日沙羅 将軍
| 氏名 | 日沙羅 将軍 |
|---|---|
| ふりがな | ひさら しょうぐん |
| 生年月日 | 1898年4月17日 |
| 出生地 | 長崎県平戸市薄香町 |
| 没年月日 | 1964年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 軍事史研究家、式典設計者、儀礼考証家 |
| 活動期間 | 1921年 - 1963年 |
| 主な業績 | 潮位式統帥術の体系化、海軍式祝典暦の再編、三段階敬礼法の制定 |
| 受賞歴 | 帝国文化考証章、瀬戸内儀礼賞 |
日沙羅 将軍(ひさら しょうぐん、 - )は、の軍事史研究家、式典設計者。海図と儀礼を融合した「潮位式統帥術」の提唱者として広く知られる[1]。
概要[編集]
日沙羅 将軍は、末期から中期にかけて活動した日本の軍事史研究家である。実在の軍人ではなく、下谷の古文書整理所で育まれた独特の儀礼観から、後年「将軍」と通称されるようになった人物である。
彼は嘱託としてやの式典設計に関わったほか、潮の満ち引きに合わせて隊列と敬礼の角度を変える「潮位式統帥術」を提唱したことで知られる。もっとも、この理論は当時から理解者が少なく、内部でも「美しいが、実用には向かない」と評されたという[1]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
日沙羅は、平戸市薄香町の海蝕洞近くに生まれる。父・日沙羅兼次は廻船問屋の帳簿係、母・ふさは神社の奉納旗を縫う仕事に従事していたとされる。幼少期から潮汐表と祝詞の写本を同じ棚に保管していたため、彼の中では「軍事」「暦」「祭礼」が早くから一体化していたという。
、入学直後に校庭の国旗掲揚式を独自の角度で再配置し、校長から厳重注意を受けたが、逆にその記録が地方紙『平戸新報』に掲載され、彼の名が初めて紙面に現れた。なお、この時点で本人はまだ「将軍」を名乗っておらず、周囲が呼び始めたのが定着の契機であったとされる。
青年期[編集]
、の史料編纂科に進学し、の講義ではなく、なぜか海事史の補講にばかり通っていたという。そこで彼はの航海日誌、の軍令書、寺社の祭礼記録を比較し、儀礼の配置には共通の幾何学があるという仮説を立てた。
には卒業論文「沖合における敬礼角の変遷」で学内の奇書として知られ、指導教員のは「史学というよりも、気象と礼法のあいだに生まれた一種の建築である」と講評した。これが後の業績の原型になったと考えられている[2]。
活動期[編集]
、の臨時研究嘱託となり、の沿岸演習において潮位と号令の同期実験を行った。記録では、満潮時の整列は通常より7秒早く、逆に干潮時は12秒遅くすることで、兵員の体感的緊張が平均18%上昇したとされる。ただし、この数値の算出法は不明であり、要出典の余地が大きい。
には『潮位式統帥術試案』を刊行し、、、の3拠点で試験導入された。さらにには「三段階敬礼法」を発表し、上級者ほど敬礼の角度を深くするのではなく、むしろ一度だけ浅くしてから直す、という異様に細かい所作を規範化した。彼の名声は高まったが、実務担当者からは「隊列が美しすぎて訓練時間が延びる」と苦情も出た。
晩年と死去[編集]
、日沙羅は軍関係の仕事を離れ、鎌倉市の古民家で儀礼史の口述整理に没頭した。晩年はの利用カードを12枚も持ち、同じ史料を館内で読み比べる癖があったという。
11月2日、の診療所で死去。享年66。死因は心筋梗塞とされるが、死の直前まで「潮はまだ下がり切っていない」と語っていたという逸話が残る。葬儀では、遺言により参列者が焼香の代わりに方位磁石を一度東へ向ける儀礼が採用された[3]。
人物[編集]
日沙羅は、極端に几帳面である一方、説明の順序だけは常に独特であった。たとえば会議では、結論を先に述べる代わりに「本日の潮位」と「前夜の風向」を冒頭に置き、聴衆を半ば沈黙させてから本題に入ったという。
また、彼はの襟章を自作することで知られ、夏季には真鍮製、冬季には木製を用いた。これにより、同席者が彼の階級ではなく季節を先に察知できるとされたが、実用性は乏しかった。なお、彼が最も好んだ言葉は「規律は静かな波である」であったとされる[4]。
逸話として有名なのは、のでの講演中、演壇の真後ろに置かれた軍旗の位置が3寸ずれていることを発見し、講演を45分中断して修正させた件である。聴衆は困惑したが、翌日の記録写真では旗の角度が確かに改善されており、以後、彼の「視認精度」は伝説化した。
業績・作品[編集]
日沙羅の代表作は『潮位式統帥術試案』、『海図礼法便覧』、『三段階敬礼法解説』の3冊である。いずれも関係者向けの限定印刷であったが、後年の儀礼研究者の間では、軍事史と身体技法の接点を記した希少資料として扱われている。
彼はまた、にへ提出した「式典の左回り原則」報告で知られる。これは、隊列の左回転を1回多くすることで、参列者の記憶定着率が上がるという理屈であったが、実地試験では記録係の筆圧が上がっただけだったともいう。なお、同報告書の付録には「祝砲は3発ではなく2発半でよい」との奇抜な注記があり、現存する複写本には赤鉛筆で取り消し線が引かれている[5]。
晩年の口述草稿『海と礼のあいだ』は、の紀要で再発見され、潮汐・軍楽・献花配置の相関を論じた前半と、なぜか盆栽剪定の角度規範が続く後半が大きく評価された。研究者の間では「前半は学術、後半は執念」と評されることが多い。
後世の評価[編集]
戦後しばらくは忘れられていたが、に入ると、式典デザイン史や身体技法研究の文脈から再評価が進んだ。特にの儀礼史研究会では、彼の方法を「過剰に精密な文化的実験」と位置づけ、に小規模なシンポジウムが開催された。
一方で、潮位と統帥を結びつける理論は現在でも批判が多く、実証性に乏しいとの指摘がある。ただし、彼の文体と図版は高く評価され、軍事文書でありながらほとんど茶道具の目録のように読める点が、後世の編集者を魅了した。実際、所蔵の複製資料には、閲覧者がメモとして「意味は不明だが姿勢は美しい」と残している[6]。
にはの特集番組『失われた儀礼の海図』で取り上げられ、一般にも「変人だが面白い人物」として知られるようになった。もっとも、番組内で再現された敬礼法が出演者3名とも途中で同じ方向に迷子になったため、視聴者の記憶にはむしろそちらが残ったとされる。
系譜・家族[編集]
日沙羅家は、もともとに仕えた小規模な船具商であったとされる。祖父・日沙羅宗蔵は羅針盤の修理に長け、父・兼次は帳簿、母・ふさは奉納旗の縫製を担っており、家全体が航海と儀礼の中間に位置していた。
妻はに結婚した日沙羅ミツで、の女学校で裁縫を教えていた。夫妻の間には子が2人おり、長男・日沙羅一馬は関係の技術職、長女・日沙羅綾は地方新聞の校正者になったとされる。なお、綾が父の草稿に赤入れしたところ、「この人は自分の論点より紙の折り目を気にしている」と書かれていた逸話が残る[7]。
親族の中には彼を本気で軍人だと思っていた者もいたが、法事の席で本人が潮汐図を広げ始めたため、以後は「うちの将軍は海に近い」と表現されるようになったという。
脚注[編集]
[1] 『潮位と儀礼の近代史』第2巻第4号、pp. 112-119。
[2] 渡辺精一郎「沖合敬礼角と史料批判」『東京帝国大学史学紀要』Vol. 18, pp. 41-58。
[3] 逗子市史編纂室編『昭和末期の葬送慣習』逗子市教育委員会、1971年、pp. 203-205。
[4] 佐久間華子「軍服意匠における季節変化」『礼法と身体』第7号、pp. 9-17。
[5] 『海軍省臨時報告集 第十四輯』、海図文化協会、1950年、pp. 77-81。
[6] 国立歴史民俗博物館蔵『日沙羅文庫目録』所収メモ、閲覧票番号A-114。
[7] 日沙羅綾「父の草稿に見る折り目の倫理」『地方紙編集史年報』第3巻第1号、pp. 66-72。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『沖合敬礼角と史料批判』東京帝国大学史学会, 1922年.
- ^ 佐久間華子『礼法と身体の季節変化』日本儀礼学出版社, 1938年.
- ^ 田所正雄『潮位式統帥術の成立』海図文化協会, 1951年.
- ^ 山根芳信『海軍式祝典の近代化』中央考証社, 1960年.
- ^ 日沙羅綾『父の草稿に見る折り目の倫理』地方紙編集史研究所, 1974年.
- ^ 小川一成『式典設計史論』文化構造館, 1988年.
- ^ Margaret H. Ellison, Ritual Geometry in Imperial Japan, Vol. 4, University of New Albion Press, 1991.
- ^ James T. Harrow『The Tidal Command: Maritime Ceremony and Discipline』Cambridge Coastal Studies, Vol. 12, 1998.
- ^ 宮本澄子『海と礼のあいだ――日沙羅将軍の口述草稿』筑波学芸出版, 2005年.
- ^ Pierre Valois, Les rites de marée et l'État, pp. 33-71, Éditions du Môle, 2011.
- ^ 中村康平『祝砲は2発半でよいのか』海と紙の会, 2016年.
外部リンク
- 日沙羅文庫デジタルアーカイブ
- 日本儀礼史研究センター
- 海図文化資料室
- 平戸近代人物事典
- 式典設計学会オープンリポジトリ