旧帝国大学
| 成立 | 1898年ごろ |
|---|---|
| 提唱者 | 内田景山、渡辺精一郎ほか |
| 管轄 | 帝国文部省 |
| 目的 | 帝都防衛・高等教育・官僚養成 |
| 構成 | 7大学 |
| 通称 | 旧帝大、七帝連 |
| 主要拠点 | 東京、京都、東北、九州、北海道、名古屋、大阪 |
| 解体 | 1947年の学制改編で制度上消滅 |
旧帝国大学(きゅうていこくだいがく、英: Former Imperial Universities)は、が後期から初期にかけて、帝都防衛と高等教育の統合を目的として整備した大学群である。のちに学術研究だけでなく、官僚養成、地方観測網、さらには全国学生手形制度の中核としても機能したとされる[1]。
概要[編集]
旧帝国大学は、が国家中枢の知的基盤を整えるために編成した大学連合であるとされる。一般には旧制のを起点とする学術制度として語られるが、制度史の一部では、もともと各地の軍港・停車場・測候所を束ねる「学術防衛圏」の名称であったという説が有力である[2]。
この制度は、単に大学を増やすためのものではなく、学者の配置転換、学生の地方派遣、試験問題の標準化までを含む巨大な官僚装置として設計されたとされる。とりわけとの両校は、しばしば「双子の中枢」と呼ばれ、学長会議の議事録には毎回、なぜか天気図と潮位表が添付されていたという[要出典]。
成立の背景[編集]
起源については、の帝国学務臨時会議で、軍需工場の熟練技師不足が深刻化したことに端を発するという説明が一般的である。当初、大学は研究機関ではなく「技術家養成宿舎」として構想され、各校には必ず風向計と無線受信室を置くことが命じられたとされる。
この構想を主導したのが、とである。内田は工学畑の行政官で、渡辺は統計学と古典語に通じた異色の学者であり、両者は「学問は国家の気圧配置である」との奇妙な比喩を好んだ。会議録には、旧帝国大学の校章を「歯車、月桂冠、羅針盤の三位一体」とする案が残されている[3]。
なお、最初期の案ではとにしか大学を置かない予定であったが、側の有力者が「帝都の南北だけでは文脈が足りない」と主張し、最終的にが加えられたとされる。この経緯から、旧帝国大学はしばしば地理的均衡よりも「議事録の長さ」で決まった制度であると評される。
制度の運用[編集]
学部配置と序列[編集]
旧帝国大学では、各校の学部構成が微妙に異なっていた。たとえばは法学と医学を重視し、は理学と哲学を厚くし、は農学と寒冷地測量、は工学と火山観測を担ったとされる。特にには「中部試験監理局」が同居しており、学生は卒業前に必ず半径18キロ以内の橋梁の応力分布を暗唱させられたという。
序列については、公式には存在しないとされたが、実際には年度ごとに「灰色指数」と呼ばれる非公開指標が作成され、研究費、講義の開始時刻、食堂の味噌汁の濃度まで調整されていたとする記録がある。もっとも、この灰色指数の原本は1945年の空襲で焼失したとされ、現存するのは写しの写しばかりである。
学生生活と奇習[編集]
学生生活は極めて規律的であった一方、旧帝国大学では独特の慣習も発達した。新入生は必ず「帝国学帽」の角度をに合わせることを求められ、角度が1度ずれるたびに図書館で『万国地誌略』を3冊棚戻しさせられたという。これは学風の統一よりも、紙の摩耗を均一化するためだったと説明される。
また、各校には「講義欠席届」に相当するだけでなく、「雨天研究延期願」「潮風による思索不良申告書」などの特殊帳票が存在したとされる。とりわけでは、冬季に配布される試験用紙が角で凍り、答案を提出するときに紙が折れないよう、学生が袂に湯気を溜めて運んだという逸話が残る。
拡張と社会的影響[編集]
旧帝国大学制度の影響は、単なる高等教育にとどまらなかった。地方の師範学校や高等商業学校は、旧帝大の附属観測網として再編され、受験指導は「数理」「国語」に加えて「風紀」「歩幅」「昼寝の時間管理」まで含むようになったとされる。これにより、期の都市では、旧帝大出身者を中心とする「黒縁眼鏡階級」が形成されたという。
また、卒業生は官界・法曹界・新聞社・気象台に散らばり、彼らが持ち込んだのが「脚注文化」であるとする研究もある。すなわち、あらゆる会議で末尾に根拠を付ける習慣は、旧帝国大学の演習で「断定には必ず番号を付せ」と教えられたことに由来するという。このため、当時の行政文書は妙に注釈が多く、読むだけで半日を要したと記録されている[4]。
一方で、地方からの進学者に対する宿舎不足、試験の標準化による地域文化の希薄化、学術用語の過度な官僚化については批判もあった。とくにの民間新聞は、旧帝国大学を「知識を育てる学校というより、知識を分配する倉庫である」と評したことで知られている。
再編と終焉[編集]
20年代に入ると、旧帝国大学は戦後改革の対象となり、制度としては解体されたとされる。ただし実態としては、名称が変わっただけで内部の手続きはかなり長く残存し、時点でも教授会が「帝国式起立順序」を維持していたという証言がある。
再編の際には、各大学が旧制度の遺物をどこまで引き継ぐかをめぐり激しく争った。なかでも論争になったのは、卒業証書の箔押し色であり、が金、が銀、が青銅を主張した結果、最終的に「地域の伝統を尊重しつつ統一する」として、すべて薄い鼠色に統一された。これが後年、「帝国灰」と呼ばれる独特の卒業証書デザインの原型である。
なお、制度廃止後も旧帝大出身者の結束は強く、年1回の会合では今なお学歌の代わりに各校の気圧を報告する慣習があるとされる。学術史家のは、旧帝国大学は「消えた制度ではなく、事務書類の癖として生き残った制度」であると述べている。
批判と論争[編集]
旧帝国大学をめぐっては、創設当初から「国家による知の集中」であるとの批判があった。とりわけとの間では、どちらが本当に本流かをめぐる象徴的対立が続き、両校の図書館は同じ日に同じ本を別々に修復するという無駄な競争を繰り広げたとされる。
また、制度の実態を示す一次資料としてしばしば引用される『帝国大学配置心得』は、現存する版によって章立てが3種類存在し、しかも各版でページ番号が7ページほどずれている。このため、一部の研究者は「旧帝国大学とは教育制度ではなく、複数の官庁が勝手に使った総称に過ぎない」と指摘している[5]。
ただし、反対にこの曖昧さこそが制度の本質であるとする見解もある。すなわち、旧帝国大学は厳密な定義を持たないままに、権威、統計、校舎、試験、学生食堂を束ねた「名前の強い制度」であり、その強さが戦後も長く残響したというのである。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯辰夫『帝国高等教育の配列と灰色指数』東洋学術出版, 1962.
- ^ 内田景山『学術防衛圏構想ノート』帝国教育研究会, 1911.
- ^ 渡辺精一郎「旧帝国大学における寒冷地測量の制度化」『大学史研究』Vol. 8, No. 2, pp. 41-76, 1974.
- ^ Margaret A. Thornton, The Gray Registry and Imperial Academia, University of London Press, 1983.
- ^ 高橋松之助『帝国大学配置心得の成立と変遷』新教育史叢書, 1958.
- ^ Harold K. Spencer, Notes on the Former Imperial Universities of Japan, Vol. 3, pp. 201-244, Cambridge Historical Monographs, 1991.
- ^ 吉良文彦「学帽角度37度規定の起源」『校風と統制』第12巻第4号, pp. 9-18, 2002.
- ^ A. N. Bell, The Meteorology of Student Hierarchies, Vol. 1, No. 1, pp. 1-29, 1977.
- ^ 小松原由紀『帝国灰と戦後証書の意匠』文化書房, 1999.
- ^ 『帝国大学配置心得』復刻版解題、中央史料刊行会, 2014.
外部リンク
- 帝国高等教育史資料館
- 旧帝大アーカイブス
- 学術防衛圏研究会
- 帝国灰データベース
- 七帝連記念館