日本領新嘉坡
| 正式名称 | 日本領新嘉坡 |
|---|---|
| 通称 | 新嘉坡特別区、南方第一港 |
| 設置年 | 1934年 |
| 廃止年 | 1947年 |
| 所在地 | マレー半島南端部 |
| 行政主体 | 南洋拓殖院 新嘉坡局 |
| 主要言語 | 日本語、英語、福建語、マレー語 |
| 面積 | 約61.4 km2 |
| 人口 | 推計18万2000人(1942年時点) |
日本領新嘉坡(にほんりょうしんかぽー)は、におけるの委任統治的な都市区画として構想された、港湾・通商・宣伝行政を一体化した特殊領域である。一般には初期の海軍官僚と在外商社の折衝から生まれたとされ、のちに「熱帯の試験都市」と呼ばれた[1]。
概要[編集]
日本領新嘉坡は、島の北部から港湾中枢にかけて設けられたとされる、日本の海外統治モデルである。名目上は軍政ではなく「準自治港区」とされていたが、実際には、、が三重に関与し、文書上の権限がしばしば食い違っていた[2]。
この制度は、・で蓄積された港湾管理技術と、当時流行した都市計画思想を熱帯環境に転写する試みであったと説明されることが多い。ただし、資料によっては「本来は珈琲税の徴収効率化のために設計された」とする異説もあり、成立経緯にはなお不明な点が多い[3]。
成立の経緯[編集]
南方港湾会議[編集]
起源は秋、・麹町の仮設会議室で開かれた「南方港湾会議」に求められるとされる。ここで海軍の大佐と、商社側のが、英領港湾の倉庫制度を模倣しつつ日本語公文書を優先する案を提示した。会議録には、なぜかヤシ油の腐敗速度を基準に税率を決めるメモが残っており、後年の研究者を困惑させている。
翌には内に「新嘉坡調査班」が設けられ、やから派遣された実務官が加わった。彼らは港の倉庫、路面電車、排水溝まで一括で管理する案を作成し、これがのちの「港市一体方式」の原型になったとされる。
特別区令の公布[編集]
3月17日、とされる文書によって日本領新嘉坡特別区が公布された[要出典]。ただし、この勅令番号は同年の内地法令と連番が衝突しており、実際には秘匿会計の整理票ではないかという指摘もある。
公布直後、周辺に行政庁舎が設けられ、表札だけがで統一された。現地紙『Nanyang Gazette』はこれを「字面だけは近代的な占領」と評し、逆に日本語の掲示が増えるほど英語の商談が速くなったと報じたという。
港区と宣伝区の分離[編集]
制度上の特徴は、港湾機能を扱う「港区」と、映画・放送・博覧会を担当する「宣伝区」が同居していた点である。港区では関税と荷役が厳密に管理され、宣伝区ではの前身放送技術を応用した街頭ラジオが導入された。
とくに宣伝区が有名になったのは、毎週金曜に行われた「熱帯音頭」の公開放送である。これは倉庫の騒音を下げるための実務上の策だったが、いつの間にか都市の象徴行事として定着し、1940年には観覧者が一晩で4万7000人に達したとされる。
行政と制度[編集]
日本領新嘉坡の行政は、、、の三職が実権を分け合う奇妙な構造であった。局長官は出身者が務めることが多かったが、港務監督官は民間航運会社からの出向者が多く、宣伝監査官に至っては新聞記者上がりの人物が抜擢された例が複数確認されている。
納税制度は「貨物」「香辛料」「屋台」「日没後の照明」に分かれていたとされ、特に照明税は街灯の色温度で税額が変わるという不可解な仕組みであった。もっとも、以降は自治会の申告により多くが定額化され、制度は急速に簡略化された。
社会と文化[編集]
多言語都市としての生活[編集]
住民は日本語、英語、福建語、マレー語を状況に応じて切り替えたとされるが、実際には市場では三語混成の俗語「新嘉坡弁」が広く使われた。たとえば『今日は払う、明日は書類』という意味の「バイニチ・ビラ書類」が流行し、書類仕事を先延ばしにする婉曲表現として頃の新聞広告にも見える。
学校教育では式の教科書が用いられた一方、夕方にはの生徒がラテン文字で帳簿を付ける講習に参加した。こうした折衷教育は、のちに港湾事務に強い人材を大量に生んだとされる。
食と衛生[編集]
食文化面では、カレーにパイナップルを大量に入れる「新嘉坡煮」が公的食堂の標準献立になった。これは高温多湿下で傷みやすい魚介類を隠すために考案されたという説と、単に調理主任のが南国果物を使いたがっただけという説が併存する。
衛生行政では、蚊の発生を抑えるために排水溝へ細かな砂利を敷く「砂利法」が採用されたが、なぜか砂利の粒径ごとに係数が付けられ、直径7ミリ未満の砂利は「情緒的に不適」として却下された記録が残る。
放送と娯楽[編集]
放送は都市統合の要であり、週二回の「新嘉坡時報」は日本語で港湾指令を、英語で広告を、福建語で野球結果を伝えた。1943年には、放送局が誤って海軍の暗号時刻表を流し、翌日港の全船が30分早く入出港した事件があったという。
娯楽面では、南洋博覧会の付属劇場で上演された『白檀の街』が人気を博した。主演のは二役を同時に演じる演出で知られ、終演後に観客が拍手しすぎて停電したという伝説がある。
経済[編集]
日本領新嘉坡の経済は、、、港湾荷役、そして再輸出品の再々包装で支えられていた。とりわけ再包装産業は発達し、輸入砂糖を一度木箱から紙袋に移し替えてから「現地調整済み」として出荷する商習慣が生まれた。
の港湾統計では、月間貨物量が平均92万トンと記録されているが、同じ資料の欄外には「雨季は数字が膨らむ」とあるため、集計担当者の筆がかなり荒かったことがうかがえる。なお、特別区内の銀行は、、現地華人系金融組合の三者で事実上の共同審査を行っていたとされる。
崩壊と戦後[編集]
空白都市化[編集]
の終戦直後、日本領新嘉坡は行政文書上「空白都市」と記され、局長官以下の命令系統が一時停止した。港湾の灯火管制が解除されると、停電に慣れた住民が逆にまぶしさを訴え、が夜間の遮光眼鏡を配布したという。
この時期に、倉庫の壁に残された配給札の痕跡が「最も美しい現代の壁面記録」として保存運動の対象になったが、結局は雨季の前に半分が剥落した。
復興委員会[編集]
にはが組織され、港区の再開と学校制度の整理が進められた。委員会は日本語掲示をすべて撤去せず、むしろ商店の看板に限って残す方針を取ったため、旧住民の間では「税は戻るが字は残る」と言われた。
、特別区制度は正式に廃止されたとされるが、港湾労務の手順だけはその後もしばらく使われ、書類上はまで「新嘉坡式」と呼ばれていた。
評価と影響[編集]
日本領新嘉坡は、都市管理の効率化と宣伝行政の融合を試みた先駆例として評価される一方、植民地支配と統制経済の装いを精緻に整えただけだと批判されることも多い。とくに、港湾を「物流」ではなく「物語」として扱った点は、のちの系シンクタンクや都市広告業界に影響を与えたとされる。
また、この制度は戦後の再編計画やのコンテナ導入議論において、たびたび参照された。もっとも、参照された理由の半分は実務性で、残り半分は「誰が見ても何かおかしいが、資料としては捨てがたい」ためであったという。
批判と論争[編集]
最大の論争は、そもそも日本領新嘉坡が実在したのかという点である。公文書館には関係書類が散在するが、海軍側の印章、商社側の台帳、現地新聞のヘッドラインが微妙に整合せず、同じ日に別の局長官名が三人出てくることすらある。
そのため、一部研究者はこれを「統治制度」ではなく、複数組織が同一港湾を別々の予算科目で呼んだ結果生まれた幻影的行政概念とみなしている。なお、の再調査で、ラッフルズ・ホテル旧館の床下から「新嘉坡局・休日割引表」が見つかったとする報告があるが、写真がモノクロで判読しにくいことから、決着はついていない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 高見沢忠彦『南方港湾行政試論』南洋経済評論社, 1935.
- ^ 西尾房吉『熱帯都市と倉庫税』東亜出版, 1936.
- ^ Margaret A. Thornton, "The Port-State Hybrid in Japanese Colonial Planning," Journal of Maritime Urban Studies, Vol. 12, No. 3, 1987, pp. 44-79.
- ^ 田宮善作『新嘉坡局の会計と照明税』港湾行政研究所, 1949.
- ^ Cheng, Lian-Ho, "Broadcasting the Harbor: Radio and Civic Discipline in Nippon-ling Shinkapoh," Southeast Asian Historical Quarterly, Vol. 8, No. 1, 1974, pp. 101-128.
- ^ 『新嘉坡復興委員会議事録』新嘉坡復興委員会事務局, 1946.
- ^ 佐伯康平『南洋宣伝区の成立』文化放送史叢書, 1962.
- ^ Ishibashi, Mina, "Pineapple Curry as Administrative Cuisine," Food and Empire Review, Vol. 5, No. 2, 1991, pp. 9-33.
- ^ 『日本領新嘉坡港湾統計年報 昭和十五年度』南洋拓殖院統計課, 1941.
- ^ 岡村義男『空白都市の戦後処理』みすず書房, 1978.
外部リンク
- 南洋港湾史アーカイブ
- 新嘉坡局デジタル文庫
- 熱帯行政資料館
- 東南アジア都市制度研究会
- 旧港湾宣伝映画資料センター