星を渡る港
| 名称 | 星を渡る港 |
|---|---|
| 読み | ほしをわたるみなと |
| 英語名 | Harbor of Crossing Stars |
| 分類 | 航海天文学・港湾儀礼 |
| 起源 | 明治後期の沿岸測量事業 |
| 中心地 | 横浜・神戸・長崎の三港連携 |
| 主要人物 | 渡会清十郎、M・E・ロウズ、樋口ソラ |
| 運用期間 | 1897年-1934年 |
| 特徴 | 星座の高度に応じて潮位標が上下する |
星を渡る港(ほしをわたるみなと)は、のために設計されたとされる、を実際の海図のように読み替える特殊な港湾施設である。主に末の沿岸部で発達したとされ、夜間にのみ開港する「渡星航路」の中継点として知られている[1]。
概要[編集]
星を渡る港は、星の位置を基準に出港時刻と入港岸壁を決定する港湾制度である。一般の港が潮汐・風向・積荷を重視するのに対し、星を渡る港ではとの見かけの角度差が最優先され、港内の信号灯も恒星時で点灯したとされる。
この制度は、遠洋航路における「夜の航行不安」を解消するため、の外局的な研究班と民間の造船技師によって整備された。もっとも、実際には郵便物の到着時刻を星明かりの満ち引きに合わせるための官僚的装置であったとの指摘もあり、当時の港長日誌には「潮は読めるが、星は気分で遅れる」との記述が残る[2]。
歴史[編集]
成立の背景[編集]
起源は、で行われた冬季夜間視察に求められる。測量士のが、停泊船の位置誤差が夜空の星図と驚くほど一致することを発見し、これを「天球の岸壁」と呼んだのが始まりとされる。翌年にはの倉庫街で試験運用が行われ、倉庫番号を星座名で置き換える実験が実施された。
この段階では単なる冗談として扱われていたが、の大嵐で通常の灯台が機能不全に陥った際、星位標示板を用いた入港誘導が功を奏したことから、制度としての正当性が与えられた。なお、この功績により渡会はから感謝状を受けたが、同じ年に「星位と船腹重量の相関」に関する論文で再提出を命じられている[3]。
制度化と拡張[編集]
にはに第二港が開かれ、さらにと連携して、夜間貨物の通関順序を「全天球式」に並べ替える運用が導入された。輸入品は、茶は、絹製品はに割り振られ、書類上の到着地と実際の接岸地が一致しないため、会計係の精神衛生に悪影響を与えたと記録されている。
1910年代に入ると、出身の天文学者が加わり、港内の誘導信号を十二星座ごとに標準化した。ロウズは英語圏で「港は星を映す鏡である」と述べたが、日記には「実際には鏡より書類が多い」とも書いており、学術的熱意と官庁的疲労が同居する珍しい人物像を示している[4]。
衰退と終焉[編集]
以降、無線方位測定と電灯埠頭の普及により、星を渡る港の必要性は急速に低下した。特に後の再整備で港湾照明が常設化されると、星位に基づく夜間誘導は「浪漫的ではあるが実務に向かない」と判断された。
最終的に、の告示により制度は廃止されたが、の一部倉庫ではその後もしばらく星座名の棚札が残った。1948年の調査では、なお27枚の星座札が確認され、そのうち4枚は裏面に魚の名前が書かれていたため、実務と迷信の境界が曖昧であったことがうかがえる[5]。
仕組み[編集]
星を渡る港の運用は、星位盤、潮位尺、方位輪の三点で構成されていた。星位盤は真鍮製で、直径は平均で1尺8寸から2尺1寸程度、港ごとに微妙な差異があり、のものは海風で狂いやすいとして斜めに設置されていた。
入港時には、船長がまずの星を読み、その後に「渡星係」と呼ばれる職員が岸壁番号を発行した。岸壁番号は1から12までではなく、、、などの星座名を用いるのが原則であったが、繁忙期には不足するため「小カニ座」「臨時きりん座」などの臨時表記が用いられたという。
また、夜間の伝達に用いられた青色信号は、の規格よりやや暗く、当時の職員は「見えにくいが高尚である」と評していた。後年の証言では、信号の濃淡が港長の機嫌で変わったとの話もあり、科学制度としてはかなり不安定であったことが示唆される。
主な港[編集]
横浜星港[編集]
横浜星港は最初期の実験港であり、周辺の岸壁に星位標示塔が置かれていた。夜間に到着する便を中心に運用され、荷役員が星図を見ながら酒樽を運ぶ姿が名物となった。もっとも、星図を逆さに読んでしまい、樽が二晩続けて反対側の倉庫に入った事件が有名である。
神戸渡星港[編集]
神戸渡星港は商社連携が最も進んだ港で、の帳簿係が星座記号をそのまま商品コードに転用した。ここではを「酒類」、を「繊維」とした独自規格が定められたが、輸出先が理解できず、に一度だけ通関遅延が発生した。遅延の理由は「星座の綴りが英仏両語で違うため」とされ、関係者の間で長く笑い話になった。
長崎天球埠頭[編集]
長崎天球埠頭は、海外航路の終着点として最も神秘性が高かったとされる。埠頭の外灯が毎月一度だけ消され、星明かりのみで接岸する「無灯儀礼」が行われた。地元の古老によれば、初回の儀礼で船が一隻だけ月を岸壁と誤認して停泊したため、以後は月齢表の添付が義務化されたという[要出典]。
社会的影響[編集]
星を渡る港は、港湾技術というよりも時間感覚の改革として受け止められた。星で港を読む習慣は、漁師や荷役夫の間に「今夜は何座で働くか」という独特の会話を生み、の新聞ではこれを「労働の天文化」と評した。
一方で、星座名を用いることで外来語の翻訳が進み、の船員教育では星座記号が半ば暗号として利用された。結果として、現場での連絡は確実になったが、書類が過剰に神秘化され、税関職員が「これは伝票ではなく星詠みである」と抗議した記録も残る。
批判と論争[編集]
批判の中心は、制度が科学的根拠を欠くという点にあった。とりわけのは、星位と潮位の関係に「因果の飛躍」があると報じ、渡会式運用に対して懐疑的だった。
ただし支持者は、星を渡る港の価値は実用性ではなく、海上労働に秩序と美意識を与えた点にあると主張した。実際、港湾労組の一部では夜勤明けに星座を見上げる習慣が定着し、冬場の欠勤率が1.7%下がったという奇妙な統計もあるが、母数が42名しかないため、現在ではほとんど引用されない[6]。
遺産[編集]
制度自体は廃止されたが、その痕跡は各地に残っている。横浜の旧倉庫群には星座札の意匠が転用され、神戸では夜景観光の案内板に「渡星路」という表現が使われている。また、長崎の一部の航海学校では、今も初学者に対して「星を先に読むな、港を先に疑え」と教える慣習がある。
文化面では、星を渡る港は文学や歌謡にも影響を与えた。とくに初期の港唄には、岸壁を星に見立てる比喩が頻出し、戦後の批評家はこれを「技術が神話化した最後の例」と呼んだ。なお、所蔵の未整理資料には、星位盤の設計図と見られるものが17枚あるが、うち3枚は実際には碁盤の裏面である。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡会清十郎『星位港湾論』海潮社, 1903年.
- ^ M・E・Rouse, “Harbors by Constellation,” Journal of Maritime Astronomy, Vol. 12, No. 3, pp. 41-68, 1914.
- ^ 樋口ソラ『港と星の間にあるもの』新潮測量研究会, 1921年.
- ^ 佐伯達也「渡星港における岸壁記号の標準化」『港湾史研究』第8巻第2号, pp. 115-139, 1930年.
- ^ Helen W. Carter, “Night Customs and Stellar Quays,” Proceedings of the Royal Astronomical Dockyard Society, Vol. 5, pp. 9-27, 1919.
- ^ 神戸市港湾資料編纂室『神戸渡星港年報』1927年度版, 1928年.
- ^ 長谷川篤『天球埠頭の社会学』北方書院, 1936年.
- ^ 中村静香「星図と税関書類の相互変換について」『逓信史学』第14号, pp. 203-221, 1949年.
- ^ Pierre Lemont, “The Moon That Mistook a Wharf,” Revue des Ports Imaginaires, Vol. 2, No. 1, pp. 77-83, 1928.
- ^ 海洋文化研究会『星を渡る港資料集成』第3巻, 1962年.
- ^ 遠山久美子『港湾儀礼の近代』みなと出版, 1957年.
外部リンク
- 星港資料アーカイブ
- 渡星港湾史研究所
- 天球埠頭デジタル年表
- 旧岸壁標識保存会
- 港と星の民俗館