1978.
- ^ マルタ・ベネディクト『監査札制度の比較研究:レヴァント交易圏における合議機構』Journal of Maritime Governance, Vol.12 No.3, pp.41-73, 1994.
- ^ ガブリエル・レオナード『合議商法断簡の書誌学:1469年問題』Historica Codicum, 第5巻第2号, pp.101-129, 2002.
- ^ 渡辺精一郎『救貧と会計:救補会計の近代的再編』東方学芸叢書, 1882.
- ^ レイチェル・ハリス『Capitalized Commons: A Fictional Genealogy of Capital Communism』Economic History Review, Vol.58 No.1, pp.210-255, 2011.
- ^ サリム・アル=ハッターブ『度量衡標準と保険料算定(仮題)』Institute of Ledger Studies, pp.1-44, 2016.
- ^ 山田綾香『共同口座と配当の制御パラメータ』社会政策史研究, 第21巻第4号, pp.55-92, 2020.
- ^ C. M. van Dorp『Ports, Probability, and Public Accounts』Comparative Urban Systems, Vol.9, pp.88-119, 1986.
- ^ 佐藤元也『資本共産主義の誤読:写本・編集・数字』近世史論叢, 第33巻第1号, pp.1-26, 1999.
- ^ ノーラ・フレイザー『Public Account Experiments in the Early Modern Era(要旨版)』Cambridge Ledger Studies, pp.140-161, 2007.
外部リンク
- 港湾会計アーカイブ
- 写本断簡データベース
- 救貧監督局の史料室
- 監査札研究ネットワーク
- 青錨令翻刻ギャラリー