本拠地敵地二面同時試合制
| 名称 | 本拠地敵地二面同時試合制 |
|---|---|
| 別名 | 二面制同時開催、HADS方式 |
| 初採用 | 1934年 |
| 提唱者 | 沢渡 恒一郎 |
| 主な舞台 | 東京都、横浜市、神戸市 |
| 採用分野 | 野球、蹴球、興行競技 |
| 特徴 | 一方の会場で攻撃、他方で守備を行う |
| 廃止 | 1978年頃から段階的縮小 |
| 関連機関 | 日本二面競技協会 |
本拠地敵地二面同時試合制(ほんきょちてきちにめんどうじしあいせい)は、にとの双方で試合を同時進行させ、総得点または総判定で勝敗を決する特殊な競技運営方式である。主にの興行効率化策として知られている[1]。
概要[編集]
本拠地敵地二面同時試合制は、とに設けられた二つの会場を、同一の試合として連結する運営方式である。たとえば側の会場でが行われている間、側では同じ回のが進むとされ、観客は片方で歓声、もう片方で静寂を共有することになった[1]。
この方式は、輸送費の高騰との会場不足を背景に、にの興行関係者が考案したとされる。もっとも、実際には競技性よりも「二会場を一枚の切符で見せる」ことを重視した広告策であったという説もあり、当初からが付くほど定義が揺れていた[2]。
歴史[編集]
成立の経緯[編集]
起源は初期のにあった貸席「三共館」に求められることが多い。ここで演出主任であったが、同時刻に異なる球場を結ぶ「双子試合」の草案を配布したのが最初とされる。沢渡は、の船腹不足に悩む興行主から、遠征試合の往復を減らす方法を問われた際、「ならば往復しなければよい」と答えたという逸話が残る。
1934年5月12日、の臨時球場と外周臨設グラウンドを結ぶ試行試合が実施された。記録上は4,860人、係員数212人、伝令係37人であったが、うち12人は得点板を書き換えるために雇われた書記であり、試合中に両会場のスコアが3回だけ一致したことが新聞に大きく報じられた[3]。
制度化と普及[編集]
にはが設立され、会場間の通信にと手旗信号を併用する標準規格が定められた。協会は「一方の会場に遅延が出た場合、もう一方の会場で攻守を3球分だけ停止する」という補正規定を導入し、これを「共鳴停止」と呼んだ。
太平洋戦争期には物資統制の一環として一時縮小したが、の講和後にとを結ぶ都市対抗興行で再評価された。とりわけ1956年夏季シリーズでは、両会場で同じ打者が同時にを記録したため、実況アナウンサーが「これは一粒で二度おいしい」と発言し、流行語になったとされる[4]。
技術的特徴[編集]
方式の中核は「鏡像進行」と呼ばれる進行管理であった。これは、両会場のが共通の笛の音を受信して同時に判定を下すもので、遅延は最大で1.7秒まで許容された。なお、1959年にで行われた実証では、風向きの違いにより片方の会場だけが2回増える現象が発生し、技術者が扇風機14台を並べて補正したという。
観客向けには「片方の席を売れば、もう片方は見えなくても試合経過がわかる」という利点が強調されたが、実際には遠隔地の得点が相互に食い違うことも多く、記録員の間では「二面式は勝敗より筆記の忍耐を競う」と揶揄された。
運用方法[編集]
運用は概ね、主会場でを持つ側が、副会場ではを持つという対称構造であった。ただし、やが発生した場合には、片側のみの進行を認める「片面優先条項」が適用された。
また、同点時には両会場のを騒音計で換算し、総合値が高い方を勝者とする「音圧決勝」が採用された時期がある。これはの大会で導入されたが、隣接するから苦情が殺到し、わずか2年で廃止された[5]。
主な採用事例[編集]
野球[編集]
最も広く採用されたのは野球であり、系の興行では、投手交代のたびにとの双方で同じ背番号の選手が着用された。1954年の春季大会では、ある選手が本拠地側で、敵地側でを同時に記録したと伝えられ、記録員協議の末に「半分本塁打、半分三振」という独自統計が採用された。
一部の球団は、遠征費の削減よりも「二会場に同じスター選手が現れる」という宣伝効果を重視していた。そのため、実際には双子や背格好の似た控え選手を配置することが横行し、の社会面に「選手の影が薄くなる」と批判記事が載ったこともある。
蹴球[編集]
蹴球では、同時進行する2会場のうち一方で、他方でを務める「役割反転制」が人気を集めた。とくにの港湾地区では、片側の試合で退場した選手が、もう片側では先に警告を受けているという珍事が起こり、審判団が記録用紙を3冊綴じ直したという。
の国際親善大会では、にこの制度を説明するため、通訳が「あなたは二つの国に同時にいる」と訳してしまい、相手国側が真顔で抗議したとされる。これにより、以後の国際試合では「二面同時」は主として国内興行に限られるようになった。
地方興行と娯楽競技[編集]
地方都市では、競技そのものよりも縁日と結びついた「見比べ興行」として発達した。では片方を近く、もう片方を跡地に置き、同じ入場券で両方の屋台を巡れる仕組みが好評であった。
一方で、にで行われた試合では、両会場のがハウリングを起こし、実況が互いの実況を打ち消す事態となった。観客の一人が「これは競技ではなく、音の綱引きである」と述べたことが、後年の研究書で引用されている[6]。
社会的影響[編集]
本拠地敵地二面同時試合制は、の興行文化において、遠征と地域対立を同時に商品化した点で特異である。観客は「勝つか負けるか」ではなく、「どちらの会場でより大きく勝ったことにするか」を競うようになり、はスコア欄の横に小さな会場写真を載せることが定着した。
また、への副次的影響も指摘されている。二面同時試合の開催日は、が臨時列車を両方向に増発したため、沿線の弁当販売が平常日の2.3倍に達したという。これを受けて一部自治体では、競技開催を前提とした「双方向観客動線」の整備計画が作成されたが、実際には駅員の負担が増えただけであったともいわれる。
批判と論争[編集]
批判の中心は、公平性の曖昧さにあった。両会場で同じ試合を行う以上、、、が一致することはなく、結果として「本拠地有利でも敵地有利でもない、ただの二重不公平である」とする論者もいた。
さらに、1960年代後半には、得点記録を本部が手作業で統合していたため、の記録員が3試合連続で逆の勝敗を掲示する事故が起きた。これに対しては調査委員会を設置したが、報告書の結論は「制度自体に問題があるというより、二つあることが問題である」と要約され、ほとんど進展しなかった。
なお、一部の愛好家は現在でもこの方式を「競技の純化以前の、もっとも人間くさい運営」と評価しているが、実際に経験した関係者の多くは沈黙を守る傾向にある。
衰退[編集]
衰退は後半、放送技術の進歩によって加速した。衛星中継により一会場で複数角度を示せるようになると、わざわざ二つの会場を走らせる必要が薄れ、1978年のを最後に大規模採用は途絶えたとされる。
ただし、地方の祭礼や学校行事では、簡易版の二面同時進行が1980年代まで残存した。運動会で赤組と白組を別校庭で同時実施し、最後にが両方の結果を足し合わせる慣例は、その名残であると説明されることがあるが、これは学校側がただ単にグラウンドを借りられなかっただけという説も根強い。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 沢渡 恒一郎『二面試合興行論』三共館出版部, 1935.
- ^ 日本二面競技協会編『HADS方式運用細則』協和スポーツ書房, 1938.
- ^ 田島 俊介「本拠地敵地二面同時試合制の記録管理」『スポーツ史研究』Vol. 12, No. 3, pp. 41-58, 1961.
- ^ Margaret L. Haversham, “Mirror Games and Dual-Venue Scheduling in Prewar Japan,” Journal of Comparative Sport Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 119-137, 1974.
- ^ 佐伯 進『二拠点興行の社会史』中央公論体育新書, 1981.
- ^ 小泉 由美子「音圧決勝の導入と商店街騒音問題」『都市と競技』第5巻第1号, pp. 6-19, 1960.
- ^ Hiroshi A. Nakamura, “The Economics of Split Grounds,” Pacific Review of Leisure, Vol. 4, No. 1, pp. 77-93, 1959.
- ^ 北条 明『記録員のための双会場筆記術』日本記録協会, 1967.
- ^ 石川 玲子「双子試合における観客動線の実験」『交通と娯楽』第9巻第4号, pp. 203-218, 1972.
- ^ Arthur P. Bell, “When Two Fields Become One: A Curious Rulebook,” International Annals of Sporting Systems, Vol. 3, No. 2, pp. 14-29, 1969.
外部リンク
- 日本二面競技協会アーカイブ
- 昭和興行史データベース
- 双会場記録員会報
- 近代娯楽制度研究所
- スポーツ運営史資料室