木戸 貫木
| 氏名 | 木戸 貫木 |
|---|---|
| ふりがな | きど かんき |
| 生年月日 | 1897年4月18日 |
| 出生地 | 福井県敦賀郡気比村 |
| 没年月日 | 1961年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗測量家、地図儀式研究者、随筆家 |
| 活動期間 | 1921年 - 1959年 |
| 主な業績 | 貫木法の体系化、方位札の標準化、港湾民俗図の作成 |
| 受賞歴 | 帝都地理学会奨励章、近畿民俗文化賞 |
木戸 貫木(きど かんき、 - )は、の民俗測量家、地図儀式研究者である。とくにの提唱者として広く知られる[1]。
概要[編集]
木戸 貫木は、末期から中期にかけて活動したである。港町における倉庫配置、潮位、祭礼動線を一枚の図に統合する独自手法「」を提唱し、系の地理学者と系の祭祀記録係の双方から注目を集めたとされる[2]。
もっとも、彼の名声は学界よりも、やの漁村で用いられた方位札と、の古地図愛好家の間で先に広まった。木戸は測量器具よりもとを好み、地面に直接円を描いては「土地は線ではなく癖である」と語ったという逸話が残る[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
木戸は、敦賀郡気比村の廻船問屋の三男として生まれる。家業は一見裕福であったが、父・木戸庄左衛門がの不振で度々帳簿を付け替えたため、幼少期から「数字は正しさより整合である」と教え込まれたとされる。後年の几帳面な図式化は、この家庭環境に由来するとの説が有力である[4]。
、の拡張工事を見物した際、木戸は埋立地の杭の間隔が季節ごとに異なることに気づき、地面を固定的な面ではなく変動する「交渉の場」とみなすようになったという。これが後のの原初体験であったと、本人は晩年の手記で述べているが、手記の所在は確認されていない[要出典]。
青年期[編集]
にへ進学し、統計学を学ぶかたわら、郷土研究会で港湾祭礼の記録整理を行った。指導教員のに師事し、当初は商業統計の補助員として採用されたが、地図上の余白に神事の開始時刻を書き込んだ帳票が評判となり、学内で「余白の木戸」と呼ばれたという[5]。
にはへ移り、系の測量補助業務に従事した。だが木戸は、等高線の精密さよりも市場の香具師がどこに立つかを重視し、官製地図に「露店密度」を書き込んだため、上司からたびたび注意を受けたとされる。なお、この時期に同僚のから古いを譲り受け、以後の携行品となった。
活動期[編集]
、木戸はの港湾再整備計画に参加し、荷役線、祭礼路、避難路を同一図面上に重ねる試案を提出した。これが後に「貫木法」と呼ばれる手法の嚆矢であり、関係者の間では「図面を読むのではなく、図面に町を歩かせる方法」と説明された。木戸はこの試案の説明会で、からまでの徒歩所要時間を潮汐表で補正し、実測誤差を平均に抑えたとされる[6]。
にはの小委員会で「港湾民俗図」の概念を発表した。これは港の施設配置を行政・信仰・商慣習の三層に分けて表示するもので、当初は奇抜とされたが、後の再建計画において、避難経路の読解補助として一部採用されたとの記録がある。木戸自身は「地図は正確であるほど、住民の迷いを隠す」と述べたとされる。
からはの編集委員を務め、全国港湾の聞き書き調査を主導した。調査票は全部で枚に及び、うち枚に「潮待ちの雑談」が余計に書き込まれていたため、後年の研究者がむしろそれを主要資料として扱った。戦時中は軍需輸送図の作成にも関与したが、輸送量の欄の横に漁師の縁起担ぎを書き込んだため、軍務局から再提出を求められたという。
晩年と死去[編集]
はに移り、私設研究室「貫木地図庵」を開いた。ここでは若手研究者や地元の中学生に対して、紙地図の折り目と地域の記憶の対応関係を教え、折り紙のように地図を畳む独自の講義が行われた。晩年の木戸は視力の低下により測量をやめたが、代わりに糸を張った板の上で方位を判断する「糸方位法」を考案したとされる。
11月3日、鎌倉市内の自宅でで死去した。死因は脳溢血とされるが、最期まで枕元にあったのは地図ではなく、の祭礼で使われた古い木札であったという。葬儀には者、港湾関係者、地元の魚問屋など約人が参列し、弔辞の最後に「貫木法は、土地を測るのではなく土地に挨拶する術であった」と読まれた[7]。
人物[編集]
木戸は寡黙である一方、酒席では急に饒舌になり、地図上の川を指でなぞりながら「川は記憶の抜け道だ」と語ったとされる。衣服は常にで汚れていたが、本人は「汚れではない、修正の途中である」と言い張ったという。
また、若い頃から香りに敏感で、港の倉庫の匂いだけで潮の満ち引きを言い当てたという逸話がある。これは後年、弟子たちにより「木戸式嗅覚補正」と呼ばれたが、科学的裏付けは確認されていない。一方で、凡庸な行政文書には極端に冷淡で、書類の余白が未満だと内容を信用しなかったと伝えられる。
木戸はまた、句読点の打ち方に独特のこだわりを持ち、地図注記の末尾に必ずの点を置く習慣があった。この点は「帰港点」と呼ばれ、後に一部の編集者が模倣した結果、学会誌が妙に装飾的になったという。
業績・作品[編集]
木戸の代表的業績は、に完成した『』である。これは、、など港湾の地形図に、祭礼、荷役、伝承を重ね合わせた大判図集で、当時の印刷事情を考慮しても異様に詳細であった。特にの頁には、各波止場ごとの「立ち話の頻度」まで記号化されており、後の都市研究者にとって珍重された。
には『』を刊行し、地図作成を「測る・聞く・待つ」の三段階に整理した。このうち「待つ」は、調査対象地域で最低は宿泊し、夜明け前の音を採取する技法である。木戸はこれを「港の朝は、前日の夜より古い」と表現した[8]。
晩年にまとめた『』は、糸の張力と人の歩幅の関係を論じた小冊子で、全しかないにもかかわらず、の民俗工学系研究者に密かな影響を与えた。なお、付録に収録された「風向きに応じて地図を半回転させる表」は、実務上ほとんど役に立たなかったが、講義では人気が高かったという。
後世の評価[編集]
以降、木戸は長く異端の在野研究者として扱われたが、にの準備室が遺稿を再評価し、港湾史・都市民俗学・視覚文化研究の交差点に位置づけられた。とくに、行政図面に住民の移動感覚を組み込んだ点は、現代の研究に先行する発想であったとする評価がある[9]。
一方で、彼の方法は再現性に乏しく、弟子ごとに「貫木法」の定義が違うことから、しばしば批判の対象にもなった。ある研究者は、木戸の成果は体系というより「港町の会話を図面に閉じ込めた装置」であると評し、別の研究者は「本人が一番、何を体系化したのか分かっていなかった可能性がある」と述べている。
に入ると、観光案内図や防災マップの文脈で木戸の名が再び引用されるようになった。とくにのでの展覧会『地図は祈る』では、彼のノートに残された波止場の走り書きが高く評価され、来場者のうち約が「地図の見方が変わった」と回答したという。
系譜・家族[編集]
木戸家はにおいて船具商を営んだ家系とされ、父・木戸庄左衛門、母・つるのあいだに生まれた。兄に木戸半之助、妹に木戸とよがいたと伝えられるが、戸籍上の記載に揺れがあり、研究者のあいだでは「半之助は実在せず、帳簿上の兄であった」とする説もある[10]。
妻はに結婚した木戸初枝で、敦賀の呉服店の娘であった。初枝は木戸の調査旅行に同行し、地元の言い回しを細かく記録したことで知られる。夫妻の間には長男・貫一、次男・正木の2人がいたが、いずれも父の研究に強い関心を示さず、長男はで会計士、次男はで漁網製造に従事したとされる。
なお、木戸の親族の中には「地図よりも先に方角を当てる」ことを得意とした遠縁の女性がいたとされ、木戸はその人物を自身の方法論の原点としてしばしば回想していた。ただし、この遠縁者の名は資料ごとに異なり、、、の3通りが確認されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 木村晴雄『港と祈りの地図学』青潮書房, 1948.
- ^ 渡辺精一郎『民俗測量概論』東京地理出版, 1938.
- ^ 中村佳代子『貫木法の成立と変容』日本港湾文化研究会, 1979.
- ^ A. Thornton, “Ritual Cartography in Prewar Japan,” Journal of East Asian Urban Studies, Vol. 12, No. 3, pp. 201-229, 1986.
- ^ 佐伯雄一『図面の余白と地方知』白樺社, 1964.
- ^ 松平宗一『港湾民俗図式資料集成』帝都民俗学会, 1951.
- ^ E. S. Wilton, “The Kido Method and Its Misreadings,” Bulletin of Maritime Folklore, Vol. 7, No. 2, pp. 44-68, 1992.
- ^ 木戸初枝『潮待ちの記録』私家版, 1967.
- ^ 小林冴子『戦後日本における地図儀式研究』国土文化出版社, 2008.
- ^ 『糸方位抄 解題』鎌倉地図庵出版部, 1973.
- ^ 河合信彦『地図は祈るのか――木戸貫木小伝』海鳴文庫, 2015.
外部リンク
- 帝都地理学会デジタルアーカイブ
- 鎌倉地図庵資料室
- 港湾民俗図研究ネットワーク
- 古図帖オンライン
- 敦賀民俗記録館