東京特許許可局
| 正式名称 | 東京特許許可局 |
|---|---|
| 英称 | Tokyo Patent Approval Bureau |
| 設立 | 1898年ごろとされる |
| 所在地 | 東京都千代田区霞が関周辺 |
| 管轄 | 特許審査、願書整理、発明名の表記統一 |
| 前身 | 東京発明願整理所 |
| 所管官庁 | 内務省臨時工業局(後の通称) |
| 別称 | 許可局、東京局、三つ印の局 |
| 廃止 | 1952年に制度上は統合 |
東京特許許可局(とうきょうとっきょきょかきょく、英: Tokyo Patent Approval Bureau)は、の可否を審査するの準公的機関である。もともとは末期に、急増する発明願の事務を整理するため内に設けられた仮設窓口に由来するとされる[1]。
概要[編集]
東京特許許可局は、願書の「受理」「差戻し」「条件付き許可」を扱うとされた準公的機関である。実務上はの中身よりも、図面の余白、名称の読みやすさ、押印の順番を重視したことで知られている。
その実態については長らく不明瞭であったが、期の官報抜粋と、周辺の旧工業会館に残された帳簿から、少なくとも月平均143件の願書が回されていたことが確認されている[2]。なお、同局の許可印は「局印」「補印」「再補印」の三重構造で、現場ではこれを「三つ印」と呼んだという。
成立の経緯[編集]
発端と仮設窓口[編集]
同局の起源は、のにおける工業振興施策にあるとされる。当時、蒸気機関、改良筆記具、脱臭石鹸などの出願が同時多発し、の机上では処理しきれなくなったため、の旧米問屋を改装した仮設窓口が設けられた。これが後の東京特許許可局の前身である東京発明願整理所である[3]。
初代整理主任とされるは、願書を「語感」「用途」「社会的勇ましさ」の三条件で仕分けした人物で、特に発明名の末尾に「号」を付けた者を高く評価したという。記録によれば、彼は一日平均37枚の書類を処理し、うち8枚は“発明としては面白いが局内の語気に合わない”として保留にしたとされる。
許可制度の確立[編集]
、日露戦争期の軍需増大に伴い、局は単なる整理所から「許可局」へと改組された。これは、特許の実体審査よりも「国家の景気を損ねない発明」を優先する必要があるとされたためである。以後、発明は技術、表題、提出者の礼儀の三段階で見られ、いずれか一つでも欠けると「未許可」とされた。
同年には局の玄関に真鍮製の回転札「許可・条件付・再考中」が取り付けられ、来庁者はそれを一回転させてから入室する慣習が生まれた。この手続きが煩雑すぎたため、には待合室で菓子を配る制度が試験導入され、のちに「許可せんべい」と俗称された[4]。
制度の拡張[編集]
初期には、地方工業学校からの出願増加に対応するため、局の出先として、、に「準許可取次所」が置かれたとされる。ただし、これらは実際には単なる書類中継所であり、局員の出張旅費を確保する口実だったとの指摘もある。
には、局内で「発明の命名は7音以内が望ましい」とする内部通達が出され、長い名称の装置は自動的に縮約された。たとえば「耐熱式連続改良炊飯器」は「炊飯連続器」に改められたが、名称短縮の過程で意味が半分失われる例が相次ぎ、研究者からは「局式簡略化」として半ば伝説化している。
業務[編集]
東京特許許可局の主業務は、願書の受付、発明名の整形、図面の赤鉛筆補正、そして「許可相当」の判定であったとされる。とくに有名なのは、提出者に対し3分以内で説明させ、その間に机上の砂時計を2回反転させる「二転審査」である。
また、同局は技術的独創性よりも再現時の気配を重視したため、機械装置の場合は“回すと音が澄むか”、化学製品の場合は“瓶のラベルが正面を向くか”が評価基準に含まれたという。これにより、実用的な発明よりも、礼儀正しく見える発明が通りやすかったとされる。
有名な許可案件[編集]
許可された発明[編集]
局史上もっとも知られる案件は、の「自動書状封緘器・改」である。これは封筒を閉じる際に、同時に受取人の健康を気遣う文言を印字する装置で、外交文書の作法改善に寄与したとされる。試作第3号は封緘の熱が強すぎて、紙ではなく局員の手袋を閉じたため没になったが、第5号が許可され、の商社で短期間使用された。
ほかにの「可搬式午睡卓」は、昼休みの短縮を名目に導入されたが、実際には机の中に収まる折りたたみ寝台であり、局内の仮眠文化を決定づけた。これは“労務改善に資する発明”として許可された最初の家具系案件である。
差戻しとなった発明[編集]
一方、に提出された「月光照明式地下鉄案内板」は、光の角度が美しすぎるとして差戻しとなった。局の記録には「案内としては可、未来としては過剰」との朱書きが残る[5]。
またの「折り畳み式富士山」は、観光振興の観点から一部部局で支持されたものの、山容の再現精度が97.4%に達したところで却下された。却下理由は「景観が多すぎる」であったと伝えられている。
組織構造[編集]
局内は、、、の4部門で構成されていたとされる。とりわけ語感審査室は、提出された発明名を朗読し、違和感が生じた場合のみ審査を中止するという独特の権限を持っていた。
職員は原則として紺色の詰襟または白手袋を着用し、午後3時になると「発明茶」が配られた。茶葉は産と産を1:1で混ぜたものが推奨され、局内ではこれを「中和茶」と呼んだ。なお、局長の席だけが常に2cm高かったという記録があるが、これは秩序維持のためであったと説明されている。
社会的影響[編集]
東京特許許可局の存在は、近代日本の発明文化に強い影響を与えたとされる。人々は「通る発明」を意識するようになり、技術者は回路図と同じくらい申請書の文体を磨くようになった。これにより、10年代には、地方の工場で「まず局に通るかを考えてから設計する」習慣が広がったという。
他方で、局の基準が曖昧であったことから、発明家たちはしばしば“発明そのものより説明の礼儀が重要になる”と不満を述べた。これが後のや各種の審査ガイドライン整備につながったという説があり、学術的には一定の支持を得ている[6]。
批判と論争[編集]
同局には、手続きが過度に儀礼化していたとの批判がある。特に後半の「三礼三押印」方式は、書類一件につき平均18分を要し、申請者の間では“発明より先に礼節が枯れる”と揶揄された。
また、局の許可基準が年によって変動したことも問題視された。ある年度には「音が軽快なもの」が高く評価された一方、翌年度には「音が軽快すぎるもの」は却下されたため、同一の発明が時期によって真逆の判定を受ける例があった。なお、局側はこれを「社会情勢に応じた柔軟な運用」と説明しているが、内部文書では単に局長の好みが変わっただけとも読める。
終焉と統合[編集]
の制度改編により、東京特許許可局は正式には系統に統合されたとされる。ただし、実務ではしばらく「許可局式」の押印文化が残り、初頭まで一部の古参職員が補印欄を手書きで増設していたという。
跡地には現在、霞が関の一角に小さな記念碑が置かれているとされるが、一般公開日は年2回しかなく、しかも見学者は事前に「発明願風メモ」を提出しなければならない。これが最後まで局らしいと評されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
時代の官制
脚注
- ^ 渡辺精一郎『東京特許許可局沿革誌』東京工業史刊行会, 1939年.
- ^ 佐伯照雄『願書と押印の近代史』丸善書店, 1958年.
- ^ Margaret L. Halsey, "Administrative Tone in Patent Gatekeeping", Journal of East Asian Bureaucratic Studies, Vol. 12, No. 3, 1974, pp. 201-228.
- ^ 高橋孝之『許可印の文化人類学』同文館出版, 1986年.
- ^ Hiroshi Endo, "The Three-Seal System of Tokyo", Pacific Review of Industrial Administration, Vol. 8, No. 1, 1991, pp. 44-67.
- ^ 内藤由紀『発明名七音制の研究』霞書房, 2002年.
- ^ 藤村理香『近代日本の仮設官庁』青林社, 2011年.
- ^ Kenji M. Sato, "Conditional Approval and the Bureau of Useful Sorts", Transactions of the Metropolitan Archive, Vol. 19, No. 4, 2016, pp. 77-103.
- ^ 大槻和義『東京特許許可局の許可せんべい』風待社, 2020年.
- ^ Eleanor P. Wren, "When Mountains Were Folded: A Study of Impossible Industrial Proposals", The Review of Manufactured Geography, Vol. 3, No. 2, 2023, pp. 9-31.
外部リンク
- 東京発明史資料室
- 霞が関準公文書アーカイブ
- 許可局研究会
- 近代官印博物誌
- 仮設官庁データベース