本拠地敵地二面試合制
| 分類 | 試合方式・興行制度 |
|---|---|
| 起源 | 1920年代の東京・大阪間の連盟協議 |
| 主な採用競技 | 野球、蹴球、籠球、相撲興行 |
| 方式 | 本拠地戦と敵地戦の2試合合算 |
| 提唱者 | 三橋敬之助、L. M. ハーグレイヴ |
| 初の公式採用 | 1927年 |
| 特徴 | 引分再試合の抑制、旅費按分、暴風雨補正 |
| 後継制度 | 三面巡回制、準中立地決定戦 |
本拠地敵地二面試合制(ほんきょちてきちにめんしあいせい、英: Home-Away Dual Venue Match System)は、との双方で同一カードを2試合実施し、その総合成績によって勝敗を決する試合方式である。主に末期から初期ので整備されたとされ、観客動員と移動負担の均衡を図る制度として知られる[1]。
概要[編集]
本拠地敵地二面試合制は、各競技団体がとの双方において同一の対戦を行い、その合計得点または勝点で順位を決する方式である。形式上は近代的なホーム・アンド・アウェー制に近いが、二面試合制では試合の開催順序と会場の心理的優劣を厳密に差配するため、単なる往復興行とは区別されるとされる[2]。
この制度は、の関東大震災後に増加した遠征費の高騰と、都市部での観客動員競争を背景に、内の複数球団関係者が提唱したものとされる。なお、初期の文献では「敵地」ではなく「対抗地」と書かれることもあり、当時の編集者がこの語を嫌って差し替えた痕跡が残っている[3]。
成立の経緯[編集]
制度の原型は、にの旅館「松風楼」で開かれた非公式会合に求められるとされる。この会合には、東京六大学の実務担当者のほか、で興行の配船を手がけていた山根房吉、英国人統計家のL. M. ハーグレイヴが同席したと記録されている[4]。会議録には、片道試合では「雨天中止が一方に偏る」という指摘があり、双方開催にしたうえで勝敗を二面で平準化する案が採用された。
一方で、制度の設計にはの運賃改定も影響したとされる。試合日程を2日連続にすることで、団体切符の適用条件を満たし、選手移動時の宿泊費を1泊分に抑える狙いがあったという。もっとも、試合後に選手がそのまま出場地の料亭で打ち上げを行い、むしろ出費が増えたケースも多く、制度の財政効果は当初の想定ほど高くなかったと指摘されている。
制度の特徴[編集]
勝敗の算定法[編集]
勝敗は、当初は単純な総得点制であったが、の改定で「会場補正点」が導入された。これは、本拠地側に1点、敵地側に1.5点の重みを与えるもので、観客の罵声、審判の鼻息、汽笛の長さまで考慮した極めて複雑な計算法であったとされる[5]。この補正は選手から不評で、特にの投手・佐伯一郎が「点が球場の空気に吸われる」と抗議した逸話が残る。
興行上の利点[編集]
興行主にとって最大の利点は、片方の会場が不入りでも、もう片方で回収できることであった。実際、遠征時の記録では、初戦の入場者数が843人にとどまったにもかかわらず、翌日の敵地戦では紙吹雪の大量投入により1,901人相当まで膨らんだとされる。これは観客の再入場印が和紙製で、再利用が容易だったためであるともいわれる。
政治的な意味[編集]
本拠地敵地二面試合制は、単なる競技方式にとどまらず、地域間の優劣を可視化する装置としても機能した。とりわけとの対抗戦では、勝敗よりも「どちらの会場でより多くの礼状が届いたか」が重要視されるようになり、これが後の都市対抗文化に影響を与えたとされる[6]。
歴史[編集]
1920年代[編集]
、の前身とされる「全国試合調整会」が、春季大会の試験制度として本拠地敵地二面試合制を採用した。最初の適用カードは対で、初戦は、第2戦はで行われた。両校の応援団が互いの校歌を覚えて帰る副作用があり、審判報告書には「敵地側の礼儀が異様に向上した」と記されている。
1930年代[編集]
には、試合数の増加に伴い「二面試合疲労」という診断名がスポーツ医学誌に掲載された。これは移動による疲労ではなく、同じ対戦相手を2日連続で見ることによる感情の飽和を意味する独特の概念である。また、この時期にはの興行師・高木半兵衛が、敵地戦の前夜に地元音頭を流すことで合計得点を0.3点押し上げる方法を考案し、後に「音響補正」と呼ばれた。
戦後の変容[編集]
以降、GHQのスポーツ再編方針により、制度は一時的に「往復試合制」と改称された。しかし、実務上は同じ運営が続き、連盟会議の議事録では旧称が朱書きで何度も修正されている。なお、の主催者向け手引書には、雨天で敵地戦が流れた場合には「本拠地の土を小袋に詰め、準敵地として扱う」特例が載っており、これが最も有名な逸脱事例である。
社会的影響[編集]
この制度は、都市間移動の最適化に寄与しただけでなく、観客の側にも奇妙な習慣を生んだ。たとえば、からへ向かう応援団が、1日目は紺色の帯、2日目は白い襟を身につける「二面礼装」を流行させたとされる。また、旅館業界では試合日を跨いだ「敵地宿泊割」が一般化し、駅前の旅籠が試合カードの半券で相部屋を調整するようになった[7]。
もっとも、批判も少なくなかった。選手会は、2試合目の前に前日試合の結果が心理的圧力となる点を問題視し、に「勝敗は紙の上で二度つけるものではない」とする声明を出したとされる。しかし興行側は、むしろその緊張感こそが入場者数を押し上げるとして制度を維持した。
批判と論争[編集]
本拠地敵地二面試合制に対する最大の批判は、会場条件の差が公正性を損なうというものであった。特にの関係者は、敵地側が風向きの影響を受けやすいとして、試合前に扇風機の向きを抽選で決める「風向抽選法」を提案したが、実施には至らなかった。
また、統計処理を担当したハーグレイヴの報告書には、二面試合の方が「観客の機嫌の平均値」が安定するため理論上は優れているとあるが、その数値は後に彼自身が下宿の大家により改ざんされた可能性が指摘されている。なお、この部分は現存する原稿の欄外に「要再計算」とだけ記されており、研究者の間でも解釈が割れている。
その後[編集]
の前後には、より合理的な日程編成が好まれるようになり、本拠地敵地二面試合制は主要プロ競技から姿を消した。ただし、地方新聞社主催の招待試合や学生大会では、実質的な後継形態が1990年代まで残存したとされる。特にでは、地元商店街が敵地戦の翌朝にだけ売り出す「逆遠征弁当」が名物となり、制度の名残を今に伝えている。
現代では、試合方式そのものよりも、会場双方に意味を持たせる発想が評価され、eスポーツの「ダブルアリーナ制」や地域芸術祭の往復審査に影響したとされる。もっとも、制度名だけが独り歩きし、「本拠地敵地二面試合制」という語が何か非常に難解な古典競技のように誤解されることもしばしばある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 三橋敬之助『二面試合制度考』東京競技出版社, 1929.
- ^ L. M. Hargrave, "On Dual-Venue Fixtures in Urban Leagues," Journal of Eastern Sports Studies, Vol. 4, No. 2, 1930, pp. 11-38.
- ^ 山根房吉『遠征費と観客心理』横浜港運研究会, 1931.
- ^ 全国試合調整会 編『本拠地敵地二面試合制実施要項』非売品資料, 1927.
- ^ 高木半兵衛『音響補正と勝点の揺らぎ』名古屋興行協会, 1934.
- ^ Margaret A. Thornton, "Weather, Crowd and the Two-Match Principle," Proceedings of the Imperial Athletic Congress, Vol. 12, No. 1, 1936, pp. 77-104.
- ^ 佐伯一郎『点が球場の空気に吸われる日』大阪体育評論社, 1933.
- ^ 鉄道省運輸局『団体旅行と試合日程の統計』官報附録, 第18巻第7号, 1928.
- ^ Hargrave, L. M.『A Treatise on Venue Symmetry』London: Eastminster Press, 1937.
- ^ 神田スポーツ史料研究会『松風楼会合議事録抄』, 1974.
- ^ 東京競技史編纂委員会『試合方式の変遷とその奇癖』第3版, 1988.
外部リンク
- 日本二面試合制研究会
- 神田スポーツ史料アーカイブ
- 東西往復興行資料館
- 都市競技制度データベース
- 松風楼会合再現プロジェクト