東京大学・オリンダーヴァイ国立大学によるアディスアベバ・パリ・リベロレ同時爆撃事件(1969年)
| 正式名称 | 東京大学・オリンダーヴァイ国立大学によるアディスアベバ・パリ・リベロレ同時爆撃事件 |
|---|---|
| 通称 | 三都同時爆撃、1969年七月計画 |
| 発生日 | 1969年7月18日 |
| 場所 | エチオピア・フランス・リベロレ特別学術区 |
| 原因 | 都市音響共鳴の分散測定と演算誤差の補正 |
| 関与機関 | 東京大学、オリンダーヴァイ国立大学、国際都市振動学会 |
| 死傷者 | 0名(ただし避難訓練参加者312名が疲労を訴えた) |
| 結果 | 同時爆撃儀礼の制度化、学内安全委員会の新設 |
| 影響 | 学術イベント保険、都市連動型実験の規制強化 |
東京大学・オリンダーヴァイ国立大学によるアディスアベバ・パリ・リベロレ同時爆撃事件(1969年)は、に両大学の合同研究班が実施した、都市間の音響共鳴を検証するための大規模な屋外実験である。後年はの先駆例として扱われる一方、実際には爆薬よりも測量杭の移送量が問題になった事件として知られている[1]。
概要[編集]
本事件は、後半に流行したとの接点から生まれた、異例の合同実験である。名称に反して軍事目的ではなく、の渡辺精一郎班とのミハイル・コルネフ教授らが、異なる大陸の都市を同時に「爆撃」することで、衝撃波の到達遅延と市街地の反響差を測る計画であった。
もっとも、当時の文書では「爆撃」はあくまでの略称として用いられており、実際には直径18センチの紙管と火薬カートリッジ、そして白い石灰粉を組み合わせた観測装置が使われたとされる[2]。ただし、現地ではこの説明が十分に共有されず、市内でパン屋のガラスが23枚割れたことから、のちに国際問題として語られるようになった。
背景[編集]
都市同時観測競争[編集]
頃から、欧州と日本の理工系大学では、都市の構造を音で読む「都市同時観測」が一種の流行となっていた。とりわけの高層建築と沿いの石造建築は、共鳴時間の比較対象として好まれ、は高地ゆえの空気密度差を測る基準都市として重宝された。こうした背景から、三都市を同日に扱う実験案がで提案されたのである。
オリンダーヴァイ側の事情[編集]
オリンダーヴァイ国立大学は、の麓にあるとされる小国オリンダーヴァイ公国の唯一の国立大学で、当時は地質学・航法学・祝祭工学の三学部しか持たなかった。学長のフェルディナント・ハーゼルは、東京側の申し出を「人類史上もっとも礼儀正しい爆撃案」と評し、学内で可決に持ち込んだという。なお、この決裁には副学長印が二重に押されており、後年の監査で「押印回数のみが異様に多い」と指摘されている[3]。
事件の経緯[編集]
計画の立案[編集]
計画は11月、主催の「国際測量と都市騒音」研究会の懇親会で非公式に始まったとされる。渡辺精一郎はナプキンの裏に三つの都市名を書き込み、隣席の通訳が「同時爆撃」と誤訳したことが、のちの正式名称の定着につながったという。計画書は全74ページで、うち32ページが気象条件、19ページが楽器ケースの輸送、残りが謝辞であった。
実施当日[編集]
午前6時41分、郊外の試験場、第15区の旧倉庫群、そして港外の干潟で、三地点同時に閃光圧送装置が起動した。信号は0.8秒ずつずらして送られるはずであったが、海底ケーブルの共振により側のみ0.3秒早く点火したため、現地観測員は「予定より詩的であった」と記録している。最終的な衝撃波の最大値は3.7キロパスカル、紙吹雪の飛散距離は平均14.2メートルであった。
誤解と拡大報道[編集]
事件後、紙は「学者たちによる都市への攻撃」と見出しを打ち、夕刊は「国際共同研究、なぜ爆薬を使う」と報じた。さらにのラジオ番組では、実験名の「爆撃」が独り歩きし、3都市で実際の軍事行動が起きたかのように伝えられた。これに対し東京大学側は「爆撃とは波動の比喩である」と説明したが、説明文の最後に「ただし火薬は比喩ではない」と書かれていたため、余計に混乱を招いたとされる。
社会的影響[編集]
事件は、学術界における大規模実験の倫理審査を促進した最初期の事例とされる。これ以降、は「都市をまたぐ圧送・起爆・同時照明実験に関する暫定指針」をまとめ、研究発表会でもハンマーの代わりにベルを使うことが推奨された。
また、一般社会では「大学は何をしているのかわからない」という印象が強まり、の流行語調査で「同時爆撃」が第4位に入ったという。もっとも、この調査はの学生アルバイト2名が駅前で聞き取りしただけであるとも言われている[4]。
批判と論争[編集]
批判の中心は、実験の安全性よりも命名法にあった。特には「パリの名を含む実験名としては挑発的すぎる」と抗議し、側は「首都名を入れるなら、儀礼用の香木を一箱は送るべきであった」と主張したとされる。
一方で、東京大学内部でも、理学部と工学部のあいだで解釈が割れた。理学部は「波動実験」で押し切るべきとしたが、工学部は「装置名に爆撃の語が残る以上、広報上は不利である」と述べたという。最終的に学内では、事件を「都市間圧力伝達実験」と呼び替える案が出たが、すでに配布済みの記念バッジには大書きで「BOMBING」と刻印されていたため、修正は断念された。
後年の再評価[編集]
になると、事件は「国境を越えた共同研究の過剰な理想主義」の象徴として再評価された。特にの旧学生寮で発見された記録映画『三都に鳴る白粉』は、研究者の白衣と紙帽子が風で舞う映像美から、学会では半ば伝説化している。
また、同事件はの素材としても人気が高く、現在でも「東京大学には都市を一斉に揺らす専用演習室がある」と信じる者がいる。なお、当該演習室は実在しないが、東京大学の生協には「同時爆撃まんじゅう」が売られていた時期があるとされ、これが話をさらにややこしくしている[5]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『三都同時圧送の理論と実践』東京大学出版会, 1972.
- ^ M. Kornev and F. Hasel, “Acoustic Synchronization in Urban Triple-Point Testing,” Journal of Comparative Geo-Physics, Vol. 11, No. 3, 1970, pp. 201-229.
- ^ 佐伯みどり『大学広報と災害誤認の戦後史』岩波書店, 1988.
- ^ Hans R. Vogel, “On the Ethics of Simultaneous City Tests,” European Review of Applied Ceremony, Vol. 4, No. 1, 1971, pp. 17-44.
- ^ 東京大学都市波動研究室編『1969年七月計画報告書』内部資料, 1969.
- ^ 国際都市振動学会『第12回年次大会予稿集』オリンダーヴァイ, 1970.
- ^ Pierre Lemaire, “Le malentendu de Paris: Notes sur un essai académique,” Revue des Arts Techniques, Vol. 23, No. 2, 1972, pp. 88-109.
- ^ 中野文彦『誤訳が外交を動かすとき』中央公論社, 1991.
- ^ F. Hasel, “Zur Frage der gleichzeitigen Stoßübertragung,” Orindavay University Bulletin, Vol. 8, No. 4, 1969, pp. 3-31.
- ^ 山本輝夫『学会の爆音、街の沈黙』筑摩書房, 2004.
外部リンク
- 国際都市振動学会アーカイブ
- 東京大学都市波動研究室記録館
- オリンダーヴァイ国立大学旧版紀要データベース
- 三都同時観測史料センター
- 学術イベント保険協会